EP13 陽だまりに触れた日のこと
2029年4月7日
まだ少しだけ冷たさの残る朝だった。
ラボの窓の外では、街路樹が淡い緑と桜色を半分ずつまとっている。
出勤時間が近づくにつれ、フロアのあちこちでPCのファン音が立ち上がり、コーヒーの匂いが混ざり合っていく。
「おはようございます」
リクがフロアに入ると、すぐ近くのデスクから先輩の声が飛んだ。
「お、リク。昨日のログ、ちゃんと送っといたからな。感謝しろよ」
「了解です。感謝は、解析結果で還元します」
「は?なんだその経済回してます感」
「感謝も数値で残さないと、すぐ忘れるじゃないですか」
「うわ、めんどいタイプ」
先輩があきれたように笑い、周囲の何人かもつられて吹き出す。
リクのこういう短い返しは、ラボ内のちょっとした名物になっていた。
「今日は病院じゃなかったか?」
「はい。午前中は精神科病院で、データの説明とヒアリングです」
「外勤いいなぁ。こっちは窓も開かない人工光だぞ」
「代わりましょうか。先生方の質問、全部答えてくれるなら」
「それは無理。いってらっしゃい」
軽口を交わしながら、リクはタブレットに必要なデータをまとめていく。
感情の揺れを示すグラフ、薬の投与タイミングと生活パターンの相関、AIが弾き出したリスクスコア。
いつの間にか、そのどれもが日常の一部になっていた。
支度を終え、ラボを出る。
駅までの道には、風に押し流されるように花びらが転がっていた。
電車を乗り継いで、病院最寄り駅へ。
改札を抜けると、春の光がいっそう鮮やかになる。
病院へ続く坂道には、咲き残った桜と新しい葉が混じっていた。
歩くたび、足元でアスファルトと土の匂いがかすかに立ち上る。
(今日は、噛まずに説明できるといいな)
自分にそう言い聞かせながら、病院の自動ドアをくぐる。
その瞬間、視界の端を白が横切った。
白衣。
けれど、リクの目を止めたのは布ではなかった。
待合から患者を呼びに来ていた看護師が、ゆっくりと周囲を見渡している。
名前を呼ぶ前に、表情を確認するために。
いきなり声をかけて驚かせないように、少し離れた位置から一度、様子を見ている。
「○○さん、こちらへどうぞ」
声は驚くほどやわらかかった。
患者が立ち上がる瞬間、さりげなく距離を詰める。
不安そうに立ち上がれない人には、半歩だけ近づいて「ゆっくりで大丈夫ですよ」と目で伝えていた。
その動きには、迷いがなかった。
目の前の人間を観察し、判断して、ためらわずに動く人間のリズム。
(……すご)
口には出さなかったが、胸の奥でそうつぶやいていた。
看護師が患者と並んで廊下を歩いていく途中で、ふとこちらを見る。
視線が、1秒だけ重なった。
その短いあいだに、その瞳が自分のことを測るように、静かに観察している感覚があった。
(この人、根っこは優しいな)
それは、サラのほうにもほとんど同時に浮かんだ直感だった。
タブレットを抱えて立っている青年は、少し緊張しているようで、それでもこちらの様子をそれとなく気にしていた。
すぐに視線は外れる。
看護師は患者を連れて診察室のほうへ。
リクは軽く会釈し、医局へ向かう。
(仕事、仕事)
胸のざわつきを、いつものルーティンで押さえ込むように、担当医との打ち合わせ室へ足を速めた。
⸻
その病院を訪れる頻度は、月に数回。
統計データの共有、AI解析結果の説明、現場の声のヒアリング。
リクの役割は、ラボと現場のあいだに橋をかけることだった。
春が少しずつ進むにつれて、その白衣の看護師の姿を見かける回数も、自然と増えていく。
ナースステーションの中でカルテをまとめている後ろ姿。
処置室から患者を見送り、ほっとしたように息を吐く横顔。
