EP11-4 静けさの向こう側へ
会議が終わったあと、ラボに戻る通路は、妙に長く感じた。
窓の外の空は、夕焼けと曇り空の中間のような色をしている。
赤と灰色が混ざり合い、どちらにも振り切れずに揺れていた。
「ジンさん」
エレベーターを降りたところで、リクは隣を歩くジンに声をかけた。
「さっきの、“戻れるルート”の話ですけど」
「ああ」
「ああいうのって、やっぱり、普通の人には見えないもんなんですか」
「普通、という言葉の定義にもよるが」
「少なくとも、俺には全然見えないです」
苦笑混じりにそう言うと、ジンは少しだけ考えるような間を置いた。
「俺にだって、全部が見えているわけではない」
「でも、さっきのグラフの重ね方とか、ああいうのは……」
「見ようとしただけだ」
その言い方が、不思議とすとんと胸に落ちる。
「見ようとすれば、見えることもある」
ジンは、廊下の先を見据えたまま言った。
「ただ、それをやるには、それなりの覚悟が要る」
「覚悟……」
「見えてしまったものは、知らなかった頃には戻れないからな」
その言葉には、わずかな重さがあった。
自分自身に向けているような響きも混ざっている。
「リク」
「はい」
「今回のプロジェクトは、長くなる」
ジンは歩みを止めずに続ける。
「結果が出るまでに、何年もかかるかもしれない。途中で批判されることもあるだろうし、“意味があるのか”と言われることもある」
「そう、ですよね」
「それでもやるか」
問われて初めて、「選べる」ということに気づいた。
サラを失ってから、リクはただ流されるように仕事にしがみついていただけだ。
でも今、目の前にひとつの“道”が置かれている。
そこには、確実な保証も、約束された報酬もない。
あるのは膨大なデータと、見えない相手との戦いだけだ。
それでも。
「やります」
リクは、ほとんど迷いなく答えていた。
「……やりたいです」
言い直す。
「サラがいなくなったのに、何も変えられないままだと、きっと俺、どこかで壊れると思うんで」
言葉にすると、少しだけ胸が軽くなった。
「だから、これで世界がどうなるかなんて分からなくても、“何もしなかった”って後悔だけは、したくないです」
静かな廊下に、その決意が落ちる。
ジンはしばらく無言だった。
歩く速度も変えず、ただ前を見ていた。
やがて、ほとんど聞こえるか聞こえないかの声で呟く。
「……そうか」
「はい」
「なら、やるしかないな」
その言葉は、励ましでも、約束でもなかった。
ただの事実確認。
それでも、妙に心強かった。
ラボのフロアに戻ると、いつもの機械音が迎えてくれた。
コンピューターのファンの音。
プリンターの作動音。
誰かの打鍵音。
そこに、ほんの少しだけ、新しい音が混ざった気がした。
新しいプロジェクト用のフォルダが、サーバー上に作成される音。
AIの解析アルゴリズムが、別のモードで走り始める音。
実際には聞こえないはずのそれらが、リクにははっきりと感じられた。
「リク」
「はい」
「さっきのミーティングで出した症例のうち、戻りの傾向があった患者のリストをまとめてくれ」
「分かりました」
「そこから、共通する行動パターンを抽出する。生活リズム、対人関係、服薬状況……細かいところまで全部だ」
「全部、ですか」
「全部だ」
迷いのない声。
そこに、優しい言葉はない。
だが、リクには分かった。
これは「仕事を振っている」のではなく、「前に引っ張っている」のだと。
「やります」
椅子に座り、モニターに向き合う。
指先が、自然とキーボードに乗った。
サラがいない世界。
その静けさの中で、リクの視界には、少しだけ色が戻り始めていた。
それは、鮮やかな青でも、まぶしい白でもない。
赤く濁りかけた世界の中に、かすかに差し込んだ、薄い光の筋のような色だった。
――
窓の外が、ほんの一瞬だけ赤く見えた気がした。
夕焼けと、街のネオンと、信号の光。
それらが混ざり合って、世界を薄い赤で塗りつぶしている。
しかし、その赤は。
ほんのわずかにだけ、さっきよりも薄く見えた。
勘違いかもしれない。
気のせいかもしれない。
それでも、今はそれでよかった。
静かに進み始めた、抑制薬プロジェクト。
世界を止めるための仕事であり、
同時に――リク自身が立ち止まらずに済むための、細い足場でもあった。




