EP15 言葉のない帰り道
過去の記憶から、現実へ引き戻されるように。
窓の外の空は、少しだけ早く暗くなっていた。
季節は、秋の終わり。
夏の残り香はもう街にいない。代わりに、冷たい金属みたいな空気が、夜の隙間から差し込んでくる。
2035年。
ラボの廊下を歩きながら、リクは自分の足音を数えていた。
数えたいわけじゃない。
数えている、という事実が、どこか安心になるだけだ。
ポケットの中でスマホが小さく震える。通知。どうでもいいやつ。
それでも画面を開いてしまうのは、指の癖だった。
写真アプリが、勝手に「思い出」を提示してくる。
海辺の温泉街。湯気。旅館の廊下。人のいない光。
サラがつけた、長すぎるタイトルの夜。
画面の中のサラは笑っている。
なのに、胸のどこかが、静かだった。
静かすぎる、というのが正しい。
リクは親指で画面をなぞる。拡大して、戻して、もう一度見て、閉じる。
何度やっても、同じだ。写真の情報は脳に入ってくる。色も形も、温度も、ちゃんと覚えている。
でも――「意味」が、届かない。
胸が動かない、というより。
胸に届く前に、薄い膜が1枚、間に挟まってしまったみたいだった。
息を吐く。白くはならない。まだ。
それが、逆に怖かった。季節が進んでいないわけじゃないのに、感覚だけが遅れている。
リクは歩き出す。
足を止めると、余計なことを考えてしまうからだ。
ラボの出入口、ガラス扉に映る自分の顔を一瞬だけ見て、視線を外す。
変わっていない。見た目は。
だからこそ――変わり始めている「中身」を、誤魔化せない。
駅のホームに立つ。電車が入ってくる。
風が頬を撫で、夜の匂いが濃くなっている。
(違和感、じゃない)
この言葉を、口に出さないまま心の中で置く。
研究者として、言葉を選ぶ癖がある。曖昧に逃げない癖がある。
そして一番、残酷な癖がある。
理解できてしまう癖。
記憶が消えているわけじゃない。
感情が無いわけでもない。
なのに「意味」が薄れていく。
それは、症状だ。
電車が動き出す。窓の外の灯りが流れる。
リクは目を閉じて、サラの声を思い出そうとする。
――思い出せる。
声の高さも、抑揚も、息の抜き方も、全部。
なのに、そこに「熱」が乗らない。
思い出せるのに、嬉しくない。
思い出せるのに、苦しくもない。
その状態を、リクは知っている。
論文の中で読んだわけじゃない。
もっと嫌な形で、理解している。
電車のアナウンスが、少し遅れて聞こえた。
いや、聞こえたのは同じタイミングだ。ただ、意味だけが、遅れた。
次は――どこだっけ。
思考が、ワンテンポ遅れて追いかけてくる。
リクは、笑ってしまいそうになる。
笑えないのに、笑ってしまいそうになる。
研究者の自分が、観測を始めてしまうからだ。
⸻
翌朝。ラボの共有スペース。
コーヒーの匂いがして、誰かが電子レンジを鳴らしている。
リクはマグを持ったまま、白い壁を見ていた。
壁には、何の意味もない。
意味がないものに目を置くと、頭が少しだけ静まる。
「リク」
背後から声。
ジンだ。いつもの低い声。必要なことだけを言う声。
「今日の観測データ」
「あ、はい。まとめてます」
リクはすぐに返す。
自分でも驚くくらい、滑らかに言葉が出た。
言葉は出る。行動もできる。手も動く。
だから、周りは気づきにくい。
リクはデータ端末を開く。
指がキーボードを叩く音が、ひどく大きく聞こえる。
横目で、ジンの横顔を見る。
ジンはリクの目を見ない。見ないまま、全部見抜くタイプだ。
その無駄のなさに、少しだけ救われる。
「……いつも通りだな」
ジンが言う。
評価でも、慰めでもない。ただの確認。
「いつも通りです」
リクも言う。
自分に言い聞かせるみたいに。
