4話 吸血鬼化
噛まれたことによる痛みは感じなかった。それどころか今まで感じた事の無いような快楽が体中を駆け巡る。
全身が痺れ、あたかも自分の体が全て液体に転じて吸われるような……ああ、これが吸血鬼に血を吸われるという事なのか。
吸血鬼なんて、てっきり空想上の生き物だと思っていたのだが、目の前の美女は目を細めて俺の首筋に噛みつき血を吸っている。
彼女が吸血鬼でないと言うのなら、一体何がそれだというのか。
ああ、それにしても気持ちが良い。血を吸われるということがこんな快楽を生むとは……これが捕食されるという事なのか……。
まるで夢心地のような感覚で現世と幽世の狭間を行き来していた俺であったが、急にその感覚は途切れた。それに伴って全身の感覚が戻って来る。
なんだ? なにが起こった? 俺は彼女に吸い殺されるんじゃなかったのか――
我に返り、俺の首筋に嚙みついてる彼女を見やると、何やら血を吸う動きを止めてガタガタと震えている。暫く観察していると、その痙攣はだんだんと大きくなっていき……ついにはその場に仰向けとなって倒れ込んでしまった。
うわっ、なんか、白目を剥いて泡をふいて痙攣しているぞ!?
見た目が絶世の美女だけあって、その滑稽な姿は俺の彼女に対する尊敬であるとか、憧れとかを一瞬で吹き飛ばした。
いや、あれ?
確かに美しくはあるが、憧れ? 尊敬? なんで俺が吸血鬼にそんなものを抱かなければいけないのか。
これは何かの精神汚染の可能性があるな。
そう思い、自己流のバイタルチェックをすると……ああなるほど。ドーパミンやらセロトニンやらの脳内物質が異常値を示している。
どうやら俺はこの女吸血鬼に催眠術か何かを掛けられていたらしい。そういえば目が合った瞬間、何かが入り込んでくるような感覚を覚えたが、その時に何かを仕掛けられたんだろう。俺の無駄な蘊蓄は、吸血鬼には魅了の能力があると言っているから多分それなんだと思う。
しかし、一体全体どういうことなんだろう。
俺の血を吸った女吸血鬼は未だに白目を剥いて痙攣しており、時折、『不味い、なんじゃこの今まで飲んだことのない不味い血は……』という、呪詛のような言葉を吐いている。
失礼なヤツだなと思いながら、俺には心当たりがあった。
俺はシノビの鍛錬として毎回の食事に微量の毒物を含ませている。それは、己が身へ毒物を受けた時にその効果を遅延させるためであったり、自分の血を武器としたりするためだ。無論、現代日本ではそんな機会など一度もなかったが、幼少期からの習慣として何となく続けていた。
それがこの土壇場で俺の命を救うとは……人生、何が幸いするか分からない。
未だ痙攣している女吸血鬼に多少の同情を感じつつも、この痙攣が解けた時には再び襲い掛かってくることを思い、怖気が走った。
あの強烈な覇気……アレを浴びせられたら何もできなくなる。そして、吸血鬼の攻撃手段は血を吸うだけではない。
魔力? 怪力? 彼女がどの系統の吸血鬼に属するかは分からないが、あらゆる創作物において吸血鬼が最高級の化け物であることは間違いなく、それが現実となって襲ってくるのであれば俺の命はひとたまりもないだろう。
――よし、逃げよう。
この場に留まって益になる事なんて一つもない。
この女吸血鬼が俺の血に含まれた毒物で痙攣している間に出来るだけ距離を取らねば。
距離さえ取れれば俺の鍛え上げた遁術――逃げたり隠れたりすることに特化した忍術でどうにでもなる……と、信じたい。
俺は未だに痙攣している女吸血鬼に背を向けると、森の出口に向けて走りだした。
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なんだろう、凄く身が軽い。
最近、走れば膝やら股関節やらが抗議の声を上げていたというのに、それがまったくない。それどころかもっともっと俺達を役立てろと歓喜の声が聞こえてくるようだ。
四十三歳になっても変わらず鍛えてはいたが、最近は体力の衰えを顕著に感じていた。それが今は十代の成長期に戻ったのかのように体が軽い。いや、それどころか、体の奥底から妙な活力が漲ってきており、今なら空でも飛べそうだ。
実際に跳躍してみると……反動で地面が抉れ、高さは森の木々を超え、距離は50mほども飛んだ。明らかに人間の跳躍力ではない。
もしかして俺……彼女に血を吸われたことで吸血鬼と化したのか?
うーわ、もしそうなら検証しなければならないことが山ほどあるぞ。強大な力を持つとされる吸血鬼であるが、それと同等以上に致命的な弱点が多いことは知っている。
彼女がどの系統に属する吸血鬼かは分からないが、それを全部試さなければいけないことを考えると気が滅入る。
しかし試さないわけにはいかないだろう。うっかりそれに抵触してしまって灰になる……なんて事になったら死んでも死にきれない。
いや、それよりはとにかく親である彼女から逃れるのが先決だ。捕まったらどんな酷い目に遭わされることか……良くて八つ裂きだろうな。
そんなわけで、俺は不本意に得た吸血鬼の能力をフルに発揮してその場から遁走したのであった。
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