エピローグ 女神の隣には、偽りの仮面を脱いだ騎士がいる(月詠栞 視点)
私の名前は、月詠栞。
周りの人たちは、私のことを「学校一の美少女」とか「女神」とか、少し気恥ずかしくなるような言葉で呼ぶ。自分ではそんな風に思ったことは一度もないけれど、そう言ってもらえるのは、きっと父と母に感謝すべきことなのだろう。
でも、私にとってそんな称号はどうでもよかった。私が一番望んでいた称号は、たった一つ。
――神楽坂律の、特別な人。
律は、私の幼馴染。物心ついた時から、私の隣にはいつも彼がいた。泣いている時は黙って隣に座ってくれて、嬉しい時は私より少しだけ嬉しそうに笑ってくれる、不器用で、でも誰よりも優しい男の子。
彼が、いつから学校で「陰キャ」の仮面を被るようになったのか、私ははっきりと覚えている。彼の優秀すぎる両親のこと、そして彼自身の並外れた頭脳が周囲の妬みを買い、中学時代に酷い嫌がらせを受けたことがきっかけだった。「目立つことはリスクでしかない」と、彼は心を閉ざし、分厚い眼鏡と野暮ったい髪で自分を隠すようになった。
私は、そんな彼の選択を否定できなかった。彼の心の傷の深さを知っていたから。でも、本当の彼を知っている私にとって、偽りの仮面を被って息を潜めるように生きる彼の姿を見るのは、毎日胸が締め付けられるように苦しかった。だから、私は決めたんだ。
――律が自分を隠すなら、私が彼の隣にいよう。彼が本当の自分でいられる場所を、私が作ろう。
教室で、私が彼に話しかけるたびに、周りから奇異の視線が注がれるのは知っていた。特に、火野隼人くんたちのグループからの、棘のある視線。彼らが律のことを「陰キャ」と見下し、私と親しくしていることに苛立っているのも、痛いほど伝わってきた。
でも、私はやめなかった。彼らの嫉妬や悪意なんて、私と律が過ごしてきた長い時間の前では、塵芥同然だったから。屋上で二人きりで食べるお弁当の時間だけが、彼が少しだけ仮面を緩めて、素の顔を見せてくれる大切な時間だった。
あの日、火野くんたちが屋上に乗り込んできて、律を侮辱する言葉を吐いた時、私の頭は一瞬で怒りに染まった。
『律のことを何も知らないくせに、勝手なこと言わないで』
気づいたら、声が出ていた。私の大事な人を、私の目の前で傷つけることだけは、絶対に許せなかった。この時の私は、きっと「女神」なんかじゃなく、獲物を守ろうとする獣のような顔をしていたと思う。
それから始まった一連の出来事は、私の心を大きく揺さぶった。天海莉央さんによる、あまりにも悪趣味な嘘の告白。律が罠だと分かっていながら、たった一人でそれに立ち向かおうとした時、私は本気で彼を引き留めようとした。
『行かないで、律。ろくなことにならない』
私の袖を掴む手は、震えていたと思う。私のせいで、彼が傷つくのが怖かった。でも、彼は私の目を真っ直ぐに見て、はっきりと言ったのだ。
『大丈夫だ、栞。こういうのはな、逃げたら負けなんだ』
その時の彼の瞳は、私が知っているどの律とも違っていた。それは、ただの優しい幼馴染でも、気弱な陰キャでもない。全てを見通し、戦う覚悟を決めた、一人の「男」の目だった。私は、その強さに呑まれて、彼を送り出すことしかできなかった。
案の定、律へのいじめは酷くなった。SNSに流れる悪意に満ちた動画、教室での無視や悪口。私は何度も彼の盾になろうとしたけれど、彼はいつも目線だけで私を制した。「今は動くな」と。彼の平然とした態度の裏に、緻密な計画があることは分かっていた。分かっていたけれど、彼の机の落書きを見るたび、彼の教科書がゴミ箱に捨てられているのを見るたび、私の心は引き裂かれるように痛んだ。