誰かの話を真剣に聞いている時だけ、少し眉間に寄る皺。
そのすべてが、視界の片隅にひっかかっていた。
ある日、担当医が何気なく言った。
「さっきもデータの話、ありがとう。あの看護師さんも助かってると思うよ」
「さっきの、ですか?」
「サラさん。ほら、さっき待合で患者さん呼んでた」
「あ……」
名前を聞いた瞬間、胸の奥で何かが小さく鳴る。
「患者さんの表情を見るのが上手でね。異変があると、すぐに教えてくれるんだ」
「そうなんですね」
知っていた、という感覚と、初めて知った、という事実が同時に浮かんでくる。
ただ「白衣の人」だった存在が、「サラ」という名前を持った誰かへと変わる。
⸻
別の日。
データ説明を終え、タブレットを片付けていると、背後から声がした。
「リクさん、で合ってる?」
振り向くと、白衣の看護師が立っていた。
首から下げられた名札に、「サラ」と印字されている。
名札の下段に「外来」の小さな文字が見えた。
「あ、はい。リクです」
「さっきの、怒りっぽくなったって言ってた患者さんのデータ、少しだけ見せてもらってもいい?」
質問の仕方は、具体的で端的だった。
何を知りたいのかが、最初からはっきりしている。
「この人、生活リズムはそこまで変わってないはずなんだよね。でも反応だけ、微妙に尖ってきてて」
サラはカルテを軽く持ち上げ、そこに書かれたメモを指でなぞる。
「“疲れやすい”って言葉も増えてる。そういうのって、データからも見えたりする?」
リクはタブレットの画面をスワイプし、該当しそうな指標をいくつか呼び出す。
「この辺りですね。睡眠の質と、日中の活動量、あと感情の揺れ幅を数値化したものです」
説明を始めるときだけ、リクの口調は自然と変わる。
余計な冗長さが抜け、必要な情報だけを拾い上げて並べていく。
「ここ、数週間で“落ち込みの深さ”のグラフはそんなに変わってないんですけど、“イライラまでの速度”が少し上がってて」
「速度?」
「はい。刺激が入ってから、強い反応が出るまでの時間です。前はゆるやかに上がってたのが、最近は急に跳ね上がりやすくなってて」
指先でグラフのラインをなぞりながら、リクは言葉を重ねる。
「だから、“怒りっぽい”って自覚が出やすいけど、“疲れてる”って自覚のほうが本当は先に来てる可能性が高いです」
「……なるほど」
サラは、画面とリクの顔を交互に見ながら、ゆっくり頷いた。
「怒ってる自分だけ見てると、自分を責めちゃうけど。実際は、その手前でずっと疲れてたのかもしれないってことだね」
「たぶん、そうです」
「ありがとう。患者さんにも、その話、少し噛み砕いて伝えてみる」
そう言って、サラはふっと笑った。
「AIって、冷たいイメージだったけどさ。こうやって聞くと、“揺れてるところを拾ってくれる”道具なんだなって思えてくる」
「冷たいところもありますけど」
「人もそうでしょ」
軽く返されて、リクは一瞬だけ言葉に詰まる。
「……ですね」
「うん、今の“ですね”好き」
くすっと笑ったあと、サラはナースステーションへ戻っていった。
背中を見送りながら、リクは心の中で頭を抱える。
(なんで最後、あんな締まりのない返事なんだよ)
とはいえ、その日から、2人は廊下ですれ違うたびに軽く会釈を交わすようになった。
⸻
別の日。
外来がひと段落した夕方、病院の玄関近くでリクは資料を整理していた。
「お疲れさま、リクさん」
振り向くと、私服に着替えたサラが立っていた。
白衣を脱いだ姿は、思っていたよりも肩の力が抜けて見える。
「今日もデータ、助かったよ。先生たち、難しい質問ばっかりでしょ」
「いや、まあ……」
「“いや、まあ”って言った時の顔、けっこう面白いね」
「褒めてます?」
「褒めてる」
