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君を救うために時間を越えた。〜REWIND〜  作者: 安剛
2期:残された心が、未来を選ぶとき
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EP23 それでも、世界は続いていく

 目が覚めたのは、アラームの少し前だった。


 天井を見上げて、息を吸って、吐く。

 それだけで、朝が始まる。


 隣のスペースは空いている。

 でも、冷たくはなかった。


 リクは静かに起き上がり、足音を立てないように床を踏んだ。

 カーテンの隙間から、薄い光が差し込んでいる。


 光は、昨日と同じ場所を照らしている。

 それを見て、少しだけ安心する。


 リビングを横切る前に、ベビーベッドを覗く。

 サリが小さく身じろぎをした。


 呼吸。

 胸の上下。

 指先が布を探して、つかんで、離す。


「……おはよう」


 返事はない。

 でも、サリのまぶたがわずかに動いた。


 それだけで、充分だった。


 リクは抱き上げる。

 腕の中に重みが乗る瞬間、体が自然に位置を調整する。

 首の角度。背中の支え。

 いつのまにか、迷いがなくなっていた。


 サリはまだ半分眠っている。

 頭をリクの胸に預けて、頬がシャツに触れる。


「今日はさ、ちょっとだけ出かけるぞ」


 小さく言ってみる。

 言い聞かせる、というより、約束の形を作るために。


 サリの指が、リクのシャツをつまんだ。


 リクは笑いそうになって、すぐに口を閉じた。

 声にすると起きてしまいそうで、もったいなかった。


 キッチンで湯を沸かす。

 ケトルの低い音が、部屋の中にちゃんと溶ける。


 哺乳瓶を取り出し、手早く消毒の準備をする。

 シンクの水が流れる。

 水は水の音を立てて、当たり前みたいに落ちていく。


 リクは一瞬だけ、手を止めた。


 落ちる音が、ある。

 ここには、ある。


 それを確かめてから、また手を動かす。


 サリを片腕で支えたまま、もう片方でタオルを引っ張る。

 肩にかける。

 サリのよだれが付いてもいい位置に、最初から置いておく。


「ねえ、上手いだろ」


 誰に言うでもなく、ぽつりと出た。


 サリは目を開けない。

 でも、口元が小さく動いた。

 吸うような、飲み込むような。


「お腹、減ったか」


 返事の代わりに、サリが小さく声を出した。

 泣く前の、短い合図。


「はいはい。わかってる」


 リクは少しだけ早く動く。

 焦ってはいない。

 ただ、間に合う速度を知っている。


 ミルクの匂いが立ち上がる。

 サリの体が、その匂いの方へわずかに寄る。

 目は閉じたままなのに、ちゃんと分かっている。


「すごいな」


 リクは笑ってしまいそうになって、今度は小さく息だけを吐いた。


 哺乳瓶を口元へ運ぶ。

 サリが吸い付く。

 喉が、小さく動く。


 飲み終わるまでの間に、片手でスマホを手に取る。

 画面をつけて、今日の日付を確認する。


 2032/04/07


 数字が並んでいるだけなのに、目が止まる。


 止まったのは、時間じゃない。

 視線だけだ。


「……よし」


 小さく言って、画面を消す。

 言葉にすると、ちゃんと戻ってこられる。


 サリの口が離れる。

 満足したのか、眠気が勝ったのか。

 頬が少しだけ丸くなって、呼吸が深くなる。


「今日は、抱っこで行くか」


 リクはそう言いながら、抱っこ紐を手に取った。

 ベルトを広げる。

 金具を鳴らさないように、慎重に。


 サリを胸の前に収める。

 背中を押さえ、足を整える。

 布が肌に触れて、サリが小さく身じろぎをした。


「ごめん。すぐ慣れる」


 リクは、思わず謝る。

 その声は、ほとんど吐息だった。


 サリはもう抵抗しない。

