EP04-3 まだ何も壊れていない世界へ
カーテンの隙間から、朝の光が細く差し込んでいた。
ジンは、ゆっくりと目を開けた。
頭の奥が、まだ少し重い。
眠りというより、思考のブレーカーを落とした“あと”の感覚。
それでも、さっきまでより世界の輪郭がはっきりしていた。
天井のシミ。
壁紙の剥がれかけた端。
床に放ってある服と、テーブルの空き缶。
全部、昨日と同じだ。
違うのは、自分の中身だけ。
横に転がっていたスマホに手を伸ばす。
画面を点けると、日付が表示された。
2030年4月8日。
数字を見つめるうちに、胸の奥に静かな圧が沈んでいく。
昨日、ここへ“落とされた”。
リクの最期の言葉ごと、この世界へ投げ出された。
『ちゃんと、生きてください。』
あの命令が、まだ耳の奥に残っている。
ジンはベッドの縁に腰を起こし、しばらく無言で呼吸を整えた。
何から始めるべきか。
何が正しいのか。
答えは出ない。
それでも――やるべき場所だけは、ぼんやりと決まっていた。
「……ラボ、か。」
小さく呟く。
まだフェーズという言葉が存在しない世界。
けれど、この先、確実に変化がはじまる。
止めるなら、あそこからだ。
ジンは立ち上がり、床に散らばっていた服を適当に拾い上げる。
シャツとパンツを選び、鏡の前で最低限の身だしなみだけ整えた。
鏡の中の自分は、やはり少し若い。
だが、目の奥だけは昨日よりも冷えている。
5年分の記憶が、そこに居座っていた。
「……行くか。」
誰にともなく言い聞かせるように、そう言って部屋を出た。
鉄階段を降りると、朝の空気が頬を撫でた。
昨日と同じ街並み。
同じ音。
同じ匂い。
だけど、全部が“これから壊れていく前”だと思うと、景色の意味が少し変わる。
通りを歩く人たちは、感情を抑えていない。
笑う人は大きく笑い、怒っている人は遠慮なく声を荒げる。
その雑さが、妙に眩しかった。
地下鉄に乗り、研究所のあるエリアへ向かう。
車内の広告も、ニュースのテロップも、まだフェーズの字はどこにもない。
乗り換えを終え、駅を出る。
見慣れたガラス張りのビルが、朝の光を反射していた。
何度も出入りした場所には変わらない。
白衣の自分と、フェーズ値の数字ばかりを見ていた日々。
今はまだ、“ただの研究所”にしか見えない。
ビルの前で立ち止まり、ジンはひとつ息を吐いた。
(ここから、やり直す。)
決意というほど大きくはない。
ただ、逃げないと決める程度の、静かな重み。
自動ドアが開く音がした。
冷房の効いた空気が、肌に触れる。
受付を横目に通り過ぎ、エレベーターへ向かう。
ボタンを押すと、階数表示がゆっくりと下りてきた。
ドアが開く。
誰も乗っていない箱の中に足を踏み入れ、ラボフロアの階数を押す。
ドアが閉まる。
小さな空間の中で、ジンはポケットの中のスマホを握りしめた。
2030年4月8日。
まだ何も壊れていない世界。
その世界の中で、自分だけが“先”を知っている。
「……やるしかないだろ。」
低く漏れた言葉は、エレベーターの壁に吸い込まれていった。
数字がひとつずつ上がっていく。
やがて、目的の階数でベルが鳴った。
ドアが開く。
ジンは、ラボフロアの廊下へ一歩を踏み出した。
――その先に、まだ何も知らない“あいつ”がいる世界へ。




