EP07-3 手のぬくもりの記憶
「今日は待ちに待った水族館!」
リオではなく、ユアが心の底から発した言葉だった。
「ママ、おさかなさんすき?」
「うん、だーい好き!海のおさかなさんが特に好き。」
「そーなんだー。」
子供特有の何となく聞いて何となく終わらす会話術。
そんな愛おしさと水族館の楽しみがユアのテンションを上げ、リオよりも楽しんでいる。
水族館につくと、休日でもまだ混み始める前の時間帯だった。
天井から差し込む青い光が、通路を海の底みたいに揺らめかせている。静かな水音が、朝の空気と混ざって心地よい。
リオは入ってすぐ、クマノミの水槽へ駆けていった。
「ママー!にも!いたよ!」
ユアは笑って追いかける。
リオの声に混ざって、胸の奥がふっと温かくなった。
クマノミたちは、オレンジ色の身体をひらめかせ、イソギンチャクの隙間をすり抜けるように泳いでいる。
その揺れ方がどこかやさしくて、ユアは思わず見惚れた。
「ほんとだ。かわいいねぇ……ほら、あそこ。家族で寄り添ってるよ」
リオは水槽にへばりつくように見つめ、まんまるの目をさらに大きくした。
背中のリュックがずれかけ、ユアはそっと直してやる。リオは照れたように笑った。
通路を進むと、チューブ状の水槽にチンアナゴの群れが揺れていた。砂からぴょこんと顔を出したり、するりと引っ込んだり。
まるで音のない会話をしているみたいだった。
「みてママ!でてるー!」
「かわいいねぇ。ほら、あっちの子は恥ずかしがり屋さんかな?」
リオは何度ものぞき込み、そのたびにユアはそっと肩を支えた。
小さな体温が手に落ちるたび、胸の奥にやさしい何かが広がる。
大水槽の前に立つと、巨大なエイがゆっくり頭上を横切った。
大きな影がふたりを包むように落ち、リオは息を呑んだ。
その表情を見るのが、ユアは何より好きだった。
リオの瞳に映る世界が輝いているなら、それでいい。
今日という日が、ただやさしく刻まれていくなら、それだけで。
少し歩き疲れて、ベンチでランチにすることにした。
簡単なおにぎりだけど、リオは嬉しそうに頬張る。
「ママのおにぎりすきー」
「ありがと。リオの“すき”は、ママの元気のもとだよ」
口元についた米つぶを指で取ると、リオはくすぐったそうに笑う。
その仕草が、日常の宝物みたいに胸に残った。
帰り際、売店で小さなサメのぬいぐるみを見つけ、リオは目を輝かせた。
「これ……ほしい……」
「いいよ。今日は特別ね」
リオはサメをぎゅっと抱きしめ、嬉しそうに頬ずりした。
ぬいぐるみが今日の記憶を小さな形で残すように見えた。
外に出ると、夕方前の明るさがまだ残っていた。
楽しい時間の余韻が、体の中にゆっくり沈んでいく。
――あれ、そういえば鍵閉めたっけ?
ふいに胸の奥が少しだけ揺れた気がした。
けれど、そんな曖昧さは、日常に紛れて消える小さな揺らぎ。
リオがサメのぬいぐるみを抱えながら笑っている。
その笑顔を見た瞬間、さっきの揺らぎは完全に溶けて消えた。
手を繋ぎ直し、帰り道をふたりで歩いていく。
足元に落ちる影は穏やかで、どこまでも優しい日常だった。




