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君を救うために時間を越えた。〜REWIND〜  作者: 安剛
2期:残された心が、未来を選ぶとき
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EP21 まだ、ここに光があった日のこと

 2031年10月下旬


 朝の光は、薄い膜みたいに部屋へ入ってきた。

 カーテンの繊維を通った白が、床の木目にやわらかい線を引く。

 夜の冷えがまだ残っているのに、陽の匂いだけが先に起きている。


 キッチンでは、湯が沸く前の静けさが続いていた。

 鍋の底が、じわりと熱を持ち始める。

 その“じわり”が聞こえる気がするくらい、家の中は静かだった。


 リクは、音を立てないように動いていた。

 皿を棚から取る時も、角をぶつけない。

 スプーンを置く時も、落とさない。

 何かの儀式じゃない。もう、生活の癖になっている。


 それでも、リクの顔は明るかった。

 眠気じゃなく、嬉しさで目が少しだけ細い。


 リビングの端。

 ベビーベッドの中で、サリが小さく身じろぎする。


 泣くほどではない。

 世界の感触を確かめるみたいに、指先が空を探す。

 指が小さく開いて、また握られる。


 その動きだけで、家の空気が変わる。

 “今日が始まる”という合図みたいに。


「……起きた?」


 寝室のドアが、ほんの少しだけ開く。

 サラだった。


 髪はひとつにまとめられているけれど、きっちりではない。

 仕事の日の結び方より、少しだけ緩い。

 目尻の温度も、白衣の日より生活側に寄っている。


「今、ちょっとだけ」


 リクは鍋の火を弱めて、手を洗う。

 石鹸の匂いが、朝の匂いに混ざる。


「俺、抱く?」


「うん。お願い」


 その言葉の短さが、もう特別じゃないことを示していた。

 “助けて”でも“頼っていい”でもなく。

 ただ、当たり前の流れとしてそこにある。


 リクはサリを抱き上げる。

 小さな体温が、胸にぴたりと収まる。


 抱っこ紐でもない、布団でもない。

 腕と胸だけの場所。

 そこに、サリは自然に落ち着いた。


「……相変わらず、ちっちゃいな」


 言いながら、顔は完全に緩んでいる。

 声も、勝手に柔らかくなる。


 サリは焦点が合っているような、いないような目で、父親の顔を見る。

 眺めているというより、眺められている。

 見返されている。


 リクは無意識に口角を上げた。


「ねえ、サリ。今日もかわいいね。更新してきたね」


 サラが、すぐにスマホを構える。


「リク、その言い方、今のところ毎日同じ」


「毎日更新されてるから」


「そのロジック、強い」


 シャッター音が小さく鳴る。


「え、今?」


「今がいい」


「俺の顔、大丈夫?」


「大丈夫じゃない顔だから撮る」


「それ、褒めてる?」


「褒めてる」


 サラは画面を確認して、短く頷く。

 満足した時の頷き方だ。


 朝食は簡単なものだった。

 トーストと、温かいスープ。

 コーヒーはサラの分だけ薄め。


 サリの呼吸は、寝息じゃない。

 起きているけど、起き切っていない呼吸。

 その曖昧さが、部屋の空気をさらにやわらかくした。


 サラはサリを腕に抱きながら、スープをゆっくり飲む。

 飲み込みのたびに、肩の力が少しずつ抜けていく。


「……落ち着いてきたね」


 サラが言う。


「うん。夜、前より寝るようになった」


「泣き方も、変わってきた」


「分かる?」


「分かるよ。種類がある」


 言い方は淡いのに、断言だった。

 サラは観察する人間だ。

 小さな差を、いつも拾う。


 リクはコーヒーのマグを置く。


「サラ、寝れてる?」


「前より。……前よりは」


「ちゃんと、前よりって言えるの、すごいよ」


「“完全に大丈夫”って言うのは、まだ早い」


「それでいい」


 リクは、サリの背中を小さく撫でた。

 撫でるというより、手を置いているだけ。

 手の温度を渡すだけ。


 窓の外の光が、少しだけ強くなる。


 サラはふと思い出したように、窓を撮った。

 シャッター音が、もう生活音のひとつになっている。


「今日の光、いい」


「どんなログ?」


「“落ち着いてる朝の光”」


「タイトル長い」


「長いくらいがいいの。覚えたいから」


 その言い方は、初めて会った頃と変わらない。

 “残す”という選択を、サラはずっと続けている。


 リクはその横顔を見て、口には出さずに思った。


(この人は、未来に渡す人だ)


