タイトル未定2025/04/29 12:17
雨が強く降る夜だった。
高瀬財閥の当主、高瀬正義は、自分の書斎の窓から外を見ていた。東京の夜景が雨に濡れ、ぼやけている。70歳になる彼は、長年の高血圧と心臓病に悩まされていたが、未だに財閥の実権を握っていた。今夜、彼は重大な決断を下そうとしていた。
「もう時間がないんだ」
彼は呟き、机の上に置かれた封筒を見つめた。その中には、彼の遺言と、高瀬財閥の次期当主を指名する文書が入っていた。正義には子供が三人いたが、誰を後継者にするかは、長年の頭痛の種だった。
長男の高瀬誠司は45歳。冷静沈着で計算高い性格だが、あまりにも権力志向が強く、時に非情な判断をする。次男の高瀬健太郎は42歳。温厚な性格で人望はあるが、決断力に欠け、ビジネスセンスは三人兄弟の中で最も弱い。そして末っ子の娘、高瀬美智子は38歳。頭脳明晰で行動力があり、海外の一流ビジネススクールを卒業後、グループ会社の建て直しに成功した実績を持つ。しかし、保守的な高瀬財閥では、女性が当主になることに反対する声も多かった。
正義は深いため息をついた。今日も長時間の取締役会を終え、疲れが溜まっていた。彼は机の引き出しから小さな錠剤を取り出し、水で飲み込んだ。
「もう少しだけ...」
彼は椅子に座り、封筒に署名をした。そして突然、胸に鋭い痛みが走った。彼は苦しそうな表情を浮かべながら、必死に呼吸をしようとした。封筒を掴もうとした手が宙をさまよい、やがて力なく机の上に落ちた。
高瀬正義の時間は、ついに尽きたのだった。
第一章
「お父様が亡くなられた」
高瀬誠司はその知らせを受けた時、東京の高級クラブにいた。彼は普段通り感情を表に出さず、携帯電話を切ると、グラスのウイスキーを一気に飲み干した。
「お先に失礼します」
彼は静かにクラブを後にした。高級車の後部座席に腰掛けると、運転手に病院へ向かうよう指示を出した。車内で彼は、父親の死によって動き出す権力闘争を冷静に分析していた。
同じ頃、高瀬健太郎は自宅で妻と二人の子供と夕食を取っていた。電話が鳴り、父親の訃報を聞くと、彼は顔面蒼白になった。
「父さんが...」
言葉を詰まらせた健太郎を見て、妻の優子は夫の肩に手を置いた。健太郎は涙を堪えながら、家族に説明し、急いで病院へ向かう準備を始めた。
一方、高瀬美智子はニューヨークでのビジネス会議の最中だった。彼女の秘書が会議室に入ってきて、緊急の連絡があると耳打ちした。父親の死を聞いた美智子は、一瞬だけ動揺を見せたが、すぐに表情を引き締めた。
「申し訳ありませんが、会議は中止させていただきます。日本に緊急帰国する必要があります」
彼女は冷静に告げると、すぐに秘書に最速の帰国便を手配するよう指示した。
東京の聖心病院。高瀬正義の遺体は、すでに病院の一室に安置されていた。最初に到着した誠司は、父親の遺体を前に黙祷をささげた後、主治医の城山医師と話をしていた。
「心臓発作だったんですね」
「はい。お父様は長年、心臓に問題を抱えていらっしゃいました。今回は突然の発作で、救急車が到着した時にはすでに...」
城山医師の言葉を聞きながら、誠司は父親が書斎で倒れた状況について詳しく尋ねた。父親の秘書によると、夜遅くまで書斎で仕事をしていたという。
健太郎が病院に到着したのは、その30分後だった。彼は泣き崩れながら父親の遺体に近づき、冷たくなった手を握りしめた。
「父さん...どうして...」
誠司は弟の姿を冷ややかな目で見ていた。「感情的になっても何も変わらないよ」と彼は言った。健太郎は兄の言葉に反応せず、ただ黙って父親に別れを告げていた。
数時間後、美智子もニューヨークから緊急の航空便で帰国し、病院に駆けつけた。三兄弟が揃うと、家族専用の待合室で高瀬家の弁護士である村松弁護士が現れた。
「ご愁傷様です。高瀬様の遺言について、お話しさせていただきたいことがあります」
三兄弟は黙って頷いた。村松弁護士は重々しい表情で続けた。