そう言ってから、サラは少しだけ真面目な顔になる。
「もしよかったらさ。今後も患者さんのことで相談したい時、直接聞いてもいい?」
「もちろんです。いつでも」
「じゃあさ」
サラはスマホを取り出し、画面をタップする。
「連絡先、交換しよ。仕事のために」
最後の一言だけ、ほんの少しだけいたずらっぽかった。
「……はい。ぜひ」
喉が乾くのを誤魔化しながら、リクもスマホを取り出す。
画面同士が近づき、短い電子音が鳴る。
春の夕方の光が、2人の間をやわらかく満たしていた。
⸻
その夜から、メッセージのやり取りが始まった。
『今日はありがとうございました。先生たち、データ大絶賛でした』
『それは先生たちの解釈力が優秀なんですよ』
『それ、本人たちの前でも言っていいやつ?』
『場の空気次第です』
『じゃあ今度、会議室のドアの前で相談するね』
『そこでダメって言ったら、世界でいちばん小さい謝罪会見になりますね』
画面の向こうで、会話は軽やかに転がっていく。
仕事の話はすぐに終わり、すぐに日常の話に変わる。
『休みの日、何してるの?』
『インドア寄りです。音楽聴きながらデータ眺めたり、映画見たり』
『ガチでインドアだね』
『外出すると、データ取れないじゃないですか』
『人付き合いのデータは?』
『それは今、サラさんと収集中です』
送り出したあとで、自分で顔を覆う。
既読の文字がつく前から、心拍数だけが勝手に上がっていた。
『そういうとこだよ、リクさん』
返ってきた一文には、笑っている顔がそのまま貼りついているようだった。
『サラは?』
『仕事で人に会いすぎるから、休みは空見てること多いかも』
『空、データ少なそうですね』
『そういうところだよ、リクさん(本日2回目)』
『空のログ、俺が代わりに取っておきます』
『じゃあ今度、“今日の空ログ”のスクショ送って』
『任せてください。世界のバックアップ取ります』
スクロールしても途切れない文字列は、そのまま2人の距離の変化を記録していった。
やがて、メッセージの中で「今度」が現実の予定に変わる。
『今度、外でゆっくり歩きませんか』
『いいね。春のうちに歩きたい』
最初のデートは、川沿いの桜並木だった。
満開は過ぎていたが、枝先にはまだ薄い花が残っている。
風が吹くたび、花びらがはらはらと落ちて、川面に小さな島を作った。
「こうやって、ゆっくり歩くの久しぶりかも」
サラが、川の流れを見ながら言う。
「病院の廊下もけっこう歩いてると思いますけど」
「廊下は“移動”だから。“散歩”じゃない」
「定義が違うわけですね」
「そう。全然違う」
そんなやり取りをしながら、並んで歩く。
サラは患者の話を、重くなりすぎない程度に話す。
うまく笑えなかった人のこと。
逆に、笑いすぎて疲れてしまう人のこと。
リクはAIの話を振られると、急にスイッチが入る。
「感情って、言葉になる前に揺れてるじゃないですか。その揺れを、身体のデータから拾えないかっていうのが……」
熱を帯び始めた自分の声に気づき、途中で慌ててブレーキをかける。
「すみません。語りが長いですね」
「ううん。好きだよ、その感じ」
「どの感じですか」
「仕事の話してる時だけ、ちょっと“科学者の顔”になるところ」
「普段は?」
「普段は、ワンコ」
「ワンコ……」
「褒めてるよ?」
春の光の中で、笑い声が重なる。
その後も、デートのたびに、新しい景色が2人の間に増えていった。
雨の日は、映画館へ行った。
シリアスな作品を観た帰り道、サラがポップコーンのバケツを抱えながら言う。
「さっきの映画より、このポップコーンの量のほうが現実味なかったね」
「途中からストーリーよりポップコーンの減少率見てました」
「仕事病すぎない?」
