EP02-2 音のない日々
喪服をハンガーにかけたあと、
しばらく、部屋の真ん中で立ち尽くしていた。
生活音のすべてが、遠い。
冷蔵庫のモーター音。
窓の外の車の音。
マンションの廊下を歩く足音。
世界は動いているのに、
自分だけが取り残されたみたいだった。
何をしていたのか、よく覚えていない。
眠ったのか、起きていたのかさえ曖昧なまま、
数日がぼやけた塊になって過ぎていった。
食べた記憶もない。
喉が渇いた気配もない。
ただ、時間だけが自動的に進んでいく。
スーツに着替えたのは、
「働きたいから」ではなく、
――家にいるのが、あまりにも苦しくなったからだ。
玄関のドアを開けた瞬間、
外の空気が肺に入る。
それだけで、少しだけ息がしやすくなった。
——
電車の揺れ。
車内アナウンス。
イヤホンから漏れる他人の音楽。
全部、薄い膜の向こう側にあるように聞こえた。
会社の自動ドアが、いつも通りの音で開く。
「……おはようございます。」
「あ……お、おはよう。」
同僚が、気まずそうな顔をした。
「無理、してないか?」
「無理の定義によります。」
自分でもきつい返しだとわかって、
すぐに言い直す。
「……すみません。仕事なら、できます。」
それだけは、本当だった。
思考の大部分は壊れていても、
数字とデータだけは、まだ形を保っている。
ラボの中は、いつもと同じだった。
冷蔵庫の駆動音。
試験装置のファンの音。
PCの回転音。
昨日までの自分も、
一週間前の自分も、
どこかにまだ残っているように見える。
それなのに、
本当に残っているのは「データ処理をする手」だけ。
「……戻ってきたか。」
隣の席の同僚が、小さく手を上げた。
「数日は来ないと思ってた。」
「家にいると、余計に……」
言葉が詰まる。
「……考えるので。」
「そっか。」
同僚は気まずそうに目を伏せたが、
それ以上は踏み込んでこなかった。
その距離感が、ありがたかった。
リクはモニターを開き、
自動的にデータの再解析に取りかかった。
AIの診断ログ。
治療プラン。
症状の推移。
どれも、感情を挟まなくても処理できる。
ただ――
「……これ。」
カーソルが、ある一文の前で止まった。
《最近、“自分が自分じゃないように感じる”と訴えあり》
胸の奥が、わずかにざわつく。
今、自分が抱えている感覚と、
どこか似ていた。
スクロールする。
《理由もなくイライラする日が増えたと本人は話すが、AI診断では異常なし》
《“感情が遠い気がする”と主観的に報告》
並ぶ言葉たち。
どこかで聞いたような症状。
その下に、AIのコメント。
《ストレスによる一時的な揺らぎ。経過観察を推奨》
「……経過観察。」
リクは小さく呟いた。
自分自身も、
同じように分類されている気がした。
“異常なし”
“正常範囲”
そう判定されても、
現実は遠くなったまま。
心の輪郭だけが、どんどん薄れていく。
そんな感覚。
そんな現実。
でも――
誰にも伝わらない。
画面の光だけが、
冷たく手元を照らしていた。