 目も開けずに、胸のあたりへ顔を押し当てた。


「そうそう。そこ」


 リクは笑う。


 鏡の前に立つ。

 髪を整える。

 シャツの襟を直す。

 抱っこ紐の位置を確認する。


 鏡の中に、父親の顔が映っている。

 少し疲れている。

 でも、目はちゃんと開いている。


「……行けるな」


 リクは、自分に言った。


 返事は当然ない。

 それでも、言うと背筋が少しだけ伸びる。


 玄関へ向かう前に、リクは一度だけリビングを見渡した。


 静かな部屋。

 明るすぎない灯り。

 朝の薄い光。


 そして——壁。


 そこに、写真がある。


 最初にそれを見たときは、正直、落ち着かなかった。

 目に入るたび、胸のどこかが浮いてしまって、

 触れたら崩れるものの上を歩いている気がした。


 でも、今は違う。


 写真は、飾られているというより、そこに「住んでいる」感じがした。


 棚の上。

 冷蔵庫の横。

 廊下の途中。

 ソファの脇。


 どれも主張しすぎないサイズで、

 生活の中に、当たり前みたいに溶け込んでいる。


 リクは写真の前で立ち止まって、

 ひとつ、指先でフレームの角を撫でた。


 埃はない。

 拭いたばかり、という感じでもない。

 ただ、手が触れても嫌なざらつきが残らない程度に、

 いつも整っている。


 それが、なんとなく分かる。


「……ちゃんと、やってるよ」


 言葉は写真に向けたつもりだったが、

 誰に向けたのかは、自分でもはっきりしなかった。


 サリが、抱っこ紐の中で小さく息を吐く。

 吐く息が、リクの胸元を温める。


 リクはその温度を感じてから、キッチンへ視線を移した。


 畳まれたタオルが、棚の端に揃っている。

 端が、きちんと揃いすぎていない。

 不自然な角度がない。


 完璧な整頓じゃないのに、

 なぜか「正しい」と思える並び方。


 哺乳瓶が置かれている位置も、いつも同じだ。

 乾かすラックの、右から2番目。

 取っ手の向きは、手を伸ばした時に持ちやすい方向。


 リクは、その位置に手を伸ばして、

 無意識に同じ向きに戻していた。


 自分の手が「そうする」ことを覚えている。

 理屈じゃなく、習慣として。


 それが、少しだけ不思議で、少しだけ救いだった。


 ——やれるようになるんだな。

 こんなふうに。


 リクは台所の引き出しを開けて、

 おむつポーチを取り出す。

 中身を確認する。


 おむつ。

 おしりふき。

 ビニール袋。

 小さな着替え。

 よだれ拭き。


 指先で数を数えながら、

 最後に、ポーチの内側のポケットに触れる。


 薄い紙の感触。

 メモでも、レシートでもない。

 少しだけ厚みがあって、角が丸い。


 写真だった。


 いつ入れたのか、正確には覚えていない。

 たぶん、何度か整理した時に、ここに落ち着いた。

 落ち着かせた、というより、自然とそうなった。


 取り出してみる。


 小さなサイズのプリント。

 色は少し柔らかくて、

 画面の光みたいに眩しくない。


 写っているのは、ベッドの上。

 サリを抱いている自分。

 そして、画面の端に、誰かの指先が写り込んでいる。


 指先だけ。

 爪の形と、肌の白さ。


 それだけなのに、分かる。


 リクは、写真をしばらく見つめて、

 ゆっくりポーチに戻した。


 その時、ふっと、昔の声が蘇った。


『紙って、ちゃんと“そこにある”って感じがするじゃん』


 言葉だけが、音の形で戻ってくる。

 けれど、声色まで思い出そうとすると、

 指の間から砂みたいにこぼれる。


『こういうの、形に残しておきたいの』


 あの時は、軽い会話だった。

 深い意味なんて、探さなかった。


 今なら、分かる。


 これは「思い出」じゃない。

 思い出って言葉は、どこか過去に押し込める感じがする。


