第三話 反撃の狼煙は、法と暴力で
書斎の重厚な空気の中で、俺は父・神楽坂宗佑と母・神楽坂詩織を前に、事の経緯を淡々と、しかし詳細に語り始めた。火野隼人たちの嫉妬に端を発した嫌がらせ、天海莉央による計画的な嘘告白、その様子を撮影した動画の存在、そしてSNS上での悪意ある拡散と、それに伴う教室でのいじめ。俺が胸ポケットから取り出したボイスレコーダーを再生すると、体育館裏での生々しいやり取り――莉央の嘘の告白、俺の拒絶、そして隼人たちの嘲笑――が、書斎の静寂を切り裂いた。
話が進むにつれて、両親の表情から親としての心配の色は完全に消え去り、代わりにプロフェッショナルとしての冷徹な怒りが満ちていくのが分かった。母の詩織は指先でこめかみを軽く揉みながら静かに目を閉じ、父の宗佑は組んだ指の上で顎を休め、その目は獲物を捉えた猛禽類のように鋭く光っていた。
「……なるほど。状況は理解した」
俺が全てを話し終えると、父が静かに口を開いた。その声は低く、地を這うような威圧感を帯びていた。
「律、お前が今まで耐えていたのは、このための証拠を集めるためだったんだな。よくやった」
「当然だ。感情的に動いて得られるものなど何もない。相手を社会的に、合法的に、そして完全に叩き潰すには、揺るぎない証拠と法的な根拠が必要だから」
俺の言葉に、母が薄く、しかし美しい笑みを浮かべた。
「ええ、その通りよ。さすが私たちの息子ね。それで、私たちに望むことは何かしら?刑事告訴?民事での損害賠償請求?それとも、その両方?」
「両方だ。徹底的にやってほしい。示談の余地など一切与えず、彼らが犯した罪の重さを、骨の髄まで理解させる」
俺の目に宿る冷たい光を見て、両親は満足げに頷き合った。彼らは、俺がただの被害者でいることを望んではいなかった。法を武器として、自らの尊厳を守るために戦うことを望んでいたのだ。
「承知した」と父が言った。「事務所の最強チームを動かそう。名誉毀損、肖像権侵害、そして学校に対する安全配慮義務違反。考えうる全ての法的手段を行使する。お前が味わった不快感の代償は、彼らの人生そのもので支払わせることになるだろう」
反撃の狼煙は、その翌日に上がった。
火曜日の朝。校長室の電話がけたたましく鳴り響いた。電話の相手は、神楽坂法律事務所の筆頭弁護士。そして、その数時間後には、学校長宛に内容証明郵便が配達証明付きで送達された。その中には、火野隼人、天海莉央を含む加害者生徒たちの実名を挙げ、彼らによる一連のいじめ行為、SNS上での名背誉毀損と肖像権の侵害を厳しく指摘。さらに、これらの行為を黙認し、生徒の安全を守る義務を怠った学校側の監督責任を追及する、極めて攻撃的な文面が記されていた。法的措置も辞さないという最後の一文は、学校経営陣を震撼させるには十分すぎる威力を持っていた。
時を同じくして、俺はもう一つの布石を打っていた。日曜の夜、俺は栞に連絡を取り、彼女の父親である月詠誠警視正に会う約束を取り付けていたのだ。月詠家を訪れた俺は、誠さんに対し、両親にしたのと同じように全ての経緯を説明し、証拠のデータを渡した。
「……なんだと?」
温厚な好々爺といった普段の顔つきは消え失せ、警察庁のキャリア官僚としての厳しい顔が覗く。愛する娘・栞が心を痛め、その原因となった俺が不当な被害を受けている。その事実は、彼の怒りの導火線に火を点けるには十分だった。
「許せん……。断じて許せん!律くん、君はよく耐えた。そして、よくぞ話してくれた。この件、私に任せてもらえないだろうか」
「ありがとうございます。お力添えいただけると、大変心強いです」
誠さんの怒りは、即座に行動となって現れた。警察組織の強力な権限を行使し、サイバー犯罪対策課に対して、問題のSNSにおける発信者情報の開示請求手続きを異例の速さで進めさせた。通常であれば数週間から数ヶ月かかる手続きが、わずか二日で完了した。投稿に使用された端末、契約者情報、投稿日時と場所。全てのデジタル・フットプリントが白日の下に晒された。
学校は、法曹界と警察という二つの巨大な権力から同時にプレッシャーをかけられ、完全なパニック状態に陥った。すぐさま緊急の保護者会が招集され、火野隼人、天海莉央、そして動画撮影に関わった他の数名の生徒とその保護者が、校長室に呼び出された。
「うちの子がそんなことをするはずがありません!」
「何か証拠でもあるんですか!」