「正義様の葬儀の後、正式な遺言状の開封を行います。しかし、正義様から特別に指示がありまして、皆様には事前にお伝えしておくよう言われていました」
弁護士は一呼吸置いてから言った。
「正義様は、高瀬財閥の次期当主について、最終決定を下されていました。しかし...」
弁護士は困惑した表情を浮かべた。
「しかし、その文書が見つからないのです。正義様の書斎で倒れられた時、机の上に重要な書類が入った封筒があったはずなのですが、救急隊や警察が到着した時には、すでにその封筒は消えていました」
三兄弟は驚きの表情を浮かべた。誠司が冷静に尋ねる。
「つまり、父の遺志を記した重要文書が盗まれたということですか?」
村松弁護士は頷いた。「その可能性が高いです。警察にも届け出ましたが...」
健太郎が口を開いた。「父さんは誰を後継者に指名したんですか?」
「それが...私にも分かりません。正義様は最後まで誰にも明かさなかったのです」
美智子は静かに考え込んでいた。「父が倒れた時、書斎には誰がいたのですか?」
「秘書の佐藤さんによると、その夜は正義様お一人で仕事をされていたそうです。佐藤さんは隣の部屋で待機していましたが、物音に気づいて書斎に入ると、すでに正義様は倒れていたとのことです」
三兄弟は沈黙した。高瀬正義の死は単なる病死ではなく、何か不穏な事件が絡んでいるのではないか—その疑念が、部屋の空気を重くしていた。
「では、後継者は...どうなるのでしょう?」健太郎が恐る恐る尋ねた。
村松弁護士は困惑した表情を浮かべながら答えた。「正式な指名文書がない以上、取締役会での投票になるでしょう。遺言状の残りの部分は、個人的な財産分与についてのみ記されています」
誠司の表情が僅かに明るくなった。取締役会なら、自分に有利だと彼は考えていた。健太郎は不安そうな表情を浮かべ、美智子は何かを察したように眉をひそめた。
三兄弟の間に、目に見えない緊張が走った。父親の死の謎と、消えた後継者指名文書。そして、これから始まる権力闘争。高瀬家の暗い影がゆっくりと動き始めていた。
第二章
高瀬正義の葬儀は、東京の高級葬儀場で厳かに執り行われた。政財界の要人が多数参列し、高瀬財閥の影響力の大きさを物語っていた。
葬儀の間、三兄弟はそれぞれ異なる態度を見せていた。誠司は終始冷静で、来賓への対応を完璧にこなしていた。健太郎は感情を抑えきれず、時折目を赤くしていた。美智子は凛とした態度で、父親への最後の敬意を表していた。
葬儀が終わると、高瀬家の主要メンバーと弁護士、そして取締役数名が別室に集まった。遺言状の開封が行われることになっていた。
村松弁護士が封筒を開け、正義の遺言を読み上げた。予想通り、個人的な財産分与については細かく指定されていたが、高瀬財閥の後継者については何も触れられていなかった。
「これにて、正義様の遺言状の内容をすべて読み上げました」
弁護士の言葉に、部屋の空気が一気に緊張感を増した。高瀬財閥の専務取締役、前田俊夫が口を開いた。
「村松先生、後継者についての指示はないのですか?」
「はい、この遺言状には記されていません。先日お話ししたように、別の文書があったはずなのですが...」
「では、取締役会で決議するしかありませんな」
前田専務の言葉に、誠司が頷いた。「父も最終的には取締役会の判断を尊重したかったのでしょう」
美智子は静かに反論した。「いいえ、お父様はご自身の意思で後継者を決めていました。その証拠に、指名文書を用意していたのです」
健太郎が不安そうに言った。「その文書が見つからない限り、お父さんの本当の遺志はわからないんじゃ...」
前田専務が話を整理した。「いずれにせよ、来週の取締役会で後継者についての投票を行います。それまでは、私が暫定的に代表権を預からせていただきます」
会議が終わった後、美智子は父親の書斎に向かった。彼女は父親が最後に過ごした場所を見たいと思ったのだ。書斎に入ると、すべてが元通りに整頓されていた。だが、父親の温もりはもうそこにはなかった。
美智子が父の机に近づいた時、秘書の佐藤朋子が入ってきた。