 これは、もっと生活寄りだ。

 明日、手を動かすためのもの。

 今日、立っていられるためのもの。


 未来の自分に、渡すためのもの。


 リクは、ポーチを閉じて肩にかけた。

 かけた瞬間、重さがちょうどいい位置に収まる。


「……ありがとな」


 ぽつりと言ってしまって、

 自分で自分の声を聞き直す。


 涙は出なかった。

 胸が苦しくなることもない。


 ただ、息が少しだけ深く吸えた。


 リクは、もう一度部屋を見渡す。


 壁に、棚に、

 さりげなく置かれたフレームに、

 いくつもの「残っている」がある。


 それは、家の温度を下げなかった。

 むしろ、ちゃんと温めていた。


 リクは抱っこ紐の中のサリを覗き込む。

 サリはまだ眠っている。

 口が少しだけ開いて、

 呼吸が規則正しい。


 リクは指先で、サリの頬にそっと触れた。

 柔らかい。

 触れた分だけ、すぐに戻る。


「……今日は」


 声が小さくなる。

 言う必要があるのか分からないまま、

 それでも、口が動く。


「今日は……サラの日だよ」


 説明はしない。

 意味も語らない。

 ただ、日付と同じくらい自然なこととして、そこに置く。


 サリは反応しない。

 眠ったまま、頬をリクの指先に少し寄せただけだった。


「うん。起きなくていい」


 リクは、頬に触れていた指を引っ込め、

 サリの背中を軽く叩いた。


 速すぎず、遅すぎず。

 何度も繰り返して、体が覚えたリズム。


 玄関へ向かう。

 靴下を履く。

 靴を揃える。

 鍵を取る。


 ドアノブに手をかけた瞬間、

 リクは写真の壁の方を振り返った。


 たくさんあるのに、

 うるさくない。


 残してあるのに、

 縛られない。


 そこにあることで、

 今日の自分が、ちゃんと立てる。


 リクは、ほんの少しだけ口元をゆるめた。


「……行こうな」


 サリに言ったのか、

 自分に言ったのか、

 区別はつけなかった。


 ドアが閉まる。

 鍵がかかる音。


 その音は、ちゃんと現実だった。


 外の空気が肺に入る。

 春の匂いがする。


 抱っこ紐の中の重みが、一定のリズムで揺れる。

 その重みを確かめながら、リクは歩き出した。


 写真の中で生きているんじゃない。

 写真のある家から、今日も外へ出ていく。


——


 駐車場から少し歩いて、坂を上る。

 舗装が途切れた先、草を踏んだ細い道の奥。


 春の草は、まだ尖っているのに柔らかい。

 風は冷たさを残しているが、刺さるほどではない。


 リクはサリを抱っこ紐に収め、胸の前で確かめるように背中を撫でた。

 サリは起きている。眠いのか、目は半分。けれど、視線はちゃんと外を追っている。


「着いたら、少しだけ座ろうな」


 言い聞かせるように言う。

 返事はない。代わりに、サリの指先がリクの服を軽くつかんで、すぐに離れた。


 花屋で買った小さな花束は、淡い色だけでまとめた。

 派手なものは似合わない。

 似合わない、というより——ここには、要らない。


 丘の頂上近く。

 小さなスペースに、ひとつの石と手書きのプレートが括られている。


『Sara 2031/11/07』


 そこだけ、空気が少し柔らかい気がする。

 冷たいわけじゃない。

 胸の奥が、静かになる場所。


 リクはしゃがみ、花を供えた。

 水を替える。布で軽く拭く。

 手順は、もう迷わない。迷わないまま、指先だけが丁寧になる。


 サリは抱っこ紐の中で、墓石をじっと見ていた。

 見ているというより、そこにある形を、丸ごと受け取っているような目。


「……サラ」


 名前を呼ぶ。

 呼ぶだけで、今日という日付が、やっと息をし始める。


 リクは腰を下ろした。

 背中を少し丸めると、抱っこ紐の中の重みが、ちょうどいい位置に収まる。

 サリの頬が、リクの胸元に当たる。


「今日は……サラの日だよ」