雨の帰り道、私はついに耐えきれなくなって泣いてしまった。
『ごめんね、律。私のせいで……』
そんな情けない私を、律は優しく抱きしめてくれた。
『栞のせいじゃない。もうすぐ、全部終わらせる。だから、もう少しだけ、俺を信じて待っててくれるか?』
雨音に混じって聞こえた彼の声は、不思議なほど心に染み渡った。そうだ、私は彼を信じなくちゃ。この人は、私が信じるに値する、世界で一番強くて優しい人なんだから。
そして、反撃が始まった。
律のお父様とお母様――日本最強の弁護士夫婦――が動き出し、私の父――警察庁の警視正――も激怒して力を貸した。法と権力という、絶対に覆すことのできない力の前で、火野くんたちの幼稚な悪意はあっという間に砕け散っていった。
彼らが追い詰められ、最後に律に暴力を振るおうとしたと聞いた時は、心臓が凍る思いがした。けれど、律はそれを最小限の動きで制圧し、逆に彼らを恐怖のどん底に叩き落としたという。彼が密かに格闘技ジムに通い、屈強な肉体と精神を鍛え上げていたことを、私は知っていた。彼が自分と、そしていつか私を守るために、どれだけの努力を重ねてきたかを知っていた。
火野くんたちが学校から去り、全てが終わった日の夕暮れ。屋上で、律は私に全てを打ち明けてくれた。偽りの仮面を脱ぎ捨て、本当の素顔で、彼は私の目を見て言った。
『好きだ。俺と、付き合ってほしい』
その瞬間、私の世界は色鮮やかな光で満たされた。ずっと、ずっと待っていた言葉。涙が溢れて止まらなかったけれど、それは今までで一番嬉しい涙だった。
『私も、ずっと律のことが好きだったよ』
そう答えるのが、精一杯だった。
あの日から、私の隣には、もう偽りの仮面を被った律はいない。本来の、理知的で、整った顔立ちの、少し照れ屋で、でも誰よりも頼りになる、私の大好きな律がいる。
二人で手を繋いで廊下を歩くと、周りのみんなが驚いた顔で私たちを見る。その視線が、少しだけ快感だったりするのは、内緒だ。「どう? 私の彼は、こんなに格好いいでしょう?」って、心の中で自慢してしまう。
この前、大学の推薦入試の面接があった。面接官に「あなたの尊敬する人は誰ですか?」と聞かれて、私は迷わずこう答えた。
「私の尊敬する人は、幼馴染の男性です。彼は、自分の信念を貫くために、周りから誤解されることを恐れない強さを持っています。そして、本当に大切なものを守るためなら、どんな困難にも立ち向かう勇気と知恵を持っています。普段はとても穏やかで優しい人ですが、その心の奥には、誰よりも熱い正義感と、鋼のような意志が秘められています。私は、彼のようになりたいと、心から尊敬しています」
面接官は、私の熱のこもった答えに少し驚いた顔をしていたけれど、最後は優しく微笑んでくれた。
帰り道、律にその話をしたら、彼は「大袈裟だ」と言って、耳を真っ赤にしながらそっぽを向いてしまった。そんな照れ隠しをするところも、たまらなく愛おしい。
「ねぇ、律」
「なんだ?」
「私、律の彼女になれて、本当に幸せだよ」
そう言うと、彼は一瞬立ち止まり、私の手をぎゅっと握りしめた。そして、小さな声で、でもはっきりと、こう言ってくれた。
「……俺もだ。栞が隣にいてくれて、幸せだ」
夕日に照らされた彼の横顔は、私が今まで見たどんな景色よりも綺麗だった。
もう、彼が一人で戦う必要はない。これからは、私が彼の隣で、彼の盾になろう。もちろん、私に何かあれば、彼はきっと世界中を敵に回してでも私を守ってくれるだろうけれど。
私たちは、二人で一つ。
偽りの仮面を脱ぎ捨てた私の騎士様。これからもずっと、あなたの隣は、私だけの特等席だからね。




