EP10-4 どこかで途切れた、静かな夜
家へ向かう道は、いつもと同じはずだった。
駅からマンションまでの、見慣れた通り。
コンビニの前を通って、小さな公園の横を抜ける。
電柱に貼られた古いポスター。
消えかけた横断歩道の白い線。
どれも何度も見てきたものだ。
(……やっぱり、酔ってるな)
足取りがふらついているわけではない。
でも、遠くの街灯の光が、いつもより少しだけ滲んで見えた。
さっきの居酒屋での会話を思い出す。
ユアのこと。
リオの笑顔。
「今度」という言葉。
それと同じくらい、今は、ジンと並んで歩いた帰り道の感触も、薄く残っていた。
「……」
マンションのエントランスをくぐる。
オートロックの扉が、いつもの電子音を鳴らして開いた。
エレベーターの鏡に映る自分の顔は、少しだけ赤い。
でも、目の奥だけは妙に冴えていた。
(今日は、ちゃんと“ただいま”言おう)
そんなことを、ぼんやりと考える。
ユアの「今度」が、永遠に来なかったことが、どこか頭の隅に引っかかっている。
(“また今度”って、ほんとに便利だな)
だからこそ、今ちゃんと帰れる“今日”に、ちゃんと声をかけようと思った。
エレベーターの扉が開く。
廊下を歩き、自分の部屋の前に立つ。
鍵穴にキーを差し込む。
カチャリ、と音がした。
「ただいまー」
いつもより、少しだけ明るい声。
酔いも混じった、少し軽い調子。
返事は、なかった。
靴を脱ぎながら、違和感がほんのわずかに背中を撫でる。
(……寝てるか)
そう自分に言い聞かせる。
今日は自分も遅くなったし、サラも仕事で疲れているんだろうと思った。
廊下の照明をつける。
玄関から続く細い廊下が、白く浮かび上がる。
リビングのドアを開ける。
中は真っ暗だった。
「サラ?」
名前を呼ぶ声が、闇の中に吸い込まれる。
手探りで壁のスイッチを探し、電気をつける。
柔らかい白い光が、部屋全体を照らした。
テーブルの上には、コップが1つ。
飲みかけの水が少しだけ残っている。
ソファの脇には、畳まれかけた洗濯物。
クッションがひとつ、背もたれからずり落ちていた。
生活の途中で、ふっと時間が切れたような光景。
「寝室……かな」
声に出す必要のない言葉を、小さくこぼす。
廊下の先、寝室のドアは半分だけ開いていた。
隙間からは、灯りが漏れていない。
ドアノブに手をかける。
「サラ」
もう一度、名前を呼ぶ。
返事は、やはりない。
ドアを押し開けた。
ベッドの上に、サラがいた。
横向きで、こちらに背中を向けるようにして寝ている。
白いシーツ。
少し乱れた掛け布団。
一瞬だけ、「ああ、寝てるんだ」と思った。
「……サラ?」
呼びかけながら、一歩近づく。
部屋の中の空気が、妙に冷たく感じた。
窓は閉まっているはずなのに、風の通り道だけがどこかにあるような、薄い空洞感。
ベッドの脇まで歩く。
サラの顔が見える位置まで、ゆっくりと回り込む。
そこにあったのは、“眠っている顔”とは違うものだった。
穏やかで。
苦しんだ跡も、泣いた跡もない。
ただ、どこか遠くを見てから、最後に少しだけ安堵したような表情で止まっている。
胸の上下は、ない。
「……え?」
声が、勝手に漏れた。
意味のない音。
単語にもなっていない。
足元から、何かがすっと抜けていく感覚があった。
床に立っているはずなのに、自分の重さをうまく感じられない。
鞄の持ち手から、力が抜ける。
ドサッ、と鈍い音がして、床に落ちた。
その音だけが、やけに大きく響く。
「サラ」
名前を呼ぶ。
さっきより少しだけはっきりした声で。
返事は、やはりない。
呼吸の音も、寝返りの気配も。
いつもなら聞こえてくるはずの、小さな布擦れの音も。
何も、ない。
部屋の時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえた。
コチ、コチ、コチ。
不意に、その針が、ひとつだけ動きを止めた。
数秒か、数十秒か。
時間の感覚が、すべて曖昧になる。
そして、針は、止まっていた位置とは少し違うところから、また動き始めた。
「……」
リクは、声を失っていた。
泣くこともできない。
叫ぶこともできない。
喉の奥のほうで、何かが震え続けているのに、音として外に出てこない。
(なんで)
その言葉が、形になる前に崩れる。
(朝まで、普通に……)
今日の朝の光景を思い出そうとしても、うまく映像にならない。
サラが仕事に行くときの背中。
「行ってきます」の声。
全部、霧の向こう側に押しやられてしまったみたいだった。
目の前にあるのは、ただひとつの事実だけ。
サラが、動かない。
それだけ。
世界のどこかで、何かが静かに切り替わる音がした気がした。
寝室には、秒針の音だけが続いていた。
さっきまでと同じリズムで。
何事もなかったかのように。
ただ、リクの世界だけが、
音のない場所へ落ちていった。




