EP03-1 壊れた世界で、まだ笑っている
朝の光は、きれいだった。
高層ビルのガラス面を滑り、整列した街路樹の葉をなで、歩道を行き交う人々の髪とスーツの肩を、均等に照らしていく。
誰も立ち止まらない。
誰も空を見上げない。
歩き出すタイミングさえ、不自然なほど揃っている。
人々の足取りはまるで、何かに同期しているようだった。
横断歩道の信号が青に変わる。
列をなしていた人の群れが、全員ほとんど同じテンポで歩き出す。
一定のリズム、一定の歩幅。
表情は薄く、声の抑揚はわずかしか変わらない。
ビル壁面の大型スクリーンが、朝のニュースを映す。
『医療支援AIによるフェーズ管理体制、世界導入から3年。』
『フェーズ値3以下の患者、社会機能に大きな支障なしと判定。』
『人類の“感情変動”は、許容範囲内に収束傾向――』
音声は流れているのに、耳に残らない。
画面下には淡々と数値が並ぶ。
事故件数の減少。
犯罪率の低下。
精神疾患による入院数の変化。
どれも右肩下がりのグラフで、見た目だけは完璧だった。
街はきれいで、静かで、よく整っていて。
それなのにどこか“空洞”で、音が薄い。
誰もそれを言葉にはしない。
当たり前として飲み込んでいる。
ここは、2035年。
世界はまだ、壊れている途中だった。
◇
研究棟のラボには、ディスプレイの光がいくつも浮かんでいた。
白い壁。
静かな空調。
わずかなキーボード音と、試薬を扱う機械の駆動音。
その真ん中で、リクはひとり椅子にもたれていた。
「……よし。」
モニターに映るグラフを見て、リクがぼそっと呟く。
口調は軽い。
声のトーンも明るい。
5年前、朝の食卓で笑っていたときと、ほとんど変わらない。
変わったのは、笑ったときの目の奥――温度のない“平静”だけだった。
自分でもそれをわかっているからこそ、
わざと“いつものリク”を演じていた。
「リクさーん。」
斜め後ろのデスクから、同僚が顔を出す。
「第十二試験群のデータ、また“ギリギリ攻め”してますよね。」
「してないしてない。“けっこう安全寄り”って呼んでください。」
リクはペンを器用に回しながら返す。
「いや、フェーズ値2.9999は攻めてるよ。」
「3よりはマシでしょ?」
「そういう問題?」
同僚はタブレットを抱えたまま、近くの椅子に腰を下ろす。
「でもさ。」
「ん?」
「前より、患者さんの“落ち込み”少なくなってない?
あのフェーズ抑制剤、けっこう効いてるって評判だよ。」
「ああ、第2フェーズね。」
リクは別タブを開きながら頷く。
「感情の振れ幅は狭まってるけど、日常は“普通に送れる”。」
「そうそう。“普通に生活できるなら十分”って、主治医たちも。」
「“普通に”ね。」
リクは視線を画面に向けたまま言う。
同僚が小さく首を傾げる。
「なんか引っかかってる?」
「いや。」
ペンを回す手は止めない。
「“普通”って便利な言葉だなと思っただけ。」
「出た。主任の哲学モード。」
「入ってないって。カフェイン不足モード。」
「じゃあコーヒー淹れてきます、主任。」
「主任って呼ぶなって。くすぐったいから。」
同僚は笑いながら席を立つ。
――主任。
5年前には想像もしなかった肩書きだ。
ただ、周囲は言う。
リクは“ある時期”から、データを見る精度が異様に上がった、と。
本人は笑ってごまかす。
でも、その理由を胸の奥にしまっているのは、リク自身だった。
画面へ視線を戻す。
グラフの波形は、なめらかな曲線を描いていた。
フェーズ値。
ストレス指数。
感情変動率。
どの波形も揺らぎが少なく、生きた人間のものにしては整いすぎていた。
「……まるで“心臓の音”じゃなくて、定規で引いた線だな。」
リクは無意識に呟いた。
一瞬だけ、白いものが頭に浮かぶ。
新品の白いシューズ。
かかとの絆創膏。
麦茶のコップ。
「それは隠すスキル。」
笑っていた、誰かの声。
胸の奥がきゅっと縮む。
だがその痛みを表に出すことはない。
出してしまえば、ここで仕事を続けられなくなる気がした。
「リクさーん?フリーズした?」
戻ってきた同僚が覗き込む。
「あー……ごめん、ごめん。再起動完了。」
「そういうとこだけ立ち上がり早いですよね。」
「スペック高いんで。」
「自分で言う?」
同僚のツッコミに、リクは肩をすくめて笑う。
笑い声はラボの空間に自然に溶けていく。
その笑いが本物かどうか――
誰も確かめない。
確かめようともしない。




