EP07-2 手のぬくもりの記憶
玄関の鏡の前で、ユアは髪をひと束まとめてゴムで留めた。
「よし。」
小さく呟いてから、振り返る。
「リオ、靴下はいた?」
「……はいた。」
リオは玄関の段差にちょこんと座り、短い足をぷらぷらさせている。
リュックはもう背負っていて、チャックもきちんと閉まっていた。
「偉いね。じゃあ、靴は?」
「まだ。」
「言うと思った。」
ユアは笑って、靴箱から小さなスニーカーを取り出す。
しゃがみ込んで差し出すと、リオが足を差し込んできた。
「きつくない?」
「だいじょうぶ。」
「じゃ、反対も。」
カチ、とマジックテープを留める音が、小さな玄関に心地よく響いた。
立ち上がってバッグを肩に掛ける。
カードケース、連絡帳、仕事用のメモ帳。
頭の中でいくつか確認してから、玄関のドアノブへ手を伸ばした。
「……あれ?」
ふと、財布の存在が頭から抜け落ちていることに気づき、指先が止まる。
「ママ?」
リオが首を傾げて見上げてくる。
「あれ……? ちょっと待って、私……」
ユアはバッグの中をごそごそと探った。
通勤用のICカードケースはある。ハンカチもある。
でも、肝心の財布がない。
「……あれ?」
同じ言葉がもう一度漏れる。
「ママ、さいふー。」
リオが、リビングのほうを指さした。
「え?」
「テーブルのうえ。」
ユアは一瞬きょとんとしたあと、「あっ」と目を見開いた。
「ほんとだ……!」
慌てて靴を脱ぎ、リビングへ走る。
テーブルの端にぽつんと置かれた財布が、何事もなかった顔をしていた。
「……やっぱり忘れてた。」
自分で苦笑しながら財布を手に取り、そのまま玄関へ戻る。
「リオ、ありがと。ママ、完全に置いてきてた。」
「うん。」
リオは特に誇らしげな顔をするでもなく、当たり前のように頷いた。
その自然さが、ふと胸に沁みる。
「ほんと助かった。これないとママ今日、お昼ごはん食べられないところだった。」
「たべれないの、やだ。」
「でしょ? ママもやだ。」
軽い冗談に乗せて、ユアはリオの頭をくしゃっと撫でる。
指先に伝わる髪の感触が、ちゃんと“生きている”今日の証拠みたいだった。
「リオがいてくれてよかったなぁ。」
「……ふふ。」
リオの口元が、ほんの少しだけ緩む。
言葉は少ないのに、表情の変化はわかりやすい。
「よし、今度こそ出発。」
ユアは財布をバッグの決まったポケットに入れ、もう一度、紐の結び目を確かめる。
何度も経験してきた“忙しい朝”のはずなのに、今日は少しだけ心が軽かった。
「ママ。」
「ん?」
「きょうのよるごはん、なにたべる?」
「え、もうその話?」
「うん。」
ユアは少し考えるふりをして、わざと大げさに首を傾げた。
「じゃあ……リオが教えてくれたお礼に、リオの好きなやつにしようかな。」
「オムライス。」
「即答。」
思わず笑ってしまう。
その笑い声につられて、リオも小さく声を漏らした。
そんな他愛もないやりとりが、玄関の狭い空間を満たしていく。
特別なことは何もない。
けれど、この何でもない朝の会話こそが、ユアにとっての“ちゃんと生きている証”だった。
「じゃあ、行こうか。」
「うん。」
ユアはリオの手を取る。
小さな手は少しひんやりしていて、指先がぎゅっと絡んでくる。
その感触を確かめるように、ユアは指を握り返した。
ドアノブを回す。
外の光が、二人の足元に差し込んできた。