保護者たちは口々にそう叫び、自分たちの子供を庇った。隼人たちも「神楽坂が勝手にやったことだ」と嘘を重ねる。だが、その醜い足掻きは、校長室に現れた神楽坂法律事務所の弁護士団によって、木っ端微塵に粉砕された。
テーブルの上に、次々と叩きつけられる証拠の数々。
俺が録音した、嘘告白の完全な音声データ。
悪意ある編集が施される前の、撮影された動画のオリジナルデータ。
「陰キャ」「キモい」といった誹謗中傷で埋め尽くされたSNS投稿の、発信者情報付きの魚拓。
そして、匿名を条件に協力を申し出てくれた、クラスメイト数名からの詳細な証言録。
完璧すぎる証拠の山を前に、保護者たちは顔面蒼白となり、言葉を失った。自分たちの子供が犯した罪の重大さと、相手にしたのが単なるクラスメイトの親ではなく、日本最強クラスの法律事務所そのものであったという事実に、ようやく気づいたのだ。
だが、追い詰められた獣は、時に最も愚かな行動に出る。
その日の放課後。俺が一人で校舎裏を通りかかった時、待ち伏せしていた隼人たちに囲まれた。その数、五人。彼らの目は理性を失い、追い詰められた怒りと焦燥で濁っていた。
「てめえ、神楽坂……!親使ってチクりやがって!ふざけんじゃねえぞ!」
リーダーである隼人が、怒りに顔を歪ませながら吠えた。もはや話し合いで解決できる段階ではないと判断したのだろう。彼は単純な、そして最も愚かな解決策――暴力に訴えることを選んだ。
「お前さえいなくなれば……!」
怒声と共に、隼人の拳が俺の顔面めがけて振り抜かれる。それは素人の、ただがむしゃらに振り回すだけの拳だった。
俺は冷静にその軌道を見切る。半歩踏み込みながら体を捌き、隼人の拳を最小限の動きで受け流す。腕を絡め取り、体重を預けながら一気に捻り上げる。
「ぐあっ!?」
一瞬の出来事だった。隼人は悲鳴を上げ、抵抗する間もなく地面に引き倒される。俺は彼の腕を逆関節に極め、背中に乗りかかるようにして完全に動きを封じた。格闘技ジムで嫌というほど繰り返してきた、制圧の技術だ。
「な……!?」
他の四人が、信じられないものを見る目で俺と、地面でのたうち回る隼人を見つめていた。いつもは気弱で、殴られても黙っているはずの陰キャが、自分たちのリーダーをいとも簡単に無力化した。その現実が、彼らの頭脳では処理しきれなかった。
俺は、耳元で苦痛に呻く隼人に、氷のように冷たい声で囁きかけた。
「これ以上抵抗するなら、この腕がどうなっても知らないぞ。今、君がやろうとしたことは傷害未遂。俺がやったのは、身を守るための正当防衛だ。さらに言えば、君たちは五人で俺を囲んで脅した。これは強要未遂にもあたる。罪が重くなるのは、圧倒的に君たちの方だ。分かるか?」
俺は一度言葉を切り、さらに絶望を叩き込む。
「俺の父親は弁護士だ。日本で一番、法律に詳しい人間の一人だ。どっちが法的に有利かなんて、赤ん坊でも分かる理屈だよな?」
俺の言葉と、これまで見せたことのない冷徹な姿。そして、関節を極められた腕から伝わる耐えがたい痛み。それらが合わさって、隼人たちの心に純粋な「恐怖」を植え付けた。彼らは完全に凍りつき、一歩も動けなくなっていた。
その週末、火野家と天海家の親が、高級そうな菓子折りを手に神楽坂家を訪れた。インターホンのモニターに映る、憔悴しきった彼らの顔を見て、俺は静かに父を呼んだ。玄関で応対した父・宗佑は、深々と頭を下げる彼らを、表情一つ変えずに見下ろした。
「この度は、息子が大変申し訳ないことを……。どうか、示談で……」
父親が震える声でそう切り出すと、宗佑は冷ややかに、そしてはっきりと宣告した。
「お引き取りください。示談で済ますつもりは、我々には毛頭ありません」
「そ、そんな……!そこをなんとか!」
「あなた方の息子さんたちが犯した罪の重さを、ご存じないようだ。彼は、人の尊厳を踏みにじり、未来を弄んだ。その代償は、金銭だけで払えるほど安くはない。我々は、刑事告訴と民事訴訟、両方とも最後まで進めさせていただきます。あなた方の息子さんたちが犯した罪の重さを、社会的にも、そして経済的にも、完膚なきまでに償っていただきます」
父の言葉は、最後の希望を打ち砕く死の宣告だった。彼らは絶望に顔を歪ませ、力なくその場に崩れ落ちた。
俺は、リビングの窓からその光景を静かに見つめていた。彼らの絶望が、俺の心の平穏を取り戻すための、必要なプロセスだった。俺の反撃は、まだ始まったばかりなのだ。




