第二話 仕掛けられた悪意と、揺らがない絆
天海莉央からの手紙は、予想通り、教室に静かな波紋を広げた。昼休みを過ぎる頃には、「3組のギャル、天海莉央が陰キャの神楽坂にラブレターを渡したらしい」という噂が、尾ひれどころか巨大な背びれまでついて校内を駆け巡っていた。俺を見るクラスメイトたちの視線は、好奇、嘲笑、そして憐憫が入り混じった複雑な色を帯びている。
当の俺はといえば、相変わらず文庫本に視線を落とし、外界からの情報を全てシャットアウトしている体を貫いていた。無論、聞こえてくる囁き声も、突き刺さる視線も、全て完璧に把握している。くだらない。その一言に尽きた。彼らの稚拙なシナリオは、手に取るように分かっていた。
「……律、本当に大丈夫?」
放課後、帰りの支度をしていると、隣の席から栞が心配そうな声で話しかけてきた。その瞳は真剣で、俺の「平穏」よりも俺自身の身を案じているのが痛いほど伝わってくる。
「何がだ?」
俺はあくまで素っ気なく、教科書を鞄に詰めながら答える。
「何がだ?じゃないでしょ。天海さんのことだよ。絶対におかしい。昨日、火野くんたちと一緒にいたのに……あんなの、どう考えたって罠だよ」
栞の声には、苛立ちと不安が滲んでいた。俺が演じている陰キャの仮面を剥ぎ取り、無理矢理にでも本音を引きずり出そうとするような、強い響きがあった。
「分かってる」
俺は短く認め、鞄のチャックを閉めた。
「分かってるなら、どうして……。行かないで、律。ろくなことにならない」
栞はたまらず、俺のブレザーの袖をぎゅっと掴んだ。その指先が小さく震えている。彼女が、自分のせいで俺が面倒事に巻き込まれていると感じ、責任を覚えていることは明らかだった。
その震えが、俺の心の奥にある固い何かを、わずかに溶かした。俺は掴まれた袖に視線を落とし、それから栞の顔を真っ直ぐに見つめ返した。分厚い眼鏡のレンズ越しでも、俺の意思が伝わるように。
「大丈夫だ、栞」俺の声は、自分でも驚くほど静かで、それでいて揺るぎないものだった。「こういうのはな、逃げたら負けなんだ。受けて立った上で、相手の土俵ごと叩き潰さないと意味がない」
「でも……!」
「それに、俺は馬鹿じゃない。ちゃんと準備はしてる」
そう言って、俺は制服の胸ポケットを軽く叩いてみせた。そこには、父の書斎から拝借してきた、万年筆型の小型ボイスレコーダーが忍ばせてある。スイッチはすでに入っている。これから起こるであろう全ての会話を、一言一句違わずに記録するために。
俺のただならぬ雰囲気に、栞は息を呑んだ。彼女は俺がただの気弱な読書好きではないことを知っている。俺が本気になれば何をするか、そしてその裏にどれだけのバックグラウンドが存在するかも、彼女だけは知っているのだ。
「……分かった。でも、何かあったら絶対に連絡して。約束だからね」
栞は名残惜しそうに袖を離した。その瞳にはまだ不安の色が濃いが、同時に俺への信頼も宿っていた。
「ああ。じゃあな」
俺は短く別れを告げ、教室を後にする。向かう先は、指定された体育館裏。これから始まる茶番劇の舞台だ。
渡り廊下を抜け、体育館の裏手へと回る。夕暮れ時の校舎は静まり返り、部活動に励む生徒たちの声が遠くに聞こえるだけだった。指定された場所には、天海莉央が一人、不安そうな顔で壁に寄りかかって立っていた。その演技がかった仕草に、俺は内心で冷笑する。
物陰からは、複数の気配が感じられた。おそらく火野隼人たちだろう。スマホを構え、これから始まる「ショー」を今か今かと待ち構えているのが目に浮かぶようだ。
「……神楽坂くん」
俺の姿を認めると、莉央はか細い声で呼びかけた。その声も、仕草も、全てが計算され尽くしている。
