EP06-4 名前を持たない違和感
店を出ると、夜風がふわりと三人の体を撫でた。
さっきまでいたダイナーの窓から、まだ笑い声が漏れている。ガラス越しの明かりが、歩道のタイルに四角い光を落としていた。
「いやー、今日も食べましたね……。明日から本気出します。」
両手を頭の後ろで組みながら、リクが大げさに伸びをする。
「それ、先月も聞いた。」
「ジンさん、記憶力よすぎません?」
サラが肩を揺らして笑った。
「でも、こうやって月に1回でも外でご飯食べてくれると、私としては助かるよ。リク、家での“だるいオーラ”が減ってきた。」
「ねえ、それ今日何回目のダメージですか。」
軽口の応酬が、夜の街のざわめきに溶けていく。
駅へ向かう通りには、仕事帰りの人たちや、買い物袋を提げた親子連れがちらほら歩いていた。信号待ちの列。コンビニの自動ドアの開閉音。遠くでバスが停まる音。
サラは、その中の「親子」の姿を無意識に目で追っていた。
「……あ。」
小さく息が漏れる。
横断歩道の手前、コンビニの明かりのそばに、見覚えのある後ろ姿があった。
小さな女の子が、大人のコートの裾をぎゅっと握っている。髪を二つに結び、足元は少し大きめのスニーカー。母親と思しき女性は、スマホを片手に持ったまま、ぼんやりと信号を見つめていた。
(外来の待合で……)
昼間、診察室の前のベンチで見かけた親子。
あの時も、女の子の笑いと、母親の返事の温度が、どこか噛み合っていなかった。
眼だけで追いながら、サラは一瞬迷う。
仕事を離れた場所。
病院でもない、プライベートな時間。
(……でも。)
女の子の表情がちらりと見えた瞬間、その迷いは薄れた。
さっきと同じ、不安を隠すみたいな笑顔。
「ごめん、ちょっとだけ。」
サラは二人にそう一言だけ告げて、リクとジンを交互に見つめた。
「サラ?」
リクが首を傾げる。
ジンも視線だけ、その方向へ向けた。
ほんの一瞬だけ。
街灯。車のライト。コンビニの看板。
色と光が夜の中に散らばる。
そして、サラの表情が急に輪郭を変えたように見えた。
歩幅を少し早め、サラは親子の斜め前まで歩き、タイミングを見計らって、わざと少しだけ声を大きく出した。
「あ、さっき病院でお会いしましたよね?」
母親がはっとしたように顔を上げる。女の子が、その陰からサラを見上げた。
「えっと……看護師さん、でしたよね?」
「はい。たまたま通りかかって、あれ?って。」
サラは、女の子と同じくらいの高さまで膝を折る。
「こんばんは。元気そうだね。」
女の子は一瞬きょとんとして、それから小さく頷いた。
「うん。」
その声には、ちゃんと温度があった。
サラは自然な笑顔を保ちながら、視線をそっと母親へ移す。
「お母さんも、これからお帰りですか?」
「あ、はい…そうです。」
言葉自体は普通だ。
けれど、返事までのわずかな間と、声の抑揚の平らさが、昼間と同じようにサラの感覚に引っかかる。
女の子が、母親の顔を上目で見た。
“これで合ってる?”と確かめるように。
(……やっぱり、気のせいじゃないな。)
サラは胸の奥で小さく息を飲む。
「最近、夜は少し涼しくなってきましたね。お子さん、風邪ひかないようにだけ気をつけてあげてくださいね。」
「そうですね……気をつけます。」
母親は、ちゃんと礼儀正しく頭を下げた。
それでも、その動きのどこか一部が、ほんの少しだけ“追いついていない”。
その様子を、少し離れた場所でジンは見ていた。
(……ん?)
親子の周りだけ、音が半拍遅れて届く。
女の子がスニーカーで地面を蹴る音。
母親のスマホケースがカバンに当たる小さな音。
人の声。車のタイヤが路面を擦る音。
全部、聞き慣れた日常の音のはずなのに、薄い膜を一枚通して耳に入ってくるような違和感。
視界の端で、光の色がわずかに変わる。
街灯の白は、そのまま白だ。
それでも、親子のシルエットの縁取りだけが、数字の線画みたいに細く浮かび上がる。
(……情報?)
瞬間、そんな言葉がよぎる。
女の子の肩の位置。
手の握る力。
母親の姿勢の傾き。
それらが同時に、“数値化できる何か”として頭に流れ込んでくる感覚。
ジンは、無意識に瞬きをした。
次の瞬間には、世界は元に戻っていた。
車の音も、人の声も、いつも通りのざわめきだ。
街灯も、看板も、ただの光に戻っている。
(……今のは。)
リクが隣で首を傾げる。
「ジンさん?どうかしました?」
「……いや。」
短く答えながら、ジンは視線を親子から外せなかった。
サラは女の子の頭を、そっとひと撫でする。
「もう遅いから、気をつけて帰ってね。」
「うん。」
女の子の笑顔は、さっきより少しだけ柔らかかった。
その横で、母親も小さく会釈する。
サラは、あくまで“通りすがりの看護師”としての距離を崩さない。
「それじゃあ、またどこかで。」
軽く手を振り、親子と別れる。
女の子が母親の手を引き、信号が青に変わった横断歩道を渡っていく。小さな背中が、徐々に夜の街に溶けていった。
サラがジンとリクのところへ戻る。
「ごめん、お待たせ。」
「ううん。サラさんの“看護師モード”、ちょっとかっこよかったです。」
リクが冗談めかして言う。サラは照れたように笑った。
「ただの習慣だよ。見ちゃうんだ、どうしても。」
「さっきの親子、病院の人?」
「うん。昼間、ちょっとね。」
サラはそれ以上、余計なことは言わなかった。
今ここで診断を口にできるほど、何かがはっきりしているわけではない。
ジンは、短く問いかける。
「……さっきの親の反応。」
「うん。」
「やはり、薄いか。」
「“普通”だと言われたら、それまでなんだけどね。」
サラは夜空を一度見上げた。
「でも、子どもの目が、全部教えてくれる気がする。」
ジンはその言葉を、心のどこか深いところに置いた。
さっきの一瞬のノイズ。
音の遅れ。輪郭の変化。情報として流れ込んできた感覚。
(……なんだ、今の。)
説明も、名前も、まだつけられない。
ただ、“あの親子”を見た瞬間にだけ起きた現象として、ジンの中に刻まれていく。
遠くで電車の走る音がした。
3人は再び駅へ向かって歩き出す。
何も知らない親子の背中と、
まだ名前のない“揺らぎ”だけを、夜の街に置き残したまま。




