EP12-4 それでも、今日という日の続きへ
夕方の空は、昼間よりわずかに色を失っていた。
研究施設の駐車場には、社員たちがぽつりぽつりと散っていく姿があった。
ジンの車の助手席に、リクが静かに乗り込む。
「すみません、運転お願いして」
「問題ない」
短い会話。
シートベルトの音が、車内に小さく響く。
走り出した車は、まだ明るさの残る幹線道路へ滑り込んだ。
窓の外では、日常の色がいつもどおり流れていく。
コンビニの看板。
歩道を行き交う人々。
夕飯を買いに寄ったのだろう、袋を提げて駐車場へ戻る家族。
その全部が、変わらない世界の風景だった。
リクは膝の上の紙袋にそっと手を添える。
中には、ひとつのガラス瓶。
特別な銘柄でもない。
ただ、ラベルの色と香りの説明が、ふとサラを思い出させただけだった。
目的地が近づくにつれ、街灯の数が減る。
車は坂道を上り、静かな空気へと入っていった。
車を停めると、外の空気がひんやりと頬を撫でた。
舗装の途切れた細い道を、2人はゆっくり歩く。
もう、迷うことのない道だった。
サラの墓は、木漏れ日の落ちる丘の頂上近く。
小さなスペースにある。
リクは足を止め、刻まれた文字を見つめた。
『Sara 2030/11/07』
あの日から、約4年半。
ジンは静かに一礼する。
その仕草には、説明できない重さがあった。
リクも同じように頭を下げる。
風がひとつ、草をゆらして通り過ぎた。
リクは紙袋を開け、ボトルを取り出す。
キャップを外し、カップに少しだけ注ぐ。
ひとつは石の前へ。
ひとつは自分の手へ。
「今日は、これにしました」
ぽつりと落としたその声は、誰に向けた言葉か分からない。
サラへか。
隣のジンへか。
あるいは、あの日の自分へか。
ジンは自分のカップに手を伸ばさない。
ただ、リクが注いだ酒の香りを、ほんの短く確かめる。
それだけだった。
飲まない。
それを言葉にする必要もなかった。
リクは静かにカップを掲げる。
「……サラ、ありがとうな」
声は震えていない。
強くも弱くもない。
ただ、胸の奥底から滲み出た“事実の言葉”だった。
ジンは黙ってうなずいた。
沈黙は拒絶ではなく、共有だった。
リクだけが口に含む。
ジンはそれをただ見守る。
夕方の光が、ゆっくりと夜に溶け始めていた。
ジンの視界には、墓の石が淡く照らされていた。
そこに宿る5年分の重さ──
それは、言葉にしないほうが届く種類の重さだった。
サラと過ごした日々。
失ったあとの空白。
研究に費やした時間。
世界をつなぎとめた努力。
どれも、ここへ戻ってくる理由になった。
「ジンさん」
静かな呼びかけに、ジンは視線をずらす。
「なんだ」
「……ここまで来れたの、ジンさんのおかげですよ」
「そうか」
「そうですよ。あのとき、“仕事に戻れ”って言ってくれなかったら……俺、止まってたかもしれない」
「止まる自由もあった」
「でも、俺には……選べなかったと思います」
風がまた吹き、草を揺らす。
ジンは墓石から空へ視線を移した。
夕焼けと夜の境界が、静かに溶け合っている。
「止まらなかったのは、お前だ」
「え?」
「選んだのは、お前だ。
俺が何を言ったとしても、歩いたのはお前だ」
その言葉は、不器用な励ましではなく、ただの事実だった。
けれど、その事実が、リクの胸の奥をそっと支えた。
しばらく、風だけの時間が流れる。
リクが深く息を吐いた。
「……帰りますか」
ここから帰る場所は、もう“サラの待つ家”ではない。
けれど、空っぽではなかった。
仕事があり、仲間がいて──
そして、ジンがいた。
「ああ」
短い返事で、2人は立ち上がる。
石にもう一度だけ頭を下げ、空になったカップを片付ける。
帰り道の空は、ほとんど夜だった。
街灯が増え、遠くに赤いテールランプの帯が見える。
世界は完全には救われていない。
ノイズは今もどこかに残っている。
それでも──
“手前で救える人”は、5年前より確かに増えた。
失ったものは戻らない。
それでも、人は前に進む。
静かな夜の中を、2つの影が並んで歩いていく。
今日という日の続きへ。
そして、その先に続いていく、まだ見えない日々へ。