「美智子様、何かお探しですか?」
「いいえ、ただ父の最後の様子を知りたくて...あなたが最後に父を見たのよね?」
佐藤は悲しそうに頷いた。「はい。あの夜、社長は普段より疲れた様子でした。でも、重要な決断を下したと仰っていました」
「その決断というのは、後継者のことね」
「はい。封筒に何かを入れて、署名をされていました。私が差し入れたお茶を飲まれた後、少し休むようにと言われたので、隣の部屋で待機していたのです」
美智子は佐藤の目をじっと見た。「そして、物音がして駆けつけたら、父は倒れていた...」
「はい。すぐに救急車を呼びましたが...」佐藤の目に涙が浮かんだ。
「その時、封筒はどうなっていましたか?」
佐藤は困惑した表情を浮かべた。「確かに机の上にあったはずですが...救急隊員が到着した時には、見当たらなかったと思います」
美智子はさらに質問を続けようとしたが、そこに誠司が入ってきた。
「美智子、何をしているんだ?」
「父の書斎を見ていただけよ」
誠司は不審そうな目で妹を見た。「取締役会は来週だ。それまでは余計なことをしないほうがいい」
美智子は兄の言葉に反論せず、静かに書斎を後にした。廊下で彼女は、健太郎とばったり出くわした。
「美智子、ちょっといいかな」健太郎は周りを見回して、人がいないことを確認すると、小声で続けた。「実は...父さんが亡くなる前日、僕に電話があったんだ」
美智子は驚いた表情を浮かべた。「何て言ってたの?」
「明日、重大な決断をすると。そして...」健太郎は言葉を選ぶように一瞬躊躇した。「『お前を信じている』と言われたんだ」
「それは...」
「でも、それが何を意味するのか分からない。父さんは僕を後継者に選んだのか、それとも別の意味があったのか...」
美智子は弟の言葉を聞きながら、考え込んでいた。父親は最後に何を伝えようとしていたのか。そして、消えた文書の行方は。
一方、誠司は書斎を出ると、自分の車に向かった。車内で彼は携帯電話を取り出し、番号を押した。
「俺だ。調査は進んでいるか?...そうか、まだ何も...」
彼は一瞬沈黙した後、決意を固めたように言った。
「どうあっても、あの文書を見つけ出せ。必要なら、家中を探し回ってもいい」
高瀬家の影が、さらに濃くなっていくのだった。
第三章
翌日、高瀬美智子は父親の主治医だった城山医師に会いに行った。彼女は父の死の真相について、もっと詳しく知りたいと思ったのだ。
聖心病院の城山医師のオフィスで、美智子は率直に質問した。
「城山先生、父は本当に自然死だったのでしょうか?」
城山医師は眉をひそめた。「どういうことですか?」
「父は長年心臓に問題を抱えていましたが、最近は症状が安定していたと聞いています。突然の発作というのが...」
城山医師は深刻な表情で答えた。「確かに、最近の検査では安定していました。しかし、心臓発作は予測不可能なものです。特に高瀬様のようにストレスの多いお仕事をされている方は...」
「父が服用していた薬について教えていただけますか?」
「定期的に心臓の薬と血圧の薬を処方していました。最後にお会いしたのは一週間前ですが、その時は特に変わった様子はありませんでした」
美智子はさらに質問を続けた。「父の死因を確定するための詳しい検査はされましたか?」
城山医師は少し戸惑いながら答えた。「通常の検査は行いましたが...特別な検査までは行っていません。明らかな心臓発作の症状でしたので」
美智子が追及するように尋ねた。「毒物などの検査は?」
医師は驚いた表情を浮かべた。「毒物?美智子様、何かご疑念があるのですか?」
「いいえ、ただ確認したかっただけです」美智子は平静を装った。「最後にもう一つ。父が亡くなった夜、父は誰かと会っていましたか?」
「それについては...」城山医師は言葉を選ぶように間を置いた。「救急隊が病院に到着した時点では、秘書の佐藤さんと家政婦の方しかいませんでした」
美智子は礼を言って病院を後にした。彼女の頭の中には、まだ多くの疑問が渦巻いていた。
