第一話 偽りの仮面と隣の女神
俺、神楽坂律の信条は、ただ一つ。「目立たず、波風を立てず、平穏に生きる」。
この信条を完璧に遂行するため、俺は高校生活において『陰気な図書委員』という役柄を演じている。分厚い度の強いレンズの黒縁眼鏡、わざと無造作に伸ばして野暮ったく見せかけた前髪、休み時間のほとんどを読書に費やす寡黙な姿勢。これら三点セットは、周囲に「神楽坂は関わっても面白くない人間だ」と認識させるための、俺なりの擬態だ。
おかげで、クラスメイトたちの会話に俺の名前が上がることは滅多にない。もし上がったとしても、「なんか暗いよね」「いつも本読んでるやつでしょ?」といった、取るに足らない感想で完結する。それでいい。それがいいのだ。俺が望むのは、その他大勢に埋没し、誰の記憶にも残らない、空気のような存在でいることだった。
「……というわけで、この問題の答えが分かる人ー?」
数学教師の退屈な声が、初夏の気怠い空気が充満する教室に響く。俺は誰とも視線を合わせぬよう、手元の文庫本に視線を落としたままだ。もちろん、問題の答えはとっくに頭の中で導き出している。だが、ここで手を挙げるなどという愚行は絶対に犯さない。それは、俺が三年かけて築き上げてきた平穏な日常に、自ら波紋を投じる行為に他ならないからだ。
周囲から「あいつ、実は頭いいんじゃね?」などと疑念を抱かれるのは、最も避けたい事態だった。凡庸で、無害で、記憶に残らない。それが神楽坂律というキャラクターの最適解なのだ。
「はい、神楽坂くんのお隣さん。月詠さん」
その名前が呼ばれた瞬間、教室の空気が僅かに華やぐのを肌で感じた。俺の隣の席、月詠栞。彼女こそが、俺の完璧な擬態を脅かす唯一の例外であり、俺の平穏を揺るがす最大の要因だった。
「はい。答えは、xイコール3、yイコールマイナス2です」
鈴を転がすような、とは陳腐な表現だが、彼女の声には実際にそう感じさせる不思議な透明感があった。長く艶やかな黒髪が、起立した拍子にさらりと揺れる。太陽の光を浴びてきらめくその様は、まるで上質な絹のようだ。非の打ちどころのない精緻な顔立ちと、誰にでも分け隔てなく接する優しい性格。校内の男子生徒からは「女神」と崇められ、女子生徒からも憧れの的となっている彼女は、まさにこの学校のヒロインそのものだった。
そして、そんな学校一のマドンナが、俺の幼馴染である。
「正解。よくできました」
教師の言葉に、栞は小さく会釈して席に着く。その時、彼女はこっそりと俺の方へ視線を向け、悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。「あなたの受け売りだけどね」とでも言うように。俺は気づかないふりを貫き、文庫本のページを無感情にめくる。しかし、心臓が少しだけ速く脈打ったのを自覚しないわけにはいかなかった。
俺たちの関係性は、クラスメイトたちにとって最大の謎であり、特に一部の男子生徒にとっては嫉妬の対象らしかった。なぜ、学園の女神である月詠栞が、俺のような冴えない陰キャに頻繁に話しかけるのか。彼らには到底理解できないのだろう。
「ねぇ、律。今日の古典の予習、どこまでやった?」
休み時間になるや否や、栞は椅子を俺の方へ少し引き寄せ、当たり前のように話しかけてきた。その瞬間、教室のあちこちから、棘を含んだ視線が突き刺さるのを感じる。特に鋭いのは、教室の最も派手な一角を陣取るグループからのものだ。
「……ああ、一通りは」
俺は本から目を離さず、短く答える。これも演技の一環だ。本当は、栞と話すのは嫌いじゃない。むしろ、彼女と過ごす時間は、この息苦しい学校生活における唯一の癒しだった。だが、ここで嬉しそうな素振りを見せれば、俺の「陰キャ」設定が崩壊する。
「そっか。よかったら後でノート見せてくれないかな?ちょっと自信ないところがあって」
「……別に、構わない」
「ありがとう!律のノート、いつも分かりやすいから助かるよ」
屈託なく笑う栞。その笑顔は、あまりにも眩しすぎた。俺は眼鏡の位置を押し上げながら、内心で深くため息をつく。彼女のこの無防備さが、俺の平穏をどれほど脅かしているか、本人は気づいているのだろうか。
「ちっ……なんだよアイツ。月詠さんと親しげにしやがって」