 家で言ったのと同じ言葉。

 でも、ここで言うと、少しだけ意味が変わる。


 説明はしない。

 誰にも、しなくていい。

 自分とサリにだけ通じれば、それでいい。


 リクはポケットからスマホを出した。

 画面をつけて、時刻を確認する。


 通知が、ひとつ。


 見慣れない表示ではない。

 けれど、心臓が一拍遅れてから動き出した。


《予約されたメッセージ:1件》


 指先が止まる。

 理由は、分かる。

 分かるのに、確認する手がすぐに動かない。


 サリが、ふっと息を吐いた。

 その小さな音で、リクはようやく画面に触れた。


 通知を開く。

 動画。


 差出人の表示はない。

 誰かが送ってきたものではない。

 ただ——今日という日付に、ここへ届くように置かれていた。


 リクは一度、喉を鳴らした。

 胸の奥が、かすかに熱くなる。


「……見るよ」


 サラに言ったのか、サリに言ったのか、分からない。

 でも、言わないと指が震えそうだった。


 再生ボタンを押す。


 画面が明るくなって、

 そこに、サラがいた。


 少し離れた距離から、サラが映っていた。

 背景は、家の中。光が柔らかい。

 サラは、ほんの少しだけ照れているみたいに笑っていた。


『……えっと』


 声が、ちゃんと音として届く。

 現実の音と同じ質感で、耳に入る。


『いつも、写真ばっかりだったから……』


 サラは小さく肩をすくめる。


『喋るの、ちょっと恥ずかしいな』


 言い終えて、口元を押さえる。

 照れをごまかすみたいに、目だけが笑う。


 リクは息を止めていた。

 止めていることに、後から気づいた。


『リク、元気してる?』


 サラが、真っ直ぐに画面を見る。

 画面の向こうの“未来”を見ているはずなのに、

 今、目の前でリクを見ているみたいだった。


『してなきゃダメだよ、パパ』


 その言葉に、胸の奥が少しだけ緩む。

 叱っているみたいなのに、温かい。


『……あ、でもさ。無理に明るくしろって意味じゃないからね?』


 サラは慌てたように手を振る。


『ちゃんと食べて、ちゃんと寝て。あと、水。飲んでる?』


 いつもの調子だ。

 大事な話のはずなのに、生活のチェックから入る。


『たぶん、食べるの後回しにするでしょ? リク、そういうとこあるもん』


 少しだけ笑う。

 笑ってから、真面目な顔に戻るのが、サラらしい。


『……ね。私が写真ばっかりだった理由、覚えてる?』


 リクは答えない。答えられない。

 でも、画面の中のサラは、返事を待たずに続けた。


『紙って、ちゃんと“そこにある”って感じがするじゃん』


 その言葉は、記憶の中の音と同じだった。

 “蘇る”というより、“重なる”。


『スマホの中のも好きだよ。便利だし。すぐ見れるし』


『でも、紙ってさ……触れるじゃん。角があるじゃん。ここに置けるじゃん』


 サラはフレームの端を指でなぞる仕草をする。

 言葉に合わせて、指先が動くのが見える。


『だから、残したかったの』


 残したかった。

 過去のためじゃない。

 未来のために。


 サラは一度、画面の外を見た。

 誰かが呼んだわけでもない。

 ただ、言葉を選んでいるだけの間。


『忘れないでほしいことがあってさ』


 声が少しだけ低くなる。

 重くするためじゃない。丁寧に置くための声。


『でも、説教じゃないよ。指示でもない』


 サラは小さく笑って、手のひらを見せるみたいに両手を上げた。


『“こうしろ”じゃなくて……“これだけは”ってやつ』


 リクの胸の奥が、じわっと熱くなる。

 喉の奥が、狭くなる。


『リクってさ』


 サラは少しだけ首を傾ける。


『優しいのに、自分のこと後回しにする』


『頑張るのに、頑張ってるって言わない』


『大丈夫じゃなくても、“大丈夫”って言う』


 ひとつずつ、優しく当ててくる。

