EP09-2 揺らいだ返事の、その先で
「リオー、靴下ちゃんと履けた?」
「はーい!」
玄関の小さな段差に座って、リオが足をばたつかせる。
サメのイラストがついた靴下のかかとが、少しだけねじれていた。
「かかと、反対だよ。こっち向き」
「えー、サメがおこってる」
「サメはちゃんとまっすぐじゃないとね」
冗談めかして言いながら、ユアはしゃがみ込んで靴下を直した。
その手つきは、ずっと前から繰り返してきた動きのはずなのに、どこかぎこちなく感じる。
玄関の横の壁には、夫と3人で撮った写真がもう1枚貼ってある。
ピクニックの帰りに撮った、夕方の公園。
夫がリオを肩車して、自分はその隣で笑っている。
靴紐を結びながら、ユアはふと顔を上げた。
「……ねえ」
誰もいないリビングのほうへ向かって、ぽつりと言葉が出る。
「あなたとの思い出が、心の中で“遠く”に行く時があって。
大切なのに。大好きなのに。
その感覚が……急に抜けるの」
自分の声が、少しだけ震えていた。
「わたし、そういうのが一番嫌いだったのにね。
“慣れ”とか“麻痺”とか。
人の気持ちが薄くなっていくのを見るのが、一番怖かったのに」
写真の中の夫は、変わらず笑っている。
「今、わたしのほうが……遠くなってるのかな」
胸の奥に、ぞわっとした怖さが広がる。
それを直視する前に、リオの声が割り込んできた。
「ママー?」
「うん?」
「なんか、さっきからへん」
リオが眉をきゅっと寄せて、じっと見上げてくる。
「へんってなに、それ」
「なんか、“ママじゃないみたい”ってなるときある」
心臓が一瞬、強く打った。
「……ごめんね」
謝る言葉だけは、すぐに出てきた。
「ママ、大丈夫だよ。ちょっとね、ぼーっとしてただけ」
頭を撫でる。
その撫でる手に、「ごめん」と「だいじょうぶ」が同時に乗っている。
(なんで、こんな冷たい感じになるの)
リオの髪の手触りを確かに感じているのに、その愛おしさが、指先から脳へ届く前に途切れてしまう瞬間がある。
その“気づき”に、眉間がきゅっと寄りかけた。
けれど、その違和感さえも、数秒後には薄れてしまう。
「気分転換しよっか。公園行こ」
「やった!すべりだい、する!」
「すべりだい、何回する予定ですか」
「んー……いっぱい!」
その答えだけは、前と変わらない。
玄関のドアを開けると、外の空気が一気に流れ込んできた。
秋の匂い。少し冷たくて、少し乾いていて、空が高い。
リオの手を握って、マンションの階段を降りていく。
いつもと同じルート。いつもの交差点。
信号待ちの人の列。
横断歩道の前で立ち止まる。
信号は赤。車が何台か通り過ぎていく。
(赤は止まる。青で渡る)
当たり前の認識が、頭の中で一度だけ遠のいた。
赤い光が、ただの“光”になる。
意味が、数秒だけ抜け落ちる。
(……あれ?)
そのわずかな隙間のあいだに、隣でリオが手をぎゅっと握ってきた。
「ママ、あかいろ」
「……うん、赤だね。ありがと」
胸の奥に冷たいものが走る。
自分の代わりに“意味”を補ってくれた小さな手。
「ママ、やっぱりへん」
「ふふ、バレた?」
冗談めかして笑うと、リオもつられて少しだけ笑った。
その笑顔に救われた気がしたのに、その“救われた”という感情もまた、すぐに輪郭を失っていく。
信号が青に変わる。
周りの人たちが歩き出すのに合わせて、ユアも足を踏み出した。
公園までの道のりは、前と同じはずなのに、どこか“違う世界”を歩いているような感覚が、ずっと足元にまとわりついていた。