俺は無言で彼女の数歩手前で立ち止まった。
「来てくれたんだ……。嬉しい」
莉央ははにかむように微笑むと、一歩前に進み出た。そして、深呼吸を一つしてから、まるで舞台女優のように、練習してきたであろうセリフを口にした。
「あのね、私……ずっと神楽坂くんのこと見てて……その、好きです!私と、付き合ってください!」
切羽詰まったような、しかしどこか悦に入っているような声。その告白を聞きながら、俺は冷静に周囲の状況を分析していた。物陰から聞こえる、押し殺したような笑い声。微かに光るスマートフォンのレンズ。全てが想定通りだ。
俺は一瞬の逡巡も見せず、ただ静かに、そしてはっきりと口を開いた。
「ごめんなさい」
「……え?」
予想外の即答だったのか、莉央の表情がわずかに固まる。彼女のシナリオでは、俺が動揺したり、舞い上がったりするはずだったのだろう。
俺は続ける。その言葉は、栞以外の誰にも言ったことのない、俺の秘めた本心だった。
「俺には、心に決めている人がいるので。その気持ちには、応えられません。申し訳ない」
丁寧だが、一切の迷いも媚びもない、絶対的な拒絶。俺の言葉は、体育館裏の湿った空気に凛と響いた。
莉央は完全に言葉を失い、呆然と俺を見つめている。彼女だけでなく、物陰でこの茶番を撮影していたであろう隼人たちも、予想外の展開に戸惑っている気配がした。
沈黙を破ったのは、隠れきれなくなった隼人たちの嘲笑だった。
「ぶはっ!マジかよ、振られてやんの!」
隼人が腹を抱えながら姿を現した。彼の後ろから、他の取り巻きたちもゲラゲラと笑いながらぞろぞろと出てくる。
「ウケるー!陰キャが調子に乗って莉央ちゃんをフッたぞ!」
「自分に気があるって勘違いしちゃったんじゃないの?痛すぎでしょ!」
罵声と嘲笑がシャワーのように俺に降り注ぐ。莉央は、恥をかかされたという屈辱と怒りで顔を真っ赤にしながら、俺を睨みつけていた。
「なによアンタ……!調子に乗らないでよ!」
俺はそんな彼らを一瞥すると、興味を失ったように踵を返した。これ以上、このくだらない茶番に付き合う義理はない。証拠は十分に録れた。
「待てよ、コラァ!」
隼人が何か叫んでいるが、俺は振り返ることなくその場を立ち去った。目的は果たした。あとは、この証拠をどう料理するか、だ。
この一件を境に、俺へのいじめは目に見えて陰湿さを増していった。
翌日には、悪意を持って編集された動画が、生徒たちだけがアクセスできる裏SNSのようなものにアップロードされた。「【悲報】陰キャ、勘違いして人気者をフッてしまい無事死亡www」などという、品性の欠片もないタイトルがつけられて。
動画は、俺が莉央を振る場面だけを切り取り、その前後の文脈を完全に無視したものだった。俺がさも傲慢な態度で彼女を拒絶し、莉央が涙目で打ちひしがれているように見える、完璧な捏造作品だった。コメント欄は、俺を罵倒する言葉で溢れかえっていた。
教室での俺は、完全に「敵」として扱われるようになった。聞こえよがしに囁かれる悪口。「キモい」「空気読めない」「勘違い野郎」。机には落書きがされ、教科書がゴミ箱に捨てられていることもあった。典型的な、しかし確実に人の心を削り取るタイプのいじめだ。
だが、俺の心は微動だにしなかった。彼らがやればやるほど、それは全て、彼ら自身の首を絞める縄になるだけだ。俺はただ淡々と、毎日を過ごす。落書きされた机は自分で拭き、ゴミ箱から教科書を拾い上げる。その度に、クラスメイトたちの侮蔑的な視線が突き刺さるが、俺はまるで何も感じていないかのように、平然と読書を続けた。
俺のその態度が、また彼らの神経を逆なでしていることも分かっていた。だが、どうでもよかった。俺の視界に入っているのは、彼らではない。彼らの向こう側にある、「結末」だけだ。
