EP07-1 手のぬくもりの記憶
朝の光が、薄いレースカーテンを通って部屋の中に落ちていた。
キッチンのあたりだけ、少しだけ明るい。
コンロの前に立つユアの影が、床に柔らかく伸びている。
フライパンから"ジュウ"と油の音がした。
卵を割る音。トースターのカチリというスイッチ。
冷蔵庫のドアが開いて、牛乳パックが取り出される。
小さなワンルームに、生活の音だけが満ちていた。
「……ママぁ……」
背後から、小さな声がした。
振り返ると、寝癖のついた髪のままのリオが、リビングの入口に立っていた。
パジャマの裾を片手でぎゅっと握りしめている。
「おはよう、リオ。」
ユアは火を弱めてから、笑顔でしゃがみ込んだ。
「まだねむい?」
「……ねむい。」
リオはとことこ歩いてきて、ユアの首にそのまま抱きついた。
体温が、エプロン越しにふわりと伝わる。
ユアは片手でリオの背中を撫でる。
もう片方の手で、無意識にコンロのつまみを確認した。
「じゃあさ、朝ごはん食べたら、もう一回だけソファでごろごろしていいよ。」
「ほんと?」
「ほんと。」
リオはユアの肩にもたれたまま、こくんと小さく頷いた。
キッチンの横の小さなテーブルには、
昨夜のうちに広げておいたランチョンマットが二枚敷かれている。
一枚は大人用。
もう一枚は、角が少しだけほつれた、リオ専用のもの。
「ママ、きょう……ほいくえん?」
「うん。今日は保育園の日。」
「おともだち、いる?」
「いるよ。昨日も一緒に遊んで楽しかったでしょ?」
「……うん。」
短く答えながらも、リオの声には少しだけ不安の色が混じっていた。
その揺れを、ユアの指先はすぐに拾う。
「大丈夫。リオがいやなことあったら、ちゃんと先生が聞いてくれるよ。」
「ママは?」
「ママは、お仕事。
でも、お昼休みにちゃんとリオのこと思い出してるから。」
「……ほんと?」
「ほんと。」
ユアはそう言いながら、リオの額に軽くキスを落とした。
フライパンの卵が、ちょうどいい焼き色になっていた。
ユアはリオを一度そっと床に降ろし、器用に片手でフライパンを持ち替える。
「リオは、パンとごはん、どっちがいい?」
「きょうは……パン。」
「パンね。じゃあ、特別にジャムも少しだけ。」
「やった。」
リオの声が、さっきより少しだけ明るくなった。
その変化が、ユアには何よりの“安心材料”だった。
トーストの匂いが部屋に広がる。
バターの甘い香りと、コーヒーの苦い香り。
ユアは自分のマグカップにコーヒーを注ぎ、ミルクを少しだけ足した。
テーブルに朝食を並べ終えると、ユアは一度深く息を吸う。
今日も、始まる。
「リオ、イス座れる?」
「すわれる。」
返事と同時に、リオはお気に入りの子ども用イスによじ登った。
少しバランスを崩しかけたところを、ユアがそっと支える。
「ほら、あぶない。」
「へいき。」
「へいき、じゃないの。」
そんな何気ないやり取りに、自分たちの“いつもの朝”が詰まっている。
テレビはつけていない。
代わりに、小さなBluetoothスピーカーから、ピアノのインストが静かに流れている。
ニュースのざわめきも、誰かの怒鳴り声も、ここには届かない。
「ママ、これ、きのうの。」
リオがテーブルの端に置いてあった折り紙を指さした。
ぐしゃぐしゃになりかけた星の形。
黄色い折り紙が、少しだけしわくちゃになっている。
「ああ、それ。リオが作った星。」
「きょうもつくるんだ!」
「じゃあ、保育園から帰ってきたら一緒に作ろう。」
「やくそくだよ!」
「うん、約束。」
リオは満足そうにパンをかじり始めた。
口のまわりにジャムがつく。
ユアはそれを見て、少しだけ肩の力を抜いた。
この部屋の中だけは、
世界の“数字”や“管理”の話から、遠く離れている。
トントンとテーブルを指で軽く叩きながら、
ユアは小さな背中を見つめた。
(……この子の「きょうも」が、ちゃんと続きますように。)
祈りというほど大げさではない。
ただ、朝の光の中で、そっと胸の奥に浮かんだ願いだった。
時計の針が、出発の時間へと近づいていく。
ユアは席を立ち、シンクに食器を運び始めた。
カチャ、と皿が鳴る音。
リオがそれに合わせて、スプーンでテーブルをとん、と叩く。
二人だけの、小さなリズム。
まだ、この世界には何も起きていない。
何も壊れていない。
朝は、静かに、当たり前のように、進んでいく。