 サラ自身のために。

 サリのために。

 リクのために。

 そして、未来の誰かのために。


 残すという行為が、ただの癖じゃない。

 生きるという選択そのものだ。



 午後。

 3人は外に出た。


 目的地は、水族館だった。


 サリの外出は、まだ慎重になる時期だ。

 だから、無理はしない。短時間。空いている時間。

 授乳室がある場所。帰れる距離。


 それでも行く理由が、ちゃんとある。


 “家族になった景色を、増やしたい”という理由。


 駅へ向かう道は、夏より静かだった。

 風の匂いが軽くなっている。


 リクはベビーカーの取っ手に両手を置く。

 その手が、妙に丁寧だ。

 壊れ物に触れる手というより、“大事なものの運び方を覚えた手”だ。


 サラはリクの横に並ぶ。

 歩幅は自然に揃う。


「……ねえ、リク」


「ん?」


「今日は、行けそう?」


「うん。サリの顔、元気だし」


 サリはベビーカーの中で目を開けている。

 泣いていない。

 ただ、世界の端を見ている。


 水族館は平日の昼間で、思ったより人が少なかった。

 入口の匂いが、独特だ。

 水と、冷たい空気と、微かに消毒の匂い。


 館内の照明は落ち着いていて、音も小さい。

 足音が吸い込まれるみたいに、床が柔らかい。


 水槽の前で立ち止まる。

 青い光が、ゆっくり揺れる。


 サリは、抱っこ紐の中で、じっとその光を見ていた。

 目だけが動いている。

 驚きの目ではない。観察の目だ。


「……見てるね」


 リクが言う。


「うん。反応、悪くない」


 サラの声が、ほんの少しだけ軽くなる。

 安心すると、サラは言葉が短くなる。


 魚の影が、ガラスの向こうで滑る。

 影は影なのに、輪郭がある。


 サラはスマホを取り出し、サリ越しの水槽を撮った。

 画面の中に、青が溜まっていく。


「これ、後で見返したら、“この頃の空気”まで思い出せる気がする」


「空気まで?」


「うん。音とか、光とか、匂いとか」


 サラは言って、少しだけ笑う。


「人間、忘れるから」


「忘れるの、悪いことじゃないけどね」


「うん。でも、残しておくと安心する。……今は特に」


 その“今は特に”が、説明なしで刺さる。

 リクはそれ以上聞かず、ベビーカーの影を直した。


 クラゲの水槽の前で、足が止まる。


 白い傘みたいな形。

 揺れて、溶けて、また揺れる。


 サラが息を吐く。


「覚えてる?」


「なにを」


「最初に来た時。2人で」


「ああ……」


 まだ付き合う前の記憶が、静かに重なる。

 2人の距離が、今よりずっと軽かった頃。

 軽いのに、確かだった頃。


「その時も、ここで止まった」


「そうだったね」


 リクはクラゲを見ながら、ふっと言う。


「サラ、あの時言ってた」


「なに?」


「“人間も、あのくらい力抜いて生きられたらいいのに”って」


 サラは、少しだけ目を細める。


「言ってた」


「今は?」


「今は……」


 サラはサリを見て、短く笑う。


「抜けてないけど、抜いてる」


「矛盾」


「矛盾でいい。今は、矛盾が正しい」


 サラはまた写真を撮る。

 クラゲの向こうにサリの小さな手が映る。

 手が、光を掴もうとしているみたいに見えた。


 リクはその手を見て、胸の奥が静かに熱くなる。

 泣くほどではない。

 でも、確かにある。


 それは、幸福の熱だ。



 水族館を出たあと、少しだけ散歩をした。


 建物の影を抜けると、空の広さが一段だけ変わる。

 水槽の青とは違う、現実の色が戻ってくる。


 川沿いの道。

 秋の終わり。

 葉が色を変え始めている。

 風が通るたび、木の匂いが変わる。


 乾いた葉が靴底の下で軽く鳴る。

 その音が、季節の進み具合を教えてくる。


