EP04-2 まだ何も壊れていない世界へ
アパートの前に立った瞬間、ジンの口から「うわ」と漏れた。
狭い鉄階段。剥げかけた外壁。郵便受けからチラシがはみ出し、風に揺れている。
――5年前に住んでいた場所。
ポケットには、指先が覚えている鍵があった。
鍵穴も迷わない。
ガチャ、と扉が開いた瞬間、埃っぽい空気が鼻をついた。
「……ひどいな。」
床に脱ぎ捨てられた服。
テーブルにはコンビニ袋、空き缶、読みかけの本。
ソファにはジャケットが丸めて置かれ、その上にタブレットが裏返って転がっている。
足元でペットボトルがかすかに転がった。
「未来の俺、よくこんな部屋から人間になれたよな……。」
乾いた独り言。
2035年の部屋は最低限の物しかなかった。
余計なものを置かなかった。
ここは、乱雑さと“生活の匂い”が同居している。
ジンは靴を脱ぎ、散らばった服を足でよけながら奥へ進む。
姿見の前で、ふと立ち止まった。
鏡には、少しだけ若い自分が映っていた。
皺が少ない。
肩の力も、まだ抜けている。
なのに――胸がずくりと痛んだ。
自分にとっては最近の話、
リクと酒を飲んで、夜の丘で語り合った。
「任せた」と言われた。
どれも守れなかった。
この少し若い顔ではなかった。
ジンは鏡から目をそらし、低く呟いた。
「……救えなかった。」
誰を、とは言わない。
世界も、未来も、自分も。
全部ひとまとめにした方が、まだ呼吸がしやすかった。
ソファに腰を下ろすと、
スプリングがギシッと心許ない音を立てる。
テーブルのタブレットを手に取り、電源をつけた。
古いログイン画面。
懐かしいUI。
その画面を見ているだけで、病室の白い天井と、あの声が蘇る。
『全部、救ってきてください。』
リクの最期の笑い。
形は弱いのに、崩れなかった笑い。
胸に重さが広がっていく。
でも涙は出ない。
出そうになる回路そのものが、どこかで壊れている。
「……泣くのは、お前の仕事だっただろ。」
息のように零れた声。
代わりに、やるべきことははっきりしている。
研究所のポータルサイト。
懐かしいアイコンをタップする。
2030年の社内ニュースが並んだ。
《新規プロジェクト:認知異常パターンの早期検知アルゴリズム開発》
《精神科領域の共同研究メンバー募集》
2030年の春。
フェーズという言葉がまだ存在しない。
ただ、2030年の11月以降、
フェーズが世界に広まっていったことは覚えている。
(あと半年)
声には出さない。
出した瞬間、それが“運命”みたいになりそうだったから。
「……正しいかどうかじゃない。行くしかない。」
ポータルを閉じ、テーブルに置いた。
画面の隅に、曜日が小さく表示されている。
――日曜。
今日は動く日ではない。
少なくとも、初日から無理をするタイミングではない。
ソファにもたれ、天井を見上げる。
薄いシミが浮かんでいる。
瞼を閉じると、病室の天井が一瞬だけよぎった。
(意識を一回切らないと、折れる。)
そう決めて、ジンはゆっくり呼吸を細くした。
眠りではない。
ただ、思考のブレーカーを落とすような暗転だった。