 責めるんじゃない。見抜いて、抱きしめるみたいに。


『だからね。忘れないでほしいのは——』


 サラは息を吸う。

 その吸う音まで、愛しい。


『サリが、あなたのこと大好きだってこと』


 リクの視線が、抱っこ紐の中へ落ちる。

 サリは静かに画面を見ている。

 分からないはずなのに、目だけはちゃんと追っている。


『今はまだ、分かんないかもだけど』


『でも、赤ちゃんってさ……全部、見てるよ』


『言葉なくても、“いてくれる”ってこと、ちゃんと分かってる』


 サラの声が、少しだけ弾む。

 嬉しい話をするときの声だ。


『リクが、サリの背中を叩くリズムとか』


『抱っこ紐を直す手つきとか』


『眠くても、ちゃんと顔見て“おはよう”って言うとことか』


『そういうの、全部』


 ひとつひとつが、生活の断片なのに、

 胸の奥へまっすぐ届く。


『だから、リクは“失敗してる”って思わなくていい』


『正解が分からなくても、今やってること、ちゃんと届いてるから』


 リクは、顔を上げられなくなった。

 画面を見ると崩れそうで、サリの頭の方を見つめる。


 サリの髪は柔らかくて、光を吸う。

 その小さな頭が、ここにあることが、急に重くなる。


 サラが、少し照れたみたいに頬を掻いた。


『……あれ。私、思ったより喋ってる?』


 笑う。

 その笑い方が、あまりにもサラで。


『少し、喋るの慣れてきたかも』


 言いながら、画面の中のサラは身を乗り出した。

 近くなる。

 まるで、抱っこ紐の中を覗き込む距離。


『サリ』


 声が、柔らかくなる。

 リクへ向けていた声とは違う。

 赤ちゃんに話す声だ。


『あなたが、自分で選べるようになった時』


 ゆっくり言う。

 意味を押しつけない速度。


『その時は……』


 サラは一拍置く。

 その間が、心臓の音と重なる。


『パパを、リクを、助けてあげて』


 命令じゃない。

 お願いというより——信じている言い方。


『サリは、私の娘なんだから』


 その言葉は、重荷じゃなかった。

 使命でもなかった。

 “あなたなら大丈夫”という、ただの信頼だった。


 サラは少しだけ目を細める。

 涙はない。

 泣き顔じゃない。

 笑っているのに、胸の奥が痛い。


『……あ、あとね』


 サラは指を立てる。

 いつも何かを思い出した時の癖。


『パパのこと、からかっていいけど、傷つけるのはダメだよ』


『パパ、意外と繊細だからね』


 言って、自分で笑う。

 その笑いに、リクの口元もほんの少しだけ動く。


 動くのに、息が詰まる。


『それから』


 サラは、今度は真っ直ぐに画面を見る。


『リク』


 名前を呼ばれるだけで、胸が震える。

 呼ばれ慣れているはずなのに、今日は違う。


『あなたは、ちゃんと幸せになっていい』


『サリと笑っていい』


『サリと怒っていい』


『サリと喧嘩して、また仲直りしていい』


『その全部が、家族だから』


 ひとつずつ、丁寧に置いていく。

 置いた言葉が、部屋の空気に溶けるみたいに。


『私が残したのは、思い出じゃないよ』


 ここでサラは、少しだけ首を振った。


『あなたたちの“これから”の、邪魔をしないために残したの』


『辛い時に、引っ張るためじゃなくて』


『立てない時に、寄りかかれるために』


 リクの喉が、ひくりと鳴る。

 声を出そうとして、出ない。


 サラは、その反応を知っているみたいに、少しだけ笑った。


『……泣いてる?』


 問いかける声が優しい。

 責めない。からかわない。

 ただ、触れる。


 リクは首を振る。

 画面の中のサラに、見えるわけがないのに。


『泣いててもいいよ』


 サラが言う。


『でも、サリの前ではさ、たまにでいいから笑ってあげて』


『赤ちゃんって、ほんとに全部見てるから』


 またその言葉。

