王様の椅子が崩れる日(火野隼人 視点)
俺、火野隼人の人生は、ずっとイージーモードだった。
物心ついた頃から、欲しいものは大体手に入ってきた。小学生の頃はクラスで一番足が速かったし、中学ではサッカー部のキャプテン。この高校に入ってからも、すぐにエースナンバーを背負い、クラスでは自然と中心にいた。顔も悪くない自覚はあるし、周りにはいつも俺を慕うダチと、俺に気がある女子がいる。俺の彼女である天海莉央も、学年ではかなりイケてる部類だ。
俺が世界の中心。そう思って生きてきたし、実際にそうだった。俺が笑えば周りも笑い、俺が誰かを「ナシ」だと判断すれば、そいつは自然と輪の中から弾かれる。それが、俺の築き上げてきた秩序であり、心地よい日常だった。
ただ一つ、手に入らないものを除いては。
月詠栞。
彼女だけは、俺の秩序の外にいた。誰にでも平等に微笑みかけるその姿は、一見すると聖母のようだが、俺からすればそれは最も残酷な態度だった。俺が他の女子に向ける特別な視線や、わざとらしい優しさに、彼女は全く気づかないフリをする。他の女子ならとっくに舞い上がっているはずの俺のアプローチを、柳に風と受け流す。それが、俺のプライドをじりじりと焦がしていた。
手に入らないからこそ、欲しくなる。彼女を俺の隣に歩かせ、他のヤツらに見せつけたい。学園の女神を手に入れた王として、完璧な存在になりたい。その欲望は、日に日に俺の中で膨れ上がっていった。
そんな俺の目に、信じられない光景が映るようになったのは、高校二年の春のことだった。月詠栞が、あの神楽坂律と親しげに話している。
神楽坂律。クラスで最も存在感のない、陰気な男。分厚い黒縁眼鏡の奥の目はいつも伏せられ、休み時間はずっと本を読んでいる。会話に参加することもなければ、誰かに話しかけることもない。俺の秩序の中では、「存在しない」のと同じカテゴリに分類される人間だ。
最初は、栞の気まぐれか、あるいは彼女の度を越した優しさの表れだと思っていた。「あんなヤツにまで優しくできる俺の女神、マジ天使」くらいにしか考えていなかった。だが、その頻度は徐々に増していった。教室で、廊下で、そしてある日の昼休み、俺は見てしまった。
立ち入り禁止のはずの屋上で、二人きりで弁当を広げ、楽しそうに笑い合っている姿を。
その瞬間、俺の頭の中で何かがブツリと切れた。腹の底から、どす黒いマグマのような感情が噴き上がってくる。嫉妬。屈辱。そして、理解不能な事態に対する激しい怒り。
なぜだ? なぜ、俺じゃない? なぜ、よりにもよって、あんなゴミみたいな陰キャなんだ?
俺の隣こそが、月詠栞に相応しい場所のはずだ。それなのに、彼女は俺に見向きもせず、あんな石ころ以下の男を選んでいる。それは、俺という存在そのものを否定されているのと同じだった。俺が築き上げてきた王国の秩序が、足元から崩れていくような不快感。許せなかった。断じて、許せるはずがなかった。
歪んだ思考が、単純な結論を導き出す。神楽坂を、栞の目の前で徹底的に辱めてやればいい。惨めで、滑稽で、哀れな男だと分からせてやれば、彼女も幻滅して目を覚ますだろう。そして、本物の「男」が誰なのかを理解し、俺の元へ来るはずだ。
計画はすぐに思いついた。俺の彼女である莉央を使って、神楽坂に嘘の告白をさせる。陰キャのあいつが、派手なギャルの莉央に告白されれば、どうせ有頂天になって舞い上がるか、パニックになってみっともない姿を晒すかのどっちかだ。それをスマホで撮影し、笑いものにしてやる。完璧なシナリオだった。
「えー、ヤダよ、そんなの。なんで私が…」
莉央は最初、嫌がった。だが、俺が少し不機嫌な顔を見せると、彼女はすぐに顔色を変えた。「隼人のためなら…」と、結局は俺の言うことを聞いた。そうだ、それでいい。俺の彼女は、俺の言うことを聞いていればいいんだ。
そして、運命の放課後。俺たちは体育館裏の物陰に潜み、スマホを構えて主役の登場を待った。莉央が練習したであろうセリフで告白し、俺たちの獲物、神楽坂がゆっくりと口を開く。さあ、どんな面白い反応を見せてくれるんだ? 俺の口元には、自然と嘲笑が浮かんでいた。
「ごめんなさい」
聞こえてきたのは、予想とは全く違う、静かで、落ち着き払った声だった。
「俺には、心に決めている人がいるので。その気持ちには、応えられません」
は?
一瞬、何が起こったのか分からなかった。動揺? 焦り? 舞い上がることなど一切なく、ただ、きっぱりと、丁寧に、莉央をフッた? この俺の女を、あの陰キャが?
