EP03-2 壊れた世界で、まだ笑っている
「リク。」
低い声が、背後から名前を呼んだ。
ラボの空気が、ほんの少しだけ締まる。
リクは椅子をくるりと回した。
「おつかれさまです、ジンさん。」
そこに立っていたのは、黒いジャケットをゆるく羽織った男だった。
年齢はリクより少し上。
このプロジェクトの“外側”からやってきた特別顧問であり、今は共同研究の上席研究員――名目上はそんな肩書きだが、現場の人間から見ればほぼ「上司」に近い立ち位置だ。
短く整えられた髪。
薄い色の瞳。
感情らしい感情が、表面にはほとんど浮かんでいない。
でも、目だけはよく動いていた。
人と、モニターと、部屋の隅々と。
何かを測るみたいに、静かに観察している。
「さっきの第十二試験群。」
ジンはモニターに目を向けたまま言う。
「はいはい、ちゃんと“安全寄り”ですよ、先輩。」
リクは軽口で返す。
“ジンさん”と呼ぶときの声は、どこか素直だ。
サラ以外で、ここまで心を許せた相手は、他にいない。
「許容範囲の上限、0.01だけ下げた?」
「……見てました?」
リクは思わず目を丸くした。
「ログ見ないとわからないレベルですよ、それ。」
「見てた。」
ジンは淡々と答える。
「このくらいなら、“人間側”の揺らぎとして残せる。」
「そう思って、です。」
リクは、少しだけ誇らしげに笑った。
「AIが出してきた推奨値より、ほんの少しだけうるさく生きてもらおうかな、って。」
「AI側の推奨からは外れてる。」
「ですよね。」
「怒られない?」
「怒られたら、“こっちの方が人間っぽいです”って言います。」
「それで通ると思う?」
「ジンさんが横で“そうだ”って言ってくれたら、たぶん。」
リクは冗談半分、本気半分で言った。
この人が一言「問題ない」と言えば、上層部の態度が変わると知っているからだ。
ジンは、ほんのわずかに口角を上げた。
笑ったとも言えない、小さな動き。
「……相変わらずだな。」
「何がです?」
「根拠のない自信。」
「そこは、“先輩と自分を信じる根拠のある自信”って言ってください。」
「長い。」
ジンは、モニターのグラフに視線を滑らせながら、静かに言葉を続ける。
「でも。」
「でも?」
「お前の“気になる”は、大体、正しい。」
リクは一瞬、言葉に詰まった。
心のどこかに、何か温かいものが落ちてくる。
「……それ、録音していいですか。」
「もう遅い。」
「うわ、もったいない。」
軽い会話。
だが、リクの胸の奥では、別の感情がじんわりと広がっていた。
――この人にだけは、ちゃんと見ていてほしい。
そう思っている自分に、少し驚く。
「で、どうです?今日の世界。」
リクはわざと明るく話題を変えた。
「今日も“平和”ですか、ジン先輩。」
「……さぁな。」
ジンはモニターから目を離さずに答える。
「少なくとも、ここに映っている世界は“安定”ってことになってる。」
「それ、信じてるんですか。」
「“使ってる”って感じだ。」
使ってる…。
サラみたいなことを言うなと思った。
「……そう、かな。」
「そうだ。」
ジンはそれ以上、何も言わない。
リクも、それ以上は触れない。
「ジンさん。」
「ん。」
「今夜さ。」
リクは、ペンを指先で弾きながら、いつもより少し真面目な声を出した。
「ちょっと付き合ってもらっていいですか。」
「どこに。」
「“うちの墓”に。」
ジンが、そこで初めてはっきりと顔を向ける。
「……違法行為に誘ってる自覚は。」
「ギリギリ合法寄りってことで。」
リクは、わざとらしく両手を挙げてみせる。
「まぁ、来てくれたらわかります。先輩にも一回、ちゃんと紹介したかったんで。」
「誰を。」
「サラを。」
ジンは、リクの目を見る。
そこに、嘘はなかった。
壊れかけた何かを貼り合わせるみたいな、必死さも。
静かな覚悟も。
「……わかった。」
ジンは短く答えた。
「酒は?」
「もちろん持っていきます。」
「じゃあ行く。」
「理由、そこですか。」
「そこだ。」
ふたりの会話は、それで一旦終わる。
ただ、それだけで。
今日が、いつもと少し違う一日になることを、お互いどこかで理解していた。