 生活の真実みたいに、優しく刺さる。


 サラは、深呼吸をひとつして、

 それから、最後の言葉を抱えるみたいに両手を胸の前で握った。


『本当に、愛してる』


 目が笑っている。

 口元が、迷いなく上がっている。

 最高の笑顔だった。


『リクも、サリも』


『……大好き』


 画面が、ふっと暗くなる。

 動画が終わる。


 それだけのことなのに、

 世界の音が一段遠くなる。


 リクは、スマホを持ったまま固まっていた。

 呼吸はしている。

 でも、どこで吸ってどこで吐いているのか分からない。


 サリが、小さく身じろぎをした。

 抱っこ紐の布が擦れる音が、現実を引き戻す。


 リクは、サリの背中に手を当てた。

 そこに温度がある。

 確かな重みがある。


 その瞬間。


 堰が、音もなくほどけた。


 涙が落ちる。

 頬を伝う感覚が遅れてくる。

 口を開くと声が出てしまいそうで、歯を噛む。


 泣き声は出ない。

 出さない、というより、出せない。


 胸が縮む。喉が狭くなる。

 それでも涙だけが、静かに落ち続ける。


 サリを抱きしめたまま、リクは肩を震わせた。

 揺らさないように、必死に。

 サリが怖がらないように。


 サリは、泣かなかった。

 ただ、リクの胸元に頬を寄せた。


 その仕草が、まるで——

 “ここにいるよ”と言っているみたいで。


 リクは、もっと泣いた。


 理解はしない。

 分かった気にならない。

 理由も、意味も、知らない。


 それでも。


 愛だけが、受け取れてしまった。


 リクは、息を吸う。

 息が震える。

 吐く息が、空気に溶ける。


「……サラ」


 声は、ほとんど出ていない。

 それでも、名前だけは言えた。


 そして、サリの頭をそっと撫でる。


「……行こう」


 泣いたまま言う。

 泣いたまま、立つ。


 秘密基地は、今日も静かだった。

 静かで、穏やかで、ちゃんと温かかった。



2032/07/07


 夏になり、丘の下に向日葵畑が広がっていた。

 風が吹くたび、黄色い花が同じ方向へ揺れる。

 太陽は強いのに、影は意外と涼しい。


 サリは抱っこ紐の中で、すやすや眠っている。

 汗をかくので、首の後ろに薄いガーゼを挟んだ。

 それを嫌がらなくなったことが、小さな成長だ。


「サラ、サリもうすぐ1歳だよ」


 リクは花を供えながら言う。

 声はいつもの声で。大げさにしない。


「最近さ、手を伸ばすのが上手いんだ」


 向日葵の方を指で示すと、

 眠ったままのサリの指が、ふっと動いた。


「……今の、聞いてた?」


 返事はない。

 でも、リクは笑った。


 笑っていい、と言われたから。



2032/11/07


 秋が終わりかけていた。

 空気が乾いて、吐く息が少し白い。

 木の葉はほとんど落ちて、枝が細く空へ伸びている。


 サリは1歳になった。

 抱っこ紐の中で眠っているが、体の輪郭がしっかりしてきた。

 足が長くなって、靴下のサイズが変わった。


 花が1つ多かった。


 リクはそれを見て、理由を探さない。

 探さなくても、胸のどこかが「そういう日だ」と言う。


「サラ。1年だって」


 言葉は短い。

 短いほど、ちゃんと刺さる。


「サリ、歩くまではまだだけど、立つのは好きなんだよ」


 サラの石の前で少しだけ立たせると、サリはふらつきながらも笑った。

 転びそうになると、すぐにリクのズボンを掴む。


「掴むの上手いな」


 リクが言うと、サリは分からない顔で笑う。

 その笑いが、秋の冷たさを少しだけ溶かした。



2033/01/07


 新年の空は白かった。

 珍しく雪が少しだけ積もり、足元が音を吸う。

 世界が静かになる季節。


 サリは歩き始めた。

 まだ危なっかしくて、手を離すとすぐ座り込む。

 でも、立ち上がるのも早い。