同じ頃、高瀬誠司は高瀬財閥の本社ビルで、主要取締役たちと個別に会談していた。次期当主の座を確実にするための根回しだった。
「前田専務、取締役会では私への支持をお願いします」
前田専務は慎重に言葉を選んだ。「誠司さんは長男として、また経験豊富な経営者として適任だとは思いますが...」
「しかし?」
「しかし、健太郎さんも美智子さんも、それぞれ優れた資質を持っています。特に美智子さんは海外での実績が評価されています」
誠司は冷ややかな笑みを浮かべた。「伝統ある高瀬財閥のトップに女性が就くことに、取締役の皆さんは抵抗はないのですか?」
前田専務は答えなかったが、その表情からは古い価値観に縛られていることが窺えた。
一方、高瀬健太郎は自宅で妻の優子と話していた。
「僕には無理だよ...誠司兄さんか美智子なら、財閥を率いていけるかもしれないけど」
優子は夫の手を握った。「健太郎、あなたにも十分な資質があるわ。お義父様もそれを知っていたからこそ、あなたに電話をしたのよ」
「でも...」
「自信を持って。あなたらしい誠実さで、高瀬財閥を新しい時代に導けるはず」
健太郎は弱々しく微笑んだが、その目には不安の色が残っていた。
その日の夕方、三兄弟は父親の自宅で偶然顔を合わせることになった。誰もが父の書斎から何かを探し出そうとしていたのだ。
「何をしているんだ?」誠司が健太郎に尋ねた。
「あ、兄さん...僕は、父さんの思い出の品を...」
「私も同じよ」美智子が静かに言った。「父の遺品整理を手伝おうと思って」
三兄弟は互いを疑わしげに見つめ合った。そこに家政婦の田中さんが入ってきた。
「皆様、お茶をお持ちしました」
三人は無言でお茶を受け取った。田中さんが去った後、美智子が口を開いた。
「私たち、正直になりましょう。みんな父の残した文書を探しているのよね?」
誠司は冷静に答えた。「当然だ。父の真意を知りたいのは当然だろう」
健太郎は素直に認めた。「僕も...父さんが最後に何を決めたのか知りたかったんだ」
美智子は二人の兄を見つめた。「では聞くけど、二人は父の書斎から何か見つけた?」
二人は首を振った。美智子は続けた。「私も何も見つけられなかった。でも、不思議だと思わない?父の最期を看取った人が秘書の佐藤さんだけで、そして重要な文書が消えている...」
誠司が鋭く言った。「何が言いたい?」
「単純な推理よ。父の死と文書の消失には、何か関連があるかもしれないってこと」
健太郎が青ざめた顔で尋ねた。「まさか...父さんは殺されたとでも?」
誠司は冷笑した。「荒唐無稽な話だ。父は心臓発作で亡くなった。それは医師も確認している」
美智子は真剣な表情で言った。「私は明日、佐藤さんにもっと詳しく話を聞くつもりよ。それに...」
彼女の言葉は、突然のガラスの割れる音で中断された。三人が振り向くと、書斎の窓が割れ、床に石が落ちていた。石には紙が巻きつけられていた。
誠司が素早く紙を取り、開いた。そこには乱暴な文字で一文だけ書かれていた。
『調査を続ければ、次は命がない』
三兄弟は顔を見合わせた。これは単なる脅しか、それとも誰かが本気で彼らを止めようとしているのか。高瀬家の謎は、さらに深まるばかりだった。
第四章
三兄弟は警察に通報することにした。脅迫文は重大な犯罪であり、彼らの身の安全も懸念されたからだ。
警視庁から派遣された刑事、鈴木剛は、高瀬家の書斎で三兄弟から状況を聞いていた。
「この脅迫文が投げ込まれたのは、何時頃ですか?」
誠司が答えた。「約一時間前です。私たちが書斎で話していた時に突然...」
鈴木刑事は石と紙を証拠袋に入れながら言った。「指紋検査に回します。庭には足跡などの痕跡はありましたか?」
「まだ確認していません」美智子が答えた。「窓が割れた直後、すぐに警察に連絡しました」
鈴木刑事は続けて質問した。「あなた方は、何か調査をしていると言いましたね。それは何についての調査ですか?」
三兄弟は顔を見合わせた。健太郎が答えることにした。