「データは裏切らないんで」
別の週末には、水族館へ。
青い照明の中、クラゲの水槽の前で立ち止まり、ふわふわ漂う姿をぼんやり眺める。
「人間も、あのくらい力抜いて生きられたらいいのにね」
「抜きすぎると、仕事なくなるよ」
「そっか。じゃあ、今のままでいっか」
「サラはたぶん、あのクラゲより忙しいからね」
「比べる対象どうなの」
ショッピングモールでは、雑貨屋をぐるぐる回った。
サラは写真立てやマグカップを手に取り、「これは誰に似合うかな」と想像するのが好きだった。
「リク、このマグカップ似合いそう」
「なんでそれ俺?」
「“デスクでうっかりコーヒーこぼしてそうな人ランキング”上位っぽいから」
「それ、完全に偏見だよね」
「偏見じゃなくて、観察結果」
「こわい職業病」
「そっちもでしょ。“こぼした回数”でランキング作りそうだもん」
「……否定できないのが悔しい」
フードコートでは、サラが食べきれなかったポテトを「はい」と渡される。
「人を太らせる気ですよね」
「違うよ。“一緒に食べるとおいしい”ってデータ集めてるだけ」
「その実験、永続で参加したいです」
「すぐそういうこと言う」
そんなふうに笑い合っているうちに、季節はゆっくりと夏へ向かっていった。
日差しは強くなり、アスファルトから立ち上る熱の匂いが混ざり始める。
空の青は、春よりも濃く、まっすぐに目に刺さってきた。
ある夜、メッセージのやり取りの中で、サラがふいに言った。
『夏っぽいところ、どこか行きたいな』
『夏っぽいところ……海?』
『海もいいけど、陽射しをちゃんと浴びられるところ』
『じゃあ、ひまわり畑とかどう?』
『いいねそれ。似合いそう』
『どっちに?』
『秘密』
『こっちに似合うって言われたら、一生自慢します』
『その自慢、わりと見たいかも』
『じゃあ、期待値だけ先にもらっときます』
『休み合う日、探そっか』
スクロールしても途切れない文字列の、その先に。
新しい季節の匂いが、確かに混ざり始めていた。
⸻
ひまわり畑へ向かう日、空は朝から抜けるように青かった。
リクのボロボロの車は、洗車しても全体の古さは隠しきれない。
ところどころ塗装が剥がれ、内装の布も少し色あせている。
「あ、写真のまんま」
待ち合わせ場所で車を見たサラが、楽しそうに目を細めた。
「写真より傷、多いけどね」
「そのほうが、思い出詰まってそうで好き」
「ポジティブだな」
「看護師だからね。ポジティブじゃないと、やってられない時もある」
そんな会話をしながら、2人は車に乗り込む。
エンジンをかけると、少し低めの音が車内に響く。
「エアコン、ギリギリ頑張ります」
「頑張れエアコン。今日だけはヒーローだからね」
窓の外を、夏の景色が流れていく。
道端の雑草でさえ、陽射しを受けて眩しく見えた。
コンビニの前では、日除け帽子を被った子どもがアイスをかじっている。
遠くでは、工事現場のクレーンがゆっくり腕を動かしていた。
「夏の匂いってさ」
信号待ちのタイミングで、サラが窓の外を見ながら言う。
「洗濯物と、土と、陽射しと、あと人の汗と、色々混ざってるよね」
「最後だけ急に生々しい」
「現実だからね」
くすっと笑ったあと、サラは小さく手を伸ばして、エアコンの吹き出し口の向きを直した。
「それでも、なんか好きなんだよね、この匂い」
「俺は、今日の匂い、けっこう好きだな」
「今日の?」
「サラが乗ってる車の中の匂い、って言えば伝わる?」
言葉にしてから、数秒遅れて恥ずかしさが追いついてくる。
「……自爆したね、今の」
「自覚あります」
「でも、嫌いじゃないよ。そういう自爆」
ひまわり畑に近づくと、景色は一気に黄色に染まった。
視界の端から端まで、