「サラ、サリさ」


 リクは手袋越しにサリの頭を撫でる。


「ごっこ遊び、覚えたよ」


 サリは小さな手で持ってきた小さなスコップを、サラの石の前に置いた。

 置いて、また拾って、置いて。

 “供える”みたいな動きを、なぜか何度もする。


「……それ、誰に教わったんだろうな」


 リクは笑う。

 笑いながら、喉の奥が少しだけ痛い。


 でも、痛いままでも立てることを、リクは知っている。



2033/04/07


 春。

 風がほどけて、草が柔らかい匂いを出し始める。


 サリは2歳に近づいて、言葉が増えた。

 “パパ”が言える。

 “みて”が言える。

 “だめ”も言える。


 サラの石の前で、サリは花を指差した。


「はな」


「そう、花」


 リクが言うと、サリは頷く。

 頷いてから、サラの石を見て首を傾げた。


「……さ?」


 “サ”だけ、言えた。

 でも、それ以上は続かない。


 リクは焦らない。

 教えない。


 言葉は、いつか本人が選ぶ。


「今日は……サラの日だよ」


 その言葉だけ、いつも通りに置く。



2033/07/07


 向日葵畑は去年より背が高かった。

 それとも、サリが大きくなったせいか。


 サリは走る。

 走って、止まって、振り返って笑う。

 笑うたび、前歯の間が少しだけ見える。


「パパ、はやい!」


「それ、褒めてないだろ」


 リクが言うと、サリは意味も分からず笑う。

 笑いながら、リクの手を引っ張る。


 サラの石の前では、サリが花を自分で置いた。

 置く位置は少しずれている。

 でも、指先は丁寧だった。


「サラ、見てる?」


 リクが言うと、サリが真似をする。


「みてる?」


 語尾が上がる。

 それだけで胸が熱くなる。


 リクは、答えを言わない。

 言わなくても、ここにあるから。



2033/11/07


 風が冷たい。

 サリはコートのボタンを自分で留められるようになった。

 左右を間違えて怒ることもある。

 その怒り方が、サラに似ていて、リクは困る。


 花が、また1つ多かった。


 リクは見て、何も言わない。

 言わないまま、花を整える。


「サラ。サリね、最近“ありがとう”言えるようになったんだ」


 サリがそのタイミングで、ぽつりと言った。


「ありがと」


 誰に向けたのか分からない。

 でも、リクは頷いた。


「うん。いい子」


 サリは照れて、リクの後ろに隠れる。

 隠れるのに、手だけは握っている。


 離さない手。


 それが、何よりの報告だった。



2034/01/07


 雪が深い年だった。

 秘密基地までの通路が狭くて、足跡が一直線に続く。


 サリは手袋を嫌がった。

 でも、指が冷たくなると自分で手袋を探す。

 その矛盾が、子どもらしい。


「サラ、サリさ……」


 リクは言葉を探す。


「自分で服、選ぶんだよ。これ着るって」


 サリが胸を張って言う。


「サリ、これ!」


 派手な色。

 リクは思わず笑って、すぐに頷く。


「いいじゃん」


 選ぶこと。

 自分で決めること。


 それが、この世界の“前に進む”だと、リクは知っている。



2034/04/07


 春の匂いが、少し強くなった。

 サリは3歳に近づいて、背が伸びた。

 手をつなぐと、腕の角度が去年と違う。


「サラのひ」


 サリが先に言った。


 リクは息を止めてしまいそうになって、

 それを誤魔化すように頷いた。


「そう。サラの日」


 サリは花を見て、少しだけ考える顔をした。


「サラ、にこにこ?」


 サリの言葉は短い。

 でも、胸に入る。


「……にこにこだよ」


 リクは、嘘をつかない範囲で答える。

 説明はしない。

 “にこにこ”にしておくことが、この子の未来を軽くする。



2034/07/07