しかし、俺の平然とした態度とは裏腹に、日に日に憔悴していく人間がいた。月詠栞だ。
彼女は、俺がいじめられている間、何度も助け舟を出そうとしてくれた。俺に話しかけ、悪口を言う生徒を睨みつけ、時には直接抗議しようとさえした。その度に、俺は目線だけで彼女を制した。「今は動くな」と。
彼女は俺の意図を汲み取り、唇を噛みしめながら引き下がる。しかし、その顔には、自分の無力さと、俺への申し訳なさが色濃く浮かんでいた。彼女の優しい心は、俺が傷つけられる様を見ることに耐えられなかったのだ。
そんな日々が数日続いた、雨の日の帰り道だった。俺と栞は、一つの傘に入って並んで歩いていた。傘を叩く雨音だけが、気まずい沈黙を埋めている。
「……ごめんね、律」
不意に、栞が小さな声で呟いた。
「私のせいで……。私が律と仲良くしてるから、火野くんたちが……。本当に、ごめん……」
声が震えている。見なくても、彼女が泣いているのが分かった。俺は立ち止まり、静かに彼女の方を向く。雨に濡れた前髪の隙間から、ぽろぽろと涙をこぼす栞の姿があった。それは雨粒なのか、涙なのか、判別がつかないほどだった。
俺は持っていた傘を彼女に預け、その華奢な肩をそっと抱き寄せた。そして、震える彼女の頭を、優しく撫でた。
「栞のせいじゃない」
俺は、できるだけ穏やかな声で言った。
「これは、俺の問題だ。それに、あいつらが勝手に嫉妬して、勝手にやってることだ。お前が責任を感じる必要は、どこにもない」
「でも……!」
「いいか、栞」俺は彼女の言葉を遮り、両肩を掴んで、その涙に濡れた瞳を真っ直ぐに見つめた。「もうすぐ、全部終わらせる。俺が、終わらせる。だから、もう少しだけ、俺を信じて待っててくれるか?」
俺の言葉には、絶対的な自信が込められていた。それは虚勢ではない。緻密な計画に基づいた、揺るぎない確信だった。
栞は、俺の真剣な瞳に見入られるように、こくこくと頷いた。彼女の瞳の奥で、不安が少しずつ信頼の光へと変わっていくのが見えた。
「……うん。信じてる。最初からずっと、律のこと、信じてるから」
その言葉が、俺の胸に温かく響いた。俺は満足して頷くと、彼女から傘を受け取り、再び歩き出した。彼女を守る。その決意が、より一層固くなった瞬間だった。
その夜。いつものように夕食を終え、自室で証拠の整理をしていた俺は、覚悟を決めて部屋を出た。向かう先は、一階の奥にある父の書斎だ。深夜にもかかわらず、煌々と明かりが灯っている。
軽くノックをして、ドアを開ける。中では、膨大な量の法律書に囲まれながら、父・神楽坂宗佑と母・神楽坂詩織が、それぞれ別の案件の資料に目を通していた。日本有数の法律事務所を経営する、超一流の敏腕弁護士である両親だ。
「律か。珍しいな、こんな時間に」
父が、老眼鏡の奥から鋭い目をこちらに向けた。
「どうしたの?何かあった?」
母も、書類から顔を上げて、優しいが全てを見透かすような視線を俺に送る。
俺は書斎に入り、静かにドアを閉めた。そして、二人の前に立ち、深く一礼した。
「父さん、母さん」
俺は顔を上げ、二人を真っ直ぐに見据える。その目は、もはや学校で演じている気弱な少年のものではなかった。
「少し、法律の力を使いたいんだけど。力を貸してほしい」
その言葉を聞いた瞬間、両親の顔から、穏やかな親の表情が消えた。代わりに現れたのは、獲物を前にした狩人のような、冷徹で鋭利な「プロの法律家」の顔だった。父はゆっくりと眼鏡を外し、テーブルに置く。
「……ほう。面白いことになってきたじゃないか。詳しく聞かせてもらおうか、息子よ」
反撃の準備は、整った。




