EP09-1 揺らいだ返事の、その先で
日曜日の朝の光が、薄いレースカーテン越しにリビングへ流れ込んでいた。
洗濯機の回る音。
トースターのちいさな「チン」という音。
リオが床の上でクレヨンを走らせる、かすれた紙の音。
窓を少しだけ開けているせいで、外からは遠くの車の走る音と、近所の子どもの笑い声が混ざって聞こえてきた。
「ママー、見てー!これ、この前のサメ!」
リビングの真ん中で、リオが紙を高く掲げる。
青とグレーがぐるぐるに混ざった、大きなサメ。
「うん、上手だね。サメさんだ。」
ユアは声だけはいつも通りに返して、ソファの背に洗濯物をかけていく。
靴下、タオル、リオの小さなシャツ。
白いシャツを手に取ったところで、ふと手が止まった。
(……あれ?)
視線がテーブルのほうへ泳ぐ。
朝食の皿は片付いている。シンクにはマグカップが2つ。
(さっき、茶碗……洗ったっけ?)
さっきまでの動きが、ひと続きの映像として思い出せない。
洗った気もするし、まだのような気もする。
胸の奥が、ざらっと音を立てた。
「……やだ、わたし、何やってるんだろ」
自分にだけ聞こえるくらいの小さな声。
笑ってごまかそうとして、口角を上げる感覚だけが空回りする。
「ママー、ここに目かくの。こわいサメなんだよ」
「うん、こわいね。リオが書いたら、もっとこわいね」
言葉は出てくる。
でも、その「こわいね」の中身が、胸の中にちゃんと届いていないように感じた。
リビングの隅、棚の上。
そこに置かれた写真立てが、ふと目に入る。
海辺で笑っている、自分と夫とリオ。
まだリオが小さくて、夫の腕に抱かれている写真。
今より少し若い自分の笑顔が、まっすぐこちらを見ていた。
ユアは洗濯物をソファに置き、写真の前に立った。
「最近ね、なんか変なの」
独り言だと分かっていても、誰かに説明したくなる。
「気持ちが……薄くなるっていうのかな。
あなたとの思い出も、大切って分かってるのに、
“その気持ち”が一瞬だけ遠のくの」
口に出した途端、ぞくりとした。
今、自分が言った言葉が、一番怖かった。
「……何言ってるんだろ、わたし」
写真立てに触れそうになった指先を、途中で止める。
「大切に決まってるのに。あなたも、リオも。
大好きに決まってるのに。
……わたし、どうしちゃったんだろ」
胸の中で、何かがゆっくりと沈んでいく感覚があった。
その沈んでいく“何か”に、うまく名前がつけられない。
「ママー?」
後ろから、リオの声がする。
「ん?」
「きょう、どこ行くの?こうえん?それとも、サメのとこ?」
サメのとこ。
水族館のことを、リオはずっとそう呼んでいる。
「今日は……公園にしよっか」
振り返って微笑む。
笑っているつもりなのに、頬の筋肉の動きだけが妙に他人事に感じた。
「やった!」
リオはサメの絵を抱えて、ぴょんと跳ねる。
その嬉しそうな動きを見ているのに、胸の中の温度がほんの少し遅れて追いかけてくる。
(前は……もっと一緒に弾んでた気がするのに)
そう思った瞬間、その感覚さえも、すぐに霧みたいに薄れていった。




