EP02-4 音のない日々
翌日。
リクは出社し、いつも通りの椅子に腰を下ろした。
上司が、少し気を遣ったような顔で近づいてくる。
「無理してないか。」
「大丈夫です。」
「……言うと思った。」
苦笑と共に、ファイルがデスクに置かれる。
「新しい案件だ。精神科領域のデータ解析。海外との共同研究らしい。」
「精神科……。」
「“フェーズ”とは呼んでいないが、認知レベルの異常が増えてるって話だ。ニュースでも見ただろ。」
ニュースで聞いた「原因不明」という言葉が、胸の奥でわずかにざらつく。
「やります。」
迷いはなかった。
理由のわからない苦しみを、
ただ眺めているだけの自分が、いちばん苦しかった。
「……いいのか。」
「わからないままって、気持ち悪いじゃないですか。」
上司は驚いたように息を飲み、ゆっくり頷いた。
「お前らしいな。」
リクはページをめくる。
《新規認知異常パターンに関するAI補正アルゴリズム検証》
並ぶ数字と、匿名の患者が残した自覚症状。
《最近、感情が“少し遠いところ”にある感じがする》
《泣ける場面で涙が出ない》
《“楽しいと判断してるだけ”に感じる》
読むほどに、自分の胸の底が静かに痛んだ。
自分だけがおかしいわけじゃない。
どこかで、同じものを抱えている人がいる。
その事実が、わずかに息をさせてくれる。
「……知りたい。」
気づけば声に出ていた。
どうして説明できないのか。
どうして揺らいでいるのか。
どうして“異常なし”で片付いてしまうのか。
その理由に、少しでも触れたかった。
——
仕事を終えたあと、リクは日報画面の前に座っていた。
《新規案件のデータセットを確認。初期解析を開始。》
定型文を入力し終えた指が、自由記述欄の前で止まる。
普段は何も書かない場所。
今日は、なぜかカーソルの点滅が気になった。
『個人的な動機になるかもしれませんが、
説明できない苦しみを“原因不明”の一言で終わらせるのは嫌です。』
『AIが間違っていると言いたいわけではありません。
ただ、その判定の向こう側にいる人間のことを、もっと知りたい。』
『もし何かに近づけるなら――
誰か一人でも、救えるかもしれないと思いました。』
書き終えて、静かに息を吐く。
「……送信。」
エンターキーを押す。
画面が一瞬だけ揺らいだ。
ラボのどこかでAIが新しいログを読み込む。
ただ、それだけの出来事。
——
帰宅すると、部屋は薄暗かった。
テーブルの白い花は、昨日より少しだけ色が落ちている。
リクは花瓶の水を換え、そっと元の位置に戻した。
「……明日も、生きるか。」
呟きは決意ではなく、習慣に近い。
生きる理由はまだ見つからない。
でも、手放し方もわからない。
スマホを枕元に置き、静かに目を閉じる。
遠い感情のまま、世界はゆっくりと夜へ沈んでいった。