太陽に向かって伸びる花、花、花。
土の匂いと、陽射しの熱が混ざり合い、空気が少し重くなる。
「わ、すご……」
車を降りた瞬間、サラの声が自然に漏れた。
背丈より少し高いひまわりが、2人を見下ろすように並んでいる。
風が吹くたび、花びらがかすかに震え、葉の擦れる音が周囲を満たした。
「写真、撮ろっか」
「撮って。ひまわりに負けないように頑張る」
「いや、もう勝ってるけどね」
「そういうところだよ、リク」
サラは花のあいだに立ち、少し背伸びをして笑う。
その横顔も、真正面の笑顔も、ひまわりの黄色と同じくらい眩しかった。
「はい、もう1枚いきます」
「どんだけ撮るの」
「後でデータで残したいから」
「出た、“データで残したい”」
逆に、サラがスマホを構える番になる。
「はい、リク。ちょっとこっち向いて」
「いや、自分はいいよ」
「良くない。せっかく来たんだから、“今日ここにいた証拠”残しとこ」
ひまわりのあいだから顔を出すように言われ、リクは言われるがままに立つ。
シャッター音がいくつか重なる。
「変な顔してたら削除してよ」
「変な顔も含めて保存しとく」
「保存しないで?」
「する」
そんなやり取りをしながら、ひまわり畑を1周するころには、2人とも汗ばんでいた。
売店で冷たい飲み物を買い、木陰でひと休みする。
遠くでセミが鳴き始めていた。
「これだけ歩いたら、今日の歩数、けっこういきそうだね」
「あとでデータ送ろうか?」
「心拍も?」
「心拍は……見せたくないな」
「なんで」
「“ドキドキしてます”って数字でバレるの、ちょっと恥ずかしい」
サラがさらりと言ったその一言に、リクの心臓が一瞬本気で跳ねた。
「……」
「今の、聞こえてる?」
「うん。フルボリュームで聞こえた」
「よし」
それ以上、サラは深掘りしない。
暑さと、ひまわりの圧に紛れるように、本音だけが小さく置かれていく。
ひまわり畑の近くには、小さな丘があった。
駐車場から少し離れた場所に、なだらかな坂道が伸びている。
舗装が途切れた先、草を踏んだ細い道の奥に、その丘はあった。
「ちょっと、寄ってみない?」
サラが指さした先が、その丘だった。
「行ってみようか」
2人は並んで坂を上る。
足元の土は乾いていて、ところどころに小さな石が顔を出している。
頂上に近づくにつれ、視界が開けていく。
さっきまで自分たちが歩いていたひまわり畑が、少し小さく見える。
その向こうに広がる住宅街と道路。
さらに遠くには、ビルの輪郭と、かすんだ山の線。
「ここ、いいね」
丘の上で立ち止まり、サラが息を吐いた。
風がひとつ、2人の間を通り抜ける。
ひまわりのある場所より、少しだけ涼しい。
「高いとこ好きなんだ?」
「好き。世界を“ちょっと俯瞰して見てる感じ”になるじゃん」
「完全にデータの見方だな、それ」
「データのせいにしない」
サラは、少しだけ前に出て、両手を広げるように空を仰いだ。
「夏の陽の匂い、ここだと強く感じるね」
「うん」
「洗濯物と、土と、陽射しと、今日ここまで一緒に来た時間の匂い」
サラの言葉は、具体的なようで抽象的だった。
でも、そのどれもが、今この瞬間の空気にちゃんと触れている。
しばらく、2人とも黙った。
沈黙が気まずくなる前に、風が間をつないでくれる。
夏の夕方に近づく光が、丘の斜面をゆっくり撫でていった。
「ねぇ、リク」
名前を呼ぶ声は、それまでより少しだけ低かった。
「ん」
「最初に病院の廊下で見かけた時さ」
サラは視線を前に向けたまま、ぽつりと言葉を落とす。
「“この人、きっと優しい根っこがあるな”って思ったんだよね」
「……そう見えた?」
「見えた。患者さんの話をしてる時の顔、ちゃんとこっち見てくれてたし。データの話してる時も、自分の言葉で説明しようとしてた」
