EP06-3 名前を持たない違和感
7月の夜風は、少しだけぬるかった。
駅前から少し歩いた先にある小さなダイナーの窓に、街灯の光がにじんでいる。
テーブル席には、ジンとリクとサラの3人が向かい合って座っていた。
「いやー、月1ご飯が定例化してきましたね。」
リクがメニューを閉じて、嬉しそうに言う。
「……そんな決まり、あったか。」
「ジンさん、暗黙の了解ってやつですよ。」
サラがくすっと笑う。
「私は助かってるよ。リク、ここで仕事の愚痴を出してくれるから、家でのダメージが減ってる。」
「え、それはそれでちょっと傷つくんだけど。」
口ではそう言いながらも、リクの表情は楽しそうだった。
店内には小さく音楽が流れ、隣の席では会社員らしきグループが笑っている。
仕事終わりのざわめきと、3人だけのテーブルの温度が、いい具合に混ざっていた。
「今日も現場、混んでたの?」
水を飲みながら、リクがサラに尋ねる。
「うん、バタバタ。子どもたちは元気なんだけどね。」
「お、出た。“だけど”のやつ。」
リクが身を乗り出す。
サラは少しだけ目線を落として、続けた。
「最近さ、“子どもはちゃんと笑ってるのに、親がちょっと遠い”って感じが、前より増えた気がして。」
「遠い?」
「話してる内容は普通なんだけど、返事に温度が乗ってないというか……。
子どもが不安そうに親の顔を見てるのに、親のほうは“反応しなきゃ”って感じで返してる、みたいな。」
「へぇ……。」
リクはストローを指でつまみながら、どこか思い当たるように目を細めた。
「なんか、最近ラボで見てるログと似てるな。」
「ログ?」
「子持ち世帯の“感情データ”ってやつ。
子どもの“楽しい”はちゃんと出てるのに、親側のグラフが妙に平らな人、ちょいちょい増えてきてて。」
そこで、ジンが静かに会話に入る。
「……親側のノイズが、小さく増えている。」
「ノイズ?」
「気のせい、誤差、計測のブレ……で片づけられる程度の揺れだ。
だが、同じ条件で集まる揺れは、誤差ではない可能性が高い。」
「うわー……急に“それっぽい”。」
リクが苦笑する。
「でも、ジンさんがそう思うってことは、やっぱりちょっと変なんですね。」
ジンはグラスの水面を一度見てから、小さく頷いた。
「……まだ“変だ”と断言できるほどではない。
ただ、“気になる”レベルの地点に来ている。」
「気になる、ね。」
サラが、その言葉をなぞるように呟く。
「こっちも、“なんか引っかかる”くらいなんだよね。
さっきの親子もそうだったんだけど……子どもはこっち見てニコニコしてくれるのに、お母さんのほうが、どこか遠く見てる感じ。」
「遠く。」
「うん。“ここ”にいるんだけど、“ここ”に集中してないというか。」
リクはストローをくるくる回しながら、肩をすくめた。
「なんか……やだな、それ。」
「やだね。」
短い言葉が、テーブルの上で静かに重なる。
店の奥から、注文した料理を運ぶ声が聞こえてきた。
「でもまあ、私たちが今できるのは、“ちゃんと見る”くらいかな。」
サラはそう言って、表情を整える。
「看護師の勘ってやつです。」
「ジンさん的には、“勘”ってどうです?」
リクが話題を振る。ジンは少しだけ考えてから、答えた。
「……合理的ではないが、無視すべきではない。」
「それ、ほめ言葉でいいやつですか。」
「境界線上だ。」
「ジンさんらしいなー。」
リクの笑いにつられて、サラもふっと笑った。
「でもさ、その“ざわざわする感じ”を、ちゃんと口に出してくれる人がいるのは、結構大事だと思う。」
「ざわざわ。」
「うん。説明はできないけど、“何かおかしい気がする”っていうやつ。
病院でも、それを言える人が減ってる気がするから。」
「……記録しておく。」
ジンのその一言は、メモを取るというより、自分の中に刻む宣言のように聞こえた。
そのとき、店の外を親子連れが1組、店先を通り過ぎていく。
ガラス越しに、その子どもがこちらを一瞬だけ見た。
サラは反射的に視線を返す。
(さっき話してた親子……に、似てるような。気のせいかな。)
女の子はすぐに母親の手を引いて、夜の街へ消えていった。
テーブルには、まだ湯気の立つ料理と、3人分のグラスが並んでいる。
笑い声と仕事の愚痴と、説明できない“ざわざわ”が、同じテーブルの上に静かに積もっていった。