「ここも、前に歩いたよね」


「うん。桜が咲いてた」


「今日は、違うね」


「何が?」


「歩幅」


 サラが笑う。


「確かに。ゆっくり」


 サリがいることで速度は落ちる。

 けれど誰も、それを“遅い”とは思わない。

 むしろ、ここまで来てやっと“この速度が普通”になったみたいに感じる。


 川の流れも、同じ速さで横を過ぎていく。

 追い越される感じがしない。


 ベンチに座る。


 木の冷たさが、服越しにゆっくり伝わる。

 座るという行為が、時間を止める。


 サラはサリの顔をのぞき込み、眉を寄せてから、ふっと解ける。

 泣きそうな顔ではない。

 ただ、愛おしいだけの顔だ。


 その表情が変わるまでの時間を、

 リクは何度も見てきた。


 リクはその横顔を見て、言葉を選ばずに聞いた。


「……サラ、幸せ?」


 問いは小さく、川の音に溶けかけていた。


 サラはすぐには返事をしない。

 サリの口元を見て、指先でそっとよだれを拭く。

 それから、空を見る。


「……うん」


 声は低く、迷いがない。


「今は、すごく」


 言いながら、少しだけ喉の奥が詰まる。

 でも泣かない。

 泣くほどじゃない。

 それでも、確かに“無かった感覚じゃない”。


 リクはすぐに答える。


「俺も。すごく幸せ」


 サラは笑って、スマホを出す。


「じゃあ、今の空も撮る」


「空、好きだね」


「空は、誰のものでもないから。安心する」


「……それ、分かる」


 シャッター音が鳴る。

 写真が増える。

 未来へ渡す材料が増える。


 保存されるまでの一瞬が、

 やけに長く感じられた。


 それは、幸福を増やす行為に見えた。

 そして同時に、どこか“備え”みたいにも見えた。


 リクは、その二重の意味を見ないふりをした。


 今は、ただ。

 幸福を、幸福のまま受け取る。


 風がまた一度、川面をなぞった。



 数日後。

 ジンが家に来た。


 玄関の外で、足音が止まる。

 一拍置いて、チャイムが鳴った。


 その余韻がまだ玄関に残っているうちに、サリが小さく声を出す。

 泣きではない。

 反応だ。


 サラがドアを開ける。


「ジンさん」


「……邪魔する」


 ジンの声はいつも通り低く、短い。

 でも、玄関に入る足取りが少しだけ慎重だった。

 床の感触を確かめるような一歩だった。


 リクが迎える。


「ジンさん!来た!サリ、ジンさんだよ!」


 サリは、ジンを見て、眉を寄せる。

 未知を見る顔だ。


 ジンも、未知を見る顔をしていた。

 理屈の置き場が、まだ見つからない。


「……小さいな」


「でしょ」


 リクは誇らしい。

 子ども自慢というより、“ここまで来れた自慢”だ。


 サラが言う。


「抱っこします?」


 ジンの動きが一瞬止まる。

 合理が通じない存在の、受け取り方が分からない。


「……泣かせたらどうしよう」


「泣いてもいいです」


 サラはさらっと言う。


「泣くの、仕事ですから」


「……合理的だな」


「看護師なので」


 ジンは、ぎこちない手つきでサリを抱く。

 腕の角度が固い。

 背中の支えが強すぎる。

 でも、落とさない。絶対に。


 腕に入る力だけが、少しずつ調整されていく。


 数秒。

 時間が、そこで一度止まった。


 サリは泣かなかった。

 代わりに、じっとジンの顔を見ている。


 見返している。


 ジンの眉が、ほんの少しだけ動く。


「……見られてる」


 声は低く、逃げ場がない。


「評価中です」


 リクが即答する。


「厳しいな」


 ジンが言うと、リクが笑う。


「ジンさん、今、顔ちょっと柔らかい」


 サラがすぐにスマホを構える。


「ジンさん、その顔、貴重」


「消してくれ」


「消さない」


