EP11-1 静けさの向こう側へ
サラの葬式が終わってから、まだ何日も経っていないはずだった。
けれど、その「何日」が、リクにはうまく数えられなかった。
玄関の靴箱の上には、香典返しの紙袋が置きっぱなしになっている。
テーブルの端には、名刺や封筒が重なったまま。
黒いネクタイは、ハンガーにかける途中で力尽きたように、椅子の背にひっかかっていた。
片付けようと思えば、すぐにでも片付けられる。
ただ、それをしてしまったら本当に「終わってしまう」気がして、手が止まる。
朝の光は、変わらず窓から差し込んでくる。
カーテンの隙間から入った光が、テーブルの上のカップを白く縁取っていた。
そのカップは、サラが最後に使ったものだ。
飲みかけの水は、もうとっくに捨てられている。
けれど、カップの位置だけが、あの日から一度も動いていなかった。
「……」
リクは、そのカップから視線をそらし、無理やり時計を見る。
いつもより少し早い時間。
昨日も、その前も、同じくらいの時刻に家を出たはずだ。
何を食べたかは、あまり覚えていない。
パンだった気もするし、カップ麺だった気もする。
ただ、どの日も同じように味がしなかった。
「行ってきます」
声に張りはなかった。
玄関先で、癖のように振り返る。
そこにいるはずの人影は、もうない。
空っぽのリビング。
カーテンの揺れだけが、小さく応える。
いつもなら、そこで返ってきたはずの声。
『行ってらっしゃい。』
脳内で再生されるその声音が、自分の記憶なのか、想像なのかすら曖昧だった。
リクは、靴ひもを結び直した。
玄関の扉に手をかける。
ようやく現実が動き出す。
扉を閉める音が、やけに大きく響いた。
階段を降りる途中、廊下の照明が少し赤みを増したように見えた。
天井の蛍光灯は、いつも通りの白さのはずなのに。
(……寝不足だな)
そう自分に言い聞かせ、足を速める。
外に出ると、街はいつも通りだった。
通勤ラッシュに向かう人の波。
信号待ちで並ぶ車。
コンビニの店員の「いらっしゃいませ」という声。
全部が、変わっていない顔をしていた。
(変わってないのは、こっちの景色だけか)
胸の奥で、何かがじわじわと削られていく感覚があった。
それでも、リクはラボへ向かう。
仕事が、そこにあるから。
今はそれしか、手を伸ばす場所がなかった。
——
ラボに着くと、空気は少しだけ重かった。
誰かが空調を低く設定しているわけではない。
会話の量も、極端に減っているわけではない。
けれど、笑い声の高さや、足音のリズムが、以前とは微妙に違っている気がした。
「おはようございます」
リクがフロアに声を投げる。
何人かが振り向いて、軽く頭を下げた。
その中のひとりは、一瞬だけ名前を呼びかけようとして、口を閉じる。
「……おはよう」
そのわずかな間を、リクは受け取ってしまう。
当たり前だ。
サラの葬式には、同僚も何人か来てくれた。
誰もが、気まずさと同情の混ざった目で、彼を見る。
それでもリクは、いつも通りの笑顔を作ろうとした。
「お疲れさまです」
席に座り、PCの電源を入れる。
画面が立ち上がるまでの数秒が、妙に長く感じた。
少し遅れて、ジンがフロアに入ってきた。
白衣のポケットには、ペンとカードキー。
手には数枚の資料。
表情は、以前とほとんど変わらない。
「おはようございます」
「ああ」
短い返事。
ジンは自分の席に資料を置くと、すぐにモニターに視線を向けた。
何かのログを呼び出し、数値を追っている。
その横顔は、相変わらず冷静で、整っていた。
ただ、以前よりも目の奥が少しだけ暗い色をしている気がする。
(……ジンさんまで、壊れたら困るな)
そんな考えが、ふと頭をよぎる。
リクは、自分のモニターに戻った。
今日も患者のデータが、数十件分並んでいる。
《感情の起伏が鈍い》《やる気が出ない》
《些細なことでイライラしてしまう》
どのカルテにも、似たような単語が並んでいた。
目を滑らせるたびに、胸の中で何かがざらつく。
だが、そこに意識を向けると、足場が崩れてしまいそうで。
リクは、あえて感情を遮断するように、キーボードを叩いた。
(仕事だ。これは、仕事だ)
データを整理し、タグをつけ、AIに投げる。
数分後、解析結果が返ってくる。
そのループだけが、かろうじて彼を現実に繋ぎとめていた。
ふと視界の端で、何かが揺れたような気がした。
顔を上げると、窓の外の空が、わずかに赤みを帯びて見える。
朝の光はすでに白に近いはずなのに、薄いフィルターを通したような色になっていた。
(天気、悪くなるのかな)
独り言のように呟き、再び画面へ視線を落とした。
世界の色が少しずつ変わり始めていることに、まだ誰も気づいていなかった。




