EP11-3 静けさの向こう側へ
午後の会議室は、窓から差し込む光で白く満たされていた。
丸いテーブルを囲むように、数人の白衣とスーツ姿が座っている。
テーブルの中央には、数枚のグラフと資料が重ねられていた。
リクは端の席に座り、資料を手に取った。
ページをめくるたびに、同じ単語が繰り返し現れる。
《感情鈍麻》《易怒性》《自我感の希薄化》
そして、その横に小さく添えられた一文。
《器質的異常なし》
「この半年で、この手の症状を訴える患者が、有意に増えている」
進行役の医師が、前方のスクリーンを指し示す。
グラフの線が、じわじわと右肩上がりに伸びていた。
「しかし、従来の診断基準に当てはめると、“明確な病名”はつかない。投薬しても、劇的な改善は見られないケースが多い」
室内に、低いざわめきが広がる。
「一時的な社会ストレスの増加、という仮説もあるが……」
「それにしては、波ではなく“土台”が上がり続けている」
「AIの解析は?」
「傾向のパターン化まではできているが、“原因”については特定できていない」
スクリーンには、AIが弾き出した複雑な図形が映し出されていた。
リクの席からは、ただの線と点の集合にしか見えない。
それでも、その密度と絡まり具合から、「楽観できない何か」であることだけは伝わってきた。
「……ここで、ひとつ提案がある」
ジンの声が、会議室のざわめきをすっと割った。
全員の視線が、自然と彼に向かう。
「この症状群を、“感情のフェーズ変化”として扱う」
フェーズ、という単語に、何人かが眉をひそめる。
「つまり?」
「従来の“うつ”や“適応障害”と同じカテゴリーに入れるのではなく、感情処理そのものが別の層へ移行し始めている、という前提だ」
ジンはスクリーンのグラフを見上げた。
「今はまだ、線は揺らいでいる程度だ。だが、この揺らぎが一定の境界を超えたとき、集団レベルで“別の相”に落ち込む可能性がある」
「別の相?」
「簡単に言えば、“怒るのが当たり前の世界”とか、“何も感じないのが普通の世界”とか、そういう方向だ」
説明は淡々としている。
だが、その内容は、静かに背筋を冷やすものだった。
「極論を言えば、人類全体の“感情の基準値”が、今とは違う場所に固定される」
「そんなことが、現実的に……」
「起こるかどうかは分からない。しかし、このグラフの形は、そういう変化の前段にも見える」
ジンは、資料の一枚をテーブル中央に滑らせた。
「ここ数年で増えている、感情鈍麻の症例。その経過を追ったデータだ」
グラフの線が、ある地点で微妙に曲がっている。
「ここまでは、従来のパターンと同じ推移だ。だが、この地点を境に、回復ラインが鈍くなる」
「薬が効きにくくなっている、ということか」
「そうだ。従来の薬理では届きにくい層に、“何か”が沈んでしまっている」
短い沈黙が落ちた。
リクは、そのグラフをじっと見つめる。
サラが、最後のほうで何度か口にしていた言葉が蘇る。
『最近、患者さんの“気持ち”に、前より届きにくい気がするって、同僚のみんなも言ってるんだよね』
あのときの何気ない呟きが、いま胸の奥で引っかかった。
「だからこそ、必要なのは、落ち込みを手前で止められるかもしれない薬理だ」
ジンの声が続く。
「症状を上から押さえ込むのではなく、感情処理の層が落ち込むのを“手前で踏みとどまらせる”ための薬だ」
「そんなものが、理論的に可能なのか?」
年配の医師が、腕を組んで問う。
「難しいが、不可能ではないと考える」
「根拠は?」
「この数値の動きだ」
ジンは、いくつかのグラフを並べ替え、重ね合わせた。
線と線が、ある地点で奇妙な形を描く。
「ここに、わずかな“戻りの傾向”がある。従来の薬を投与した患者の一部に、正常値への回帰が見られている」
「でも、それは……」
「確率は低い。だが、“戻るルート”が完全に閉じているわけではない、ということだ」
ジンは、一呼吸置いた。
「そこを絞る。戻れた要素を、薬理の仮説として検証する」
会議室の空気が、少しだけ変わる。
それは、単純な期待ではなかった。
希望とも違う。
もっと現実的な、「やるべき仕事」の匂いがした。
「……どうやって、そのルートを特定する」
先ほどの医師が、声の調子を少し和らげて尋ねる。
「AIに絞らせる」
ジンの答えは簡潔だった。
「今までの解析は、“原因探し”に偏りすぎている。そうではなく、“戻れた人間の共通項”に絞って再解析させる」
「戻れた人間の、共通項……」
「そこに、薬理のヒントがあるはずだ」
ジンの目は、どこか遠い一点を見ていた。
未来を思い出しているわけではない。
ただ、誰よりも深く「今」を見ている目だった。
「そのために、このラボのログが必要だ」
ゆっくりと、周りを見渡す。
「ここには、“揺らぎの始まり”のデータが集まっている。今ならまだ、手が届く」
リクの胸の奥で、小さな音がした。
カン、と何かが打ち鳴らされるような感覚。
それは、どこかで聞いた鐘の音にも似ていた。
「……やりましょう」
思わず、声が漏れた。
会議室の視線が、一瞬だけリクに集まる。
自分が発言する番ではなかったのに、口が動いてしまった。
「失礼しました。その……」
言い淀むリクに、ジンが視線を向ける。
「いい」
短い言葉だった。
「続けろ」
「はい……」
リクは、言葉を探しながら息を吸い込む。
「もし、このまま何もしなかったら、きっともっと“おかしく”なっていくんだと思います」
自分の中の焦燥を、そのまま言葉に乗せた。
「さっき、ジンさんが言ってたみたいに、“怒るのが当たり前の世界”とか、“何も感じないのが普通の世界”とか、そういうのが、本当に……」
喉の奥が、少しだけ詰まる。
「そんな世界になったら、たぶん、誰かが泣いたり笑ったりできる場所が、全部なくなる気がして」
サラの笑顔が、ふと脳裏に浮かんだ。
夕飯のときにこぼれた笑い。
何でもない日常で、ふとこぼれた涙。
それらが全部、「変なこと」として扱われるような世界を想像したくなかった。
「だから、やれることがあるなら、やりたいです」
静かな会議室に、リクの声だけが落ちる。
少しの沈黙のあとで、誰かが小さく笑った。
「若いのに、立派なこと言うな」
「いや、立派とかじゃなくて……」
照れ隠しのように頭をかくと、ジンがごくわずかに口元を緩めた。
「では、決まりだな」
進行役の医師が、まとめるように言う。
「感情の相変化を抑える薬――仮に、“抑制薬”と呼ぼう。その開発プロジェクトを正式に立ち上げる」
壁の時計の針が、音を立てて進んでいく。
その音に、ほんの一瞬だけ“赤い粒”が混ざったように見えた。
だが次の瞬間には、何事もなかったかのように、白い会議室に戻っていた。