計画が狂った焦りと、プライドを傷つけられた怒りで、頭に血が上る。咄嗟に物陰から飛び出し、大声で笑ってやった。
「ぶはっ!マジかよ、振られてやんの!」
ダチもそれに合わせて笑い声を上げる。そうだ、これでいい。俺たちが笑ってやれば、こいつが惨めな道化になる。そうに決まってる。だが、神楽坂は俺たちを一瞥しただけで、まるで道端の石ころでも見るかのように、何の感情も見せずに踵を返した。その背中が、俺を完全に無視していることが、何よりも屈辱だった。
「待てよ、コラァ!」
俺の叫びも、あいつには届いていなかった。
この日から、俺の歯車は狂い始めた。あいつを屈服させたい。あいつのあの冷静な仮面を剥ぎ取り、泣き叫ぶ顔が見たい。その一心で、俺は更にエスカレートさせた。体育館裏で撮った動画を悪意たっぷりに編集し、「陰キャ、勘違いして死亡www」というタイトルで裏SNSにばら撒いた。
案の定、動画は拡散され、神楽坂はクラスの笑いものになった。机に落書きをし、持ち物を隠した。俺がやれと命じれば、周りのヤツらは喜んで手を貸した。俺はそれを見て、歪んだ満足感に浸っていた。ざまあみろ。これが俺に逆らった罰だ。
だが、おかしい。あいつは、少しも堪えていなかった。何をされても表情一つ変えず、ただ黙々と本を読んでいる。その平然とした態度が、俺をさらに苛立たせた。まるで、俺たちのやっていること全てが、取るに足らない子供の遊びだとでも言いたげだった。
そして、決定的なその日は、突然やってきた。
学校から、親に連絡があったのだ。「至急、学校に来てください」と。家に帰ると、親父が鬼のような形相で俺を待ち構えていた。テーブルの上には、一通の分厚い封筒が置かれている。差出人の欄には、「神楽坂法律事務所」という、聞いたこともない名前が印刷されていた。
「隼人!お前、一体何をしたんだ!!」
親父の怒声と共に、俺の知らない事実が次々と突きつけられる。内容証明郵便。名誉毀損。肖像権侵害。そして、学校に対する安全配慮義務違反の追及。神楽坂の親が、超一流の弁護士だということ。
頭が真っ白になった。弁護士? 法律事務所? なんだそれは。ただの陰キャの親じゃなかったのか? 俺はただ、気に食わないヤツを少し懲らしめてやろうとしただけだ。なんで話がこんなにデカくなってるんだ?
「どうしてくれるんだ!相手は示談に応じる気は一切ないと言っている!裁判だぞ!」
親の怒声も、もう耳に入らなかった。追い詰められた。俺の人生が、めちゃくちゃになる。なんで? なんで俺がこんな目に?
全部あいつのせいだ。そうだ、神楽坂律のせいだ。あいつが、俺の人生を壊そうとしている。
思考は完全にショートしていた。もう後先なんて考えられなかった。あいつさえいなくなれば。あいつを直接、力で屈服させてやれば、全てが元に戻るんじゃないか。そんな、最後の希望ともいえる狂気にしがみつき、俺はダチ数人を連れて、放課後の神楽坂を待ち伏せた。
「てめえ、神楽坂……!親使ってチクりやがって!ふざけんじゃねえぞ!」
俺は、ありったけの怒りを込めて叫び、拳を振り上げた。この一撃で、あいつの生意気な顔を歪ませてやる。
しかし、その拳が神楽坂の顔に届くことは、永遠になかった。
視界がぐらりと揺れ、気づいた時には俺は地面に倒されていた。腕に、経験したことのない激痛が走る。見上げると、俺の腕を捻り上げ、冷たい目で見下ろす神楽坂の姿があった。眼鏡の奥の瞳は、もはや陰キャのそれではない。獲物を仕留めた、冷酷な捕食者の目だ。
「これ以上抵抗するなら、この腕がどうなっても知らないぞ」
耳元で囁かれた声は、地獄の底から響いてくるように冷たかった。正当防衛。強要未遂。弁護士。俺が生まれてから一度も意識したことのない単語が、鋭い刃物となって俺の心臓に突き刺さる。
痛い。腕が折れる。怖い。こいつは、俺が知っている神楽坂じゃない。
圧倒的な暴力と、絶対的な理論武装。その二つの力の前に、俺のちっぽけなプライドは音を立てて砕け散った。俺は、手も足も出ない相手に、自ら牙を剥いてしまったのだ。その事実に気づいた時、俺の心は完全に折れた。
そこからの転落は、早かった。
スポーツ推薦は取り消され、俺のサッカー人生は終わった。家庭裁判所に呼ばれ、犯罪者の烙印を押された。そして、民事訴訟の判決が下り、俺の家は、俺が原因で売られることになった。ダチだと思っていた連中は、潮が引くように俺から離れていった。莉央とも、いつの間にか連絡が取れなくなった。
全てを失った。俺が王様として君臨していたはずの世界は、跡形もなく消え去った。
一家でこの街を去る日、俺は引越しのトラックの窓から、ぼんやりと外を眺めていた。もう二度と戻ることはないであろう、見慣れた景色。その向こうに、二つの人影が見えた気がした。
神楽坂と、月詠栞だ。
二人は楽しそうに笑い合いながら、手を繋いで歩いていた。神楽坂は、もうあのダサい眼鏡をかけていない。その素顔は、俺が馬鹿にしていた陰キャの面影など微塵もなく、自信に満ち溢れていた。そして、その隣で微笑む栞は、俺が今まで見たどんな顔よりも幸せそうだった。
ああ、そうか。
俺が欲しくてたまらなかったものは、最初からあいつのものだったんだ。俺はただ、王様の椅子に座ったまま、自分のものではない宝物を横取りしようとして、椅子ごと奈落の底に突き落とされただけの間抜けな道化だったのだ。
なぜ、こうなったんだろう。
もし、あの時、屋上で二人を見ても、何も感じなければ。
もし、あんなくだらない嘘告白なんて、計画しなければ。
後悔だけが、空っぽになった心の中をぐるぐると巡る。だが、もう遅い。トラックは速度を上げ、二人の姿はあっという間に見えなくなった。俺の手元には、もう何も残っていない。俺の人生は、ここで終わったのだ。