カップに口をつける。熱い。
熱いのに、熱さが「嬉しく」ない。
(やめろ)
思考が勝手に進む。
比較するな。分類するな。判断するな。
今は、まだ、やれる。
まだ、やれる。
「ジンさん」
「ん」
「大丈夫ですよ、まだ」
言ってしまってから、リクは自分の言葉を少しだけ後悔する。
余計だ。余計なことは言わない方がいい。
でも、口が勝手に動いた。
ジンはリクを一瞬だけ見た。
ほんの一瞬。
その一瞬が、やけに重い。
「……そうか」
ジンはそれだけ言って、視線を端末に戻した。
リクは笑う。
口元だけで。
表情筋だけで壊れないように。
サラが好きだった、あの笑い方で。
サラが「似てる」と言った笑い方で。
ただ、それが「サラ」につながる感覚が、薄い。
笑い方のフォームだけが残って、意味だけが削がれていく。
その恐ろしさを、リクは知っている。
だからこそ、笑う。
怖いから笑うんじゃない。崩れないために笑う。
誰かを救いたいから、笑う。
⸻
秋が深くなるはずの街は、いつの間にか冬の入り口に立っていた。
空気の密度が変わる。音が硬くなる。風が乾く。
ラボの帰り道。
リクは交差点の前で立ち止まった。信号が赤だからじゃない。
立ち止まった瞬間、街の音が、一拍遅れて耳に届いた気がした。
車のクラクション。
遠くの子どもの声。
足元の砂利を踏む音。
音は聞こえる。
だけど、頭が「今のは何だ」と認識するまでに、ほんのわずかな遅れがある。
息を吸う。
肺に入ってくる空気が、冷たくて、痛い。
リクは歩き出す。
遅れを帳消しにするみたいに、少し速く。
家に帰り、靴を脱ぎ、照明をつける。
部屋は静かだ。誰の気配もない。
その「静けさ」を、リクは受け入れている。受け入れてしまっている。
テーブルの上には、サラが残したものがある。
紙の写真。何枚も。何枚も。
サラは言っていた。
「いいの。紙って、ちゃんと“そこにある”って感じがするじゃん」
「こういうのさ、ちゃんと形に残しておきたいの」
その言葉を、リクは覚えている。
覚えているのに、胸が動かない。
動かない自分を、リクは冷静に観察してしまう。
「……これが、フェーズB……か」
独り言。
諦めじゃない。嘆きでもない。
ただの観測。
記憶は消えていない。
ただ、その意味が落ちていく。
写真を持つ指が、少しだけ震えた。
震えた理由が「悲しいから」なのか「怖いから」なのか、もう判断しない。
判断すること自体が、今の自分を壊す気がした。
リクは写真をそっと戻し、椅子に座る。
暗い部屋で、天井を見上げる。
白い天井。
あの時と同じ白だ。
でも、今はまだ、ここじゃない。ここに来るのは、まだ先だ。
まだ先だ、という言い方が、どこか他人事みたいに聞こえて、リクはもう一度笑った。
口元だけで。
壊れないように。
(ジンさん……頼まないとな)
思考が、自然にその方向へ向かう。
感情じゃない。義務でもない。
もっと単純な、残ったものの計算。
(サラが見た未来を、託さないと)
リクはサラを思い出す。
温泉の夜、腕に触れた指先の温度。
ブランケットの中で、肩が触れ合った時のぬくもり。
高台で、花束を抱きしめた笑顔。
あれは、確かに、幸せだった。
「幸せだった」という事実は、今も分かる。
ただ、その事実に、心が追いつかない。
追いつかないままでも、やることは変わらない。
(俺は、最後まで“人間”でいたい)
それだけが、妙に鮮明だった。
窓の外で、風が鳴った。
空気が少し重い。
世界の膜が、薄くなっていく。
⸻
2035/11/07
朝のラボは、いつもより静かだった。
音が少ない、というより、
音が遠い。
窓に張りついた霧が、外の輪郭を一段階だけ曖昧にしている。
