EP08-1 あの小さな集まりの夜
病棟のナースステーションの時計の針が、昼と夕方のあいだをゆっくりと進んでいた。
夕方の検査出しと入退院の手続きが一段落して、廊下の足音も少しだけ少なくなっている。
プリンターのかすれた音と、遠くの処置室から聞こえる器具の小さな金属音だけが、病院の「今」を刻んでいた。
サラはカルテを数枚揃えて、バックヤードへ続く扉を肩で押した。
薄い蛍光灯の明かり。
壁際に並んだロッカー。
コーヒーメーカーの横には、誰かが差し入れた小さなクッキーの袋。
「ふぅ……。」
声にならない息が漏れる。
白衣のポケットに突っ込んでいたボールペンを外し、ロッカーの上に置いた。
そのとき、廊下側のドアがほんの少しだけ開いて、
外の空気が流れ込んできた。
「失礼しまーす。」
外来連携の事務が、書類の束を手に声をかけた。
「これ、入院前外来の分です。サインだけお願いします」
サラは受け取り、確認のために外来フロアへ足を向けた。
その途中、待合のベンチの端に――見慣れた後ろ姿があった。
小さな女の子が、大人の袖をそっとつまんで座っている。
髪を2つに結んで、足をぶらぶらさせながら、退屈そうに靴のつま先を眺めていた。
隣には、母親と思しき女性。
診察券を握りしめた手だけが、膝の上で落ち着きなく動いている。
(……あの時の、ユアさんだ。)
名前を呼ぶことはない。
でも、サラの中では一度、連携票で名前が目に入っていた“患者さん”のひとり。
「リオ、ここは病院だから偉い子は大人しくするんだよー。」
「はーい。」
リオは、よく笑う。
診察室に入るときも、退屈な待ち時間も、何かを見つけるたびに嬉しそうに指をさす。
その横で、ユアの返事だけが、少しだけ遅れる。
笑っていないわけではない。
ただ、どこか一部分だけが、
追いついていないように見える。
ユアが受付で会計をして、リオと手をつないで出口のほうへ歩いていく。
その背中を、サラは何気ないふりをしながら目で追った。
リオが何かを話しかける。
ユアが、ほんの少し間を空けてから答える。
その短い間が、サラの胸のどこかに小さく引っかかる。
(……また、少し、薄くなってる気がするな。)
診断がついているわけでもない。
データがあるわけでもない。
でも、女の子の目は、前より少しだけ“確かめるような色”を帯びていた。
サラはそっと視線を外し、バックヤードの奥へ戻る。
ロッカーのドアに背を預けて、ポケットからスマホを取り出した。
画面には、少し前の通知の履歴が並んでいる。
ラボ近くのラーメン屋のクーポン。
同僚からのスタンプ。
スクロールする指が、リクとのトーク画面で止まった。
『今度の月1ご飯、いつにする?』
『ジンさんのスケジュールもあるから、早めに決めたいな。』
少し前にやり取りしていたログ。
画面の下の入力欄に、サラはゆっくりと親指を滑らせた。
『そろそろ、3人でご飯どう?』
送信ボタンを押す。
『来月の20日なんてどう?時間と場所は私が決めるね!』
続けてそう打ち込み、送信する。
ほんの数秒後、すぐに既読のマークがついた。
サラはスマホをポケットに戻し、ナース服の裾を整えて、もう一度受付のほうへ歩き出した。