聞こえてきたのは、クラスの王様として君臨する男、火野隼人の声だった。サッカー部のエースで、ルックスも良い彼は、常にクラスの中心にいる。その彼が、栞に気があるのは公然の秘密だ。そして、その栞がなびかないどころか、俺のような存在と親しくしていることが、彼の歪んだプライドをいたく刺激しているらしい。
隼人の取り巻きたちが、同調するように俺を嘲笑う声が聞こえる。
「だよなー。陰キャのくせに調子乗ってんじゃねえの」
「月詠さんも物好きだよな。あんなのと話して何が楽しいんだか」
悪意に満ちた囁き声。だが、俺の心は凪いでいた。嫉妬、侮蔑、優越感。彼らの感情は手に取るように分かるが、俺には関係のないことだ。俺はただ、この役割を演じきり、卒業までの日々を無風で乗り切ればいい。それだけを考えていた。
昼休み。俺はいつも通り、弁当を持って教室を抜け出し、屋上へと続く階段を上る。立ち入り禁止の札が掛かっているが、鍵が壊れていることを知っている生徒は少ない。ここは俺だけの聖域であり、唯一仮面を少しだけ緩められる場所だった。
重い鉄の扉を開けると、生暖かい風が頬を撫でる。眼下に広がる校庭の喧騒が、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。コンクリートの上に腰を下ろし、弁当の包みを開こうとした、その時だった。
「やっぱりここにいた」
背後から聞こえた声に、俺は肩を揺らさずに振り返る。そこに立っていたのは、やはり月詠栞だった。
「……なんで」
「律が一人になりたい時、いつもここに来るの、知ってるから」
彼女はそう言うと、俺の隣に当たり前のように腰を下ろした。手には俺と同じ、可愛らしい布で包まれた弁当箱が握られている。
「先回りされてたか」
「ふふっ。今日は私の方が早かったみたいだね」
栞の前では、俺も少しだけ素の口調に戻る。彼女は、俺が陰キャを演じていることも、その理由も、全てを知っている唯一の人間だ。物心ついた頃からの付き合いで、隠し事などほとんどない。
「あんまり教室で話しかけるなよ。目立つだろ」
「やだ。律と話したいんだもん。それに、周りの目なんて気にしてたら、幼馴染なんてやってられないでしょ?」
栞はむくれると、頬を可愛らしく膨らませた。その仕草に、思わず口元が緩みそうになるのを必死でこらえる。
「……お前のせいで、火野たちに目をつけられてるんだぞ」
「知ってる。だから何?あんな人たちのために、私たちが話すのをやめなきゃいけない理由なんてないじゃない」
きっぱりと言い切る彼女の瞳には、強い意志の光が宿っていた。こういう時の栞は、誰よりも強い。俺は小さく息を吐き、諦めたように弁当の蓋を開けた。
穏やかな時間が流れる。他愛もない話をしながら食べる昼食は、教室で一人、本を読みながら食べるそれとは比べ物にならないほど美味しく感じられた。この時間だけが、俺にとっての本当の高校生活なのかもしれない。
だが、その平穏は、けたたましい音によって唐突に破られた。
バタンッ!
勢いよく開けられた屋上の扉。そこに立っていたのは、忌々しいことに、火野隼人とその取り巻きたちだった。
「やっぱり二人でイチャついてやがったか。なぁ、陰キャの神楽坂くんよぉ」
隼人は、俺を見下しながら唾を吐き捨てるように言った。その目は、獲物を見つけた肉食獣のようにギラついている。
俺は何も答えず、ただ静かに隼人を見つめ返した。ここで下手に反応すれば、相手を喜ばせるだけだ。無視が最善策。それが俺の処世術。
しかし、俺の隣で、空気が凍るのを感じた。
「火野くん」
栞の声は、先ほどまでの柔らかな響きを失い、氷のように冷たくなっていた。
「やめてくれる?私たち、ただお昼を食べてるだけなんだけど」
「はっ。月詠さんは騙されてんだよ。コイツ、本当は腹黒いんだぜ?お前に近づくために、わざと大人しいフリしてるだけかもしんねえじゃん」
隼人は、自分が面白いことを言ったとでも思っているのか、下卑た笑みを浮かべる。取り巻きたちも同調して笑い声を上げた。
その瞬間、栞がすっくと立ち上がった。
「聞き捨てならないわね。律のことを何も知らないくせに、勝手なこと言わないで」
「なっ……」
予想外の強い反論に、隼人が一瞬たじろぐ。
「律は、私の大事な、本当に大事な幼馴染なの。あなたが想像するような汚い人間じゃない。あなたにそんな風に言われる筋合いは、一切ないわ」
凛とした声が、屋上に響き渡る。その気迫に押され、隼人だけでなく、彼の取り巻きたちも完全に気圧されていた。
「……もういいわ。気分が悪い。行くよ、律」