 向日葵畑が、丘の下で波みたいに揺れていた。

 サリは走るのがさらに速くなった。

 転んでも泣かない。

 泣かない代わりに、怒る。


「いたい!」


「痛いな。じゃあ、どうする?」


 リクが聞くと、サリは自分の膝を見て、眉を寄せた。


「……ふく」


「よし」


 ハンカチを渡すと、サリは自分で拭いた。

 力加減がまだ強い。

 でも、それでいい。


「サラ、サリね」


 リクはサラの石の前で言う。


「泣かないんだよ。強いんだ」


 サリが横で、真似する。


「つよい!」


 その言い方が可愛くて、リクは笑った。

 笑っていい、とまた思い出す。



2034/11/07


 空が低い。

 落ち葉が濡れて、靴底に貼りつく。


 花が、また1つ多かった。


 サリはそれを見て首を傾げる。

 数えられるようになったから、気づく。


「おはな、いっぱい」


「うん。いっぱいだな」


 サリは花を見て、ぽつりと言った。


「だれ、もってきたの?」


 リクは一拍置く。

 困らない答えを選ぶ。


「……サラのこと、好きな人だよ」


 サリは納得したように頷く。


「サリも、すき」


 その言葉に、リクは胸の奥で何かがほどけた。



2035/01/07


 新年の冷気は、肺の奥まで届く。

 息が白い。

 サリは息を吐いて、白くなるのを面白がった。


「けむり!」


「けむりじゃない。息だ」


「いき!」


 言い間違いを直すと、サリは誇らしげに繰り返す。


 サラの石の前で、サリは小さな袋を出した。

 飴玉が1つ。


「これ、サラに、ママにあげる」


 リクは驚いてサリを見る。


「……いいの?」


 サリは頷く。


「ママ、あまいの、すき」


 誰が教えたわけでもない。

 でも、サリの中に“サラ”がいる。


 リクは、袋をそっと供えた。

 泣かない。

 泣かないまま、胸が熱くなる。



2035/04/07


 春。

 サリはもう、抱っこされない。

 手をつないで歩く。

 たまに、走って先へ行き、振り返って「はやく」と言う。


「サラの日だよ」


 リクが言うと、サリが言い返す。


「うん。サラのひ」


 そして、少しだけ黙る。


「パパ」


「なに?」


「ママ……ここ?」


 小さな石を見る目が、真剣だった。


 リクはしゃがんで、サリと同じ高さになる。


「ここ、っていうより……ここにもいる、かな」


 曖昧な答え。

 でも、今はそれでいい。


 サリは少し考えてから、頷いた。


「じゃあ、いう」


 サリはサラの石に向かって、小さく言った。


「ママ。きょう、きたよ」


 その一言が、今年一番の花になった。



2035/07/07


 向日葵畑は変わらず、丘の下に広がっていた。

 サリは大きく成長していた。


 背が伸びて、髪が揺れて、

 走り方が“子ども”から“人”になってきた。


 サリは花束を自分で持つ。

 落とさないように抱えながら、慎重に歩く。


「ママ、これね、あげるの」


 サリは自分で花を置いた。

 置いてから、手を合わせる。


 形は完璧じゃない。

 でも、気持ちは真っ直ぐだった。


 リクはその横で、同じように手を合わせる。

 肩が並ぶ。

 背中が並ぶ。


 秘密基地は、今日も静かだった。

 静かで、穏やかで、温かい。


 リクはサリの頭を、そっと撫でた。


 撫でられて、サリは少しだけ目を細めた。

 それから、小さく言う。


「パパ、かえろ」


「うん。帰ろう」


 帰る場所がある。

 帰る理由がある。


 すべてを分かったふりは、できないまま。

 それでも、愛は日常に残っていく。


 リクとサリの後ろ姿が、サラの前から離れていく。

 夏の光が、その背中をゆっくり照らしていた。

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