風が少し強くなる。
髪が揺れて、陽射しの角度が変わる。
「最初は、“仕事で頼れる人”って思ってた。
でも、メッセージで話して、何回も会って、いろんな場所行って」
サラは指で数を折るように、ゆっくりと言葉を重ねていく。
「桜の川沿いとか、映画館とか、水族館とか、ショッピングモールとか、今日のひまわりとか」
「だいぶ歩いたね、俺ら」
「うん。気づいたら、けっこう一緒に歩いてた」
サラは、そこで初めてリクのほうを向いた。
「それでね」
胸の奥で、小さな音がした気がした。
「いつの間にか、“仕事で頼れる人”じゃなくて、“隣にいてほしい人”になってた」
その言葉は、特別な装飾もなく、ただ真ん中に置かれた。
「リク」
名前を呼ばれる。
夏の光と風が、耳の奥で少しだけうるさく感じる。
「私、あなたのことが好きだよ」
時間が、ほんの少しだけ伸びる。
心臓の鼓動が、1回ずつはっきり分かるほどゆっくりに感じた。
「……」
声が出なかった。
喉の奥で言葉がもつれて、呼吸だけが上下する。
「びっくりさせた?」
「……かなり」
「だよね」
サラは、自分でも笑いながら小さく肩をすくめる。
「でも、どこかでちゃんと言っておきたかった。
“仕事だから一緒にいる”って線引きのままにしたくなかったから」
その言葉が、胸の奥に静かに沈んでいく。
リクは、深く息を吸った。
春から今日までの景色が、一気に頭の中を駆け抜ける。
廊下ですれ違った最初の日。
ナースステーションでの会話。
桜の並木。
映画館の暗闇。
水族館の青い光。
ショッピングモールの雑踏。
ひまわり畑の黄色。
全部を抱え込むようにして、ようやく言葉を掴む。
「……俺も、サラのことが好きだよ」
声が少し震えているのを自覚しながら、続ける。
「冗談とかじゃなくて。仕事の都合とかでもなくて。
ちゃんと、サラが好きだ」
口に出した瞬間、胸の中の何かがほどけた気がした。
「最初に廊下で見た時から、なんか気になってて。
話すたびに、その“なんか”が大きくなっていって……」
そこで、自分で恥ずかしさに耐えきれず、言葉を切る。
「……説明、下手だな、俺」
「ううん」
サラは首を振る。
「今ので、十分伝わった」
目尻に、少しだけ光るものが浮かぶ。
泣きそうなのか、笑っているのか、自分でも分からない表情。
「好きだよ、サラ。めちゃくちゃ好きだよ」
最後の一言は、思い切り押し出すように言った。
「……それ、反則」
「反則だった?」
「反則だけど、嬉しいから許す」
サラはそう言って、そっと右手を差し出した。
リクも、自分の左手を伸ばす。
指と指が触れ合い、しっかり絡まる。
掌の温度が混ざり合う。
汗ばんだ感触も、今は全部愛おしい。
風がまた吹いた。
ひまわり畑から上がってきた陽射しの匂いと、土の匂いと、2人が歩いてきた時間の匂い。
それらが全部混ざり合って、丘の上を通り抜けていく。
「ここ、いい場所だな」
「うん。なんか、“ちょっとだけ世界から離れてる感じ”がする」
「じゃあ……ここ、2人の秘密基地ってことにしない?」
口にしてから、少しだけ照れくさくなる。
「秘密基地?」
「うん。現実からちょっとだけ距離を取れる場所、って意味で」
「いいね、それ。名前つけるセンスも、嫌いじゃない」
「今の、ギリギリ褒めてないよね」
「半分は褒めてる。半分は、これから一緒にいい名前つけてこうって意味」
サラは、つないだ手に少しだけ力を込めた。
「じゃあ決まり。ここ、私たちの秘密基地」
夏の夕方の光の中で、2人は手を繋いだまま、ゆっくりと丘を降りていく。
今日という日の続きへ。
まだ何も壊れていない、明日と明後日と、その先の未来へ向かって。