「……」


 ジンは言い返せない。

 言い返さない。

 その沈黙が、今は優しい。

 誰も、急いで埋めようとしない。


 サラは写真を確認して、小さく頷いた。


「いい写真」


「それ、何基準?」


「今の基準」


 そう言って、スマホを伏せた。


 ジンはサリの呼吸を聞きながら、視線だけをサラに向けた。

 そこにあるのは、言葉よりも短い同意だった。


 何かを問う視線ではない。

 確認する視線だ。


 サラは笑って、視線を逸らす。


「お茶、淹れますね」


 その声はいつも通り。

 けれど、背中の線がほんの少しだけ硬い。


 リクはそれに気づいて、気づかなかったふりをした。

 その選択が、この家の静けさを保っていた。



 夜。

 サリが眠ったあと、家は静かになる。


 キッチンの片付けも終わり、照明は少しだけ落とされている。

 リビングの空気は、昼より柔らかい。

 眠る前の家だけが持つ、独特の温度。


 サラはソファに座り、スマホを眺めていた。

 今日撮った写真と動画。

 サリの小さな音。

 リクの笑い方。

 ジンの硬い抱っこ。

 全部、増えている。


 サラは指で画面をスクロールして、ふっと息を吐く。


 日付を見る。


 2031/11/06


 サラは、深く息を吸った。

 胸の奥に、言葉にならない感覚がある。


(……明日)


 声には出さない。

 けれど、頭の中では確かに鳴る。


 “境目”という言葉が。


 リクが隣に座る。

 ソファが、わずかに沈む。


「疲れた?」


「ううん」


 サラは笑う。


「ただ、いっぱい残したいなって思って」


「写真?」


「うん。今の全部」


 リクは、そこで止める。

 問い返さない。

 深掘りしない。


 サラの“残したい”には、いつも理由がある。

 そしてその理由は、言葉にすると壊れる。


 リクはサラの手元を見る。

 スマホを持つ指が、ほんの少しだけ強く握られている。


 サラはサリの寝顔を撮った。

 画面の中、サリの頬がやわらかい影を持っている。


 その直後。


 画面の端に映った時計の表示が、ほんの一瞬だけ瞬いたように見えた。


 数字が狂ったわけじゃない。

 ただ、サラの目が追いきれなかっただけかもしれない。


 サラは瞬きをして、もう一度画面を見る。


 何もない。


「……気のせい」


 サラが、小さく言う。


 リクは聞こえないふりをする。

 聞こえなかったふりをする。


 そのふりが、今夜の優しさになる。


 サラは、最後にもう1枚、部屋全体を撮った。


 静かな部屋。

 眠る子。

 隣にいる人。

 テーブルの上のコップ。

 カーテンの揺れ。


 “何でもない”ものだけが、写っている。

 でも、“何でもない”がいちばん大事だと、サラは知っている。


 サラは小さく言った。


「……ありがとう」


「なにが」


「全部」


 リクは答えない。

 代わりに、サラの肩に触れる。


 触れ方は軽い。

 押さない。

 引っ張らない。

 ただ、そこにいる温度を渡す。


 サラは目を閉じる。

 泣かない。


 泣くほどじゃない。

 でも、喉の奥が少しだけ詰まる。


 サラはその感覚に気づいても、何も言わない。

 言ったら、崩れる気がする。


 幸福は、説明に変えた瞬間、重くなる。

 今は、重くしたくない。


 サラは目を開けて、いつも通りの顔で笑う。


「……明日も、撮ろ」


「うん」


 リクは短く答える。


 それだけで充分だった。

 いま夜を越えるために必要なのは、言葉じゃなく温度だった。


 サラはスマホを胸元に抱えて、最後に小さく息を吐いた。


 世界は、まだ、ここにあった。

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