ガラスについた水滴が、わずかに震える。
揺れているのか。
それとも、揺れているように見えるだけなのか。
リクには、もう判断がつかなかった。
白衣に袖を通す。
布が腕に触れる感覚が、少し遅れて伝わる。
呼吸を数える。
吸って。
吐く。
もう一度。
途中で、間がずれた。
戻そうとするが、きれいには揃わない。
体は、まだ動いている。
数値も、歩行も、会話も。
けれど、心だけが、どこか置いていかれている。
今日はサラの命日だ、という事実は分かっている。
分かっているのに、胸の奥が静かすぎた。
悲しみが消えたわけじゃない。
ただ、悲しみに触れる回路が、遠くなっている。
それが――怖かった。
業務を終えたフロアは、人の気配が薄かった。
照明の白さが均一で、影ができにくい。
床を踏む音が、ほんの一拍遅れて返ってくる。
出口の前に、ジンが立っていた。
いつもと同じ場所。
いつもと同じ姿勢。
それだけで、今日は違うと分かった。
「リク」
名前を呼ばれる。
「行くぞ。今日も、車出す」
淡々とした声だった。
いつもなら、ここで言葉が出る。
ありがとうございます、とか、すみません、とか。
でも今日は、それが浮かばない。
「……はい」
短い返事だけが、口から落ちた。
ジンは何も言わず、先に歩き出す。
リクは、その背中を追った。
車内は、驚くほど静かだった。
エンジンの低い音。
タイヤが路面を噛む感触。
それ以外は、何もない。
いつもなら、どうでもいい話をする。
ラボの愚痴、研究の進捗、少し笑える話。
今日は、それがない。
どこへ向かっているのか。
それだけは、言葉にしなくても分かっていた。
⸻
舗装が途切れる。
草を踏む音に変わり、
細い道が、丘の上へと続いている。
車を降りた瞬間、冷たい風が頬を打った。
リクは一歩、前に出て――
ほんのわずか、体勢を崩した。
大したことじゃない。
転ぶほどでもない。
でも、ジンは歩調を落とした。
「……大丈夫か」
「平気です」
声は、軽かった。
軽すぎて、自分でも違和感があった。
斜面を上る。
一歩ごとに、呼吸が浅くなる。
体は、まだ言うことを聞いている。
でも、どこかで終わりを知っている。
丘の上は、静かだった。
風が草を揺らし、
遠くで街の音が、薄く響いている。
そこに、サラの墓がある。
リクは立ち止まった。
視線は向いているのに、
それが“墓”だという実感が、うまく結びつかない。
不思議と、涙は出なかった。
「……ジンさん」
「ん」
短い返事。
それだけで、十分だった。
「俺さ……ちゃんと、やれてましたかね」
声は静かだった。
揺れも、詰まりもない。
その事実が、少しだけ、不思議だった。
ジンはすぐに答えなかった。
間があった。
風が、草を揺らす音だけが続く。
「お前がいなかったら、もっと悪かった」
感情を乗せない、事実の言葉。
リクは、ほんの少しだけ目を細める。
笑う直前の、あの表情。
「……じゃあ、最後に、ひとつだけ」
呼吸が、浅くなる。
整えようとして、逆に乱れる。
「ジンさん……託す」
言葉は、選ばれなかった。
「サラが……見た未来を……」
世界の輪郭が、滲む。
音が、遠ざかる。
「ジンさん……頼む」
それは願いじゃない。
懇願でもない。
ただの、引き渡しだった。
力が抜ける。
支えられた感触を、
どこか遠くで、ぼんやりと感じた。
⸻
沈む。
世界が、ゆっくり薄くなる。
音が抜け、
感覚が、一枚ずつ外れていく。
――沈む。
そして。
まぶたが、ふっと軽くなる。
光がある。
空気が、温かい。
まだ、世界は壊れていない。
目を開くと、
視界の向こうに、柔らかな輪郭があった。
「おかえりなさい、ジンさん」
よく知っている声が、そこにあった。