栞はそう言うと、俺の手をぐっと掴んで立ち上がらせた。俺は無言で彼女に従う。隼人は、何か言いたげに唇を震わせたが、結局、悔しそうに顔を歪ませるだけで、何も言えなかった。彼のプライドが、学校一の美少女に完膚なきまでに叩きのめされた瞬間だった。
屋上を後にする俺たちの背中に、彼の煮え切らない怒りの視線が突き刺さっているのを、俺は感じていた。
面倒なことになったな。俺は心の中で舌打ちする。あの男の執念深さは知っている。今日のことで、彼の嫉妬の炎にさらに油を注いでしまったことは間違いなかった。
放課後、俺は「図書委員の仕事があるから」と栞に嘘をつき、一人で校門を出た。彼女は少し心配そうな顔をしていたが、「気をつけてね」とだけ言って手を振ってくれた。
彼女と別れた後、俺は駅へとは向かわず、いつもとは逆方向のバス停へと歩き出す。数十分バスに揺られ、降り立ったのは、学校や自宅から数駅離れた、古い倉庫や町工場が立ち並ぶエリアだった。その一角にある、ひとき ઉつわ「TOTAL COMBAT GYM」と書かれた看板のビルに入る。
重い鉄の扉を開けると、汗と熱気、そして独特の消毒液の匂いが鼻をついた。サンドバッグを叩く乾いた音、縄跳びが床を打つリズミカルな音、トレーナーの檄が飛ぶ声。そこは、俺の演じる「陰キャ」とは無縁の世界だった。
「お、リツ。来たか」
受付にいた強面のジムの会長が、俺の姿を認めて声をかけてきた。
「はい、押忍」
俺は短く応えると、ロッカールームへと向かう。分厚い眼鏡を外し、コンタクトレンズを入れる。野暮ったい髪をワックスで手早く整え、学校指定のスラックスとシャツを、動きやすいトレーニングウェアに着替える。鏡に映ったのは、もはや「神楽坂律」の姿ではなかった。鋭い目つきをした、一人の格闘家「リツ」の姿がそこにあった。
幼少期に誘拐されかけたトラウマから、護身のために両親に勧められて始めた総合格闘技。だが、今ではそれは俺のアイデンティティの一部となり、学校で溜め込んだストレスを解放するための、唯一無二の手段となっていた。
バンテージを手に巻きながら、俺は今日の出来事を反芻する。火野隼人の粘着質な嫉妬。栞の毅然とした態度。そして、これから起こるであろう面倒事。
(鬱陶しい……)
思考を振り払うように、俺はサンドバッグの前に立つ。深く息を吸い、構える。
ドォンッ!
渾身の右ストレートが、重い革の塊にめり込む。凄まじい衝撃音がジムに響き渡った。一発、二発、三発。コンビネーションを叩き込みながら、俺は意識を集中させていく。学校での俺は偽物だ。だが、ここで汗を流し、拳を振るう俺こそが、本物の俺だ。誰にも邪魔されない、俺だけの時間。
一時間ほど汗を流し、心地よい疲労感と共にジムを後にした。すっかり暗くなった道を駅へと向かう。これでまた明日から、退屈な「陰キャ」を演じる日常が始まる。そう思うと、わずかに気分が沈んだ。
翌朝。何事もなかったかのように登校し、自分の下駄箱を開ける。すると、一通のピンク色の封筒がはらりと足元に落ちた。周囲に誰もいないことを確認し、それを拾い上げる。可愛らしいシールで封をされた封筒には、整った、しかしどこかあざとさを感じる女子の字で「神楽坂律様」と書かれていた。
嫌な予感がする。俺は封を開け、中の便箋を取り出した。
『突然ごめんなさい。3組の天海莉央です。神楽坂くんのこと、ずっと見てました。もしよかったら、今日の放課後、体育館裏で少しだけお話できませんか?待ってます』
天海莉央。火野隼人の彼女で、派手なギャルグループの中心人物だ。昨日、隼人と一緒に屋上に現れた取り巻きの一人でもある。
そんな女が、俺に?
ありえない。これは、十中八九、罠だ。昨日の屋上での一件の腹いせだろう。俺を呼び出し、告白させておいて、それを笑いものにする。あるいは、告白を断った俺を「調子に乗ってる」と囃し立てる。そんなところか。幼稚で、悪趣味な計画。
俺は便箋を静かに元の封筒に戻し、制服のポケットにしまった。これから始まる面倒事に、深く、深くため息をつく。
「律……?どうしたの、難しい顔して」
いつの間にか隣に来ていた栞が、俺の顔を覗き込んでいた。その瞳には、隠しきれない心配の色が浮かんでいる。俺は首を横に振り、いつもの無表情を取り繕った。
「……なんでもない」
そう答えながらも、俺の頭脳は冷静に、そして冷酷に、これから取るべき最善の一手をシミュレーションし始めていた。