「父が亡くなる前に、後継者を指名する文書を作成していたのですが、その文書が消えてしまったんです」
「なるほど」鈴木刑事はメモを取りながら頷いた。「その文書には、誰の名前が書かれていたのですか?」
「それが分からないのです」誠司が冷静に答えた。「父は最後まで誰にも明かしませんでした」
鈴木刑事は三兄弟をじっと見た。「つまり、三人とも後継者候補ということですね」
美智子が鋭く指摘した。「刑事さん、私たちを疑っているんですか?」
「いいえ、状況を整理しているだけです」鈴木刑事は穏やかに答えた。「お父様の死因は心臓発作と聞いています。しかし、重要文書の紛失と今回の脅迫...不審な点が多いですね」
鈴木刑事はさらに各人から詳細な事情を聴取した後、警察は当面、高瀬家の周辺に警官を配置することを約束した。
翌朝、美智子は約束通り、秘書の佐藤朋子に会いに行った。彼女は父親の会社のオフィスで佐藤を見つけた。
「佐藤さん、少しお話してもいいですか?」
佐藤は美智子を見ると、少し緊張した様子で頷いた。「もちろんです、美智子様」
二人は会議室に移動した。美智子は率直に質問した。
「あの夜のことをもう一度詳しく教えていただけますか?父が倒れる前に、何か異変はありませんでしたか?」
佐藤は考え込むように目を伏せた。「特に変わったことは...」彼女は言葉を詰まらせた。「ただ、あの日は来客がありました」
美智子は身を乗り出した。「誰が?」
「前田専務です。社長とおよそ30分間、二人きりで話をされていました」
「前田専務が...」美智子は意外な情報に眉をひそめた。「他には?」
「その後、社長は私に夕食を持ってくるよう指示されました。私が食事を準備している間に、社長はどなたかと電話で話していました。戻ってきた時には、社長はかなり疲れた様子でした」
「電話の相手は?」
「分かりません。ただ...社長が『健太郎』という名前を言っているのは聞こえました」
美智子は弟の名前を聞いて目を見開いた。健太郎が父から電話があったと言っていたのは本当だったのだ。
「それから社長は、重要な決断をしたと仰って、封筒に署名をされました。私はお茶を差し上げた後、隣の部屋で待機するよう言われたのです」
美智子はさらに質問を続けた。「父が倒れた時、あなたはすぐに気づいたのですか?」
「はい...物音がして駆けつけました。社長は床に倒れていて...」佐藤の目に涙が浮かんだ。
「その時、封筒はどうなっていましたか?確かに見ましたか?」
佐藤は困惑した表情を浮かべた。「確かに机の上にあったと思います。でも、救急隊員が到着した時には...」
「誰か他に部屋に入った人はいませんでしたか?救急隊員の前に」
佐藤は一瞬考え込み、それから小さな声で言った。「実は...救急車を呼んだ後、私は慌てて高瀬様の長男、誠司様に連絡したんです。誠司様は驚かれて、すぐに来ると言われました。救急隊員が到着する前に、誠司様がいらっしゃいました」
美智子は驚きを隠せなかった。「兄が?それは聞いていなかったわ」
「誠司様は書斎に入って、父上の様子を確認されました。その時に机の上を見られていたと思います」
「どのくらいの時間、兄は書斎にいたの?」
「数分です。救急隊員が到着すると、誠司様は彼らに任せて、私に指示を出されていました」
美智子は考え込んだ。兄が父の死の直後に現場にいたということ。そして、その後で封筒が消えていた。単なる偶然か、それとも...。
「佐藤さん、あなたは高瀬家で何年働いていますか?」
「15年になります」
「父は信頼していましたね。父は最後の数ヶ月、誰を後継者にするか、何か話していませんでしたか?」
佐藤は慎重に言葉を選んだ。「社長は...しばしば三人のお子さんについて話されていました。誠司様の経営手腕を評価されつつも、時に冷たすぎる判断に懸念を示されていました。健太郎様の温和な人柄をとても気に入っておられましたが、もう少し強さが必要だと。そして美智子様...」
佐藤は美智子をまっすぐ見た。「社長は、あなたの才能と決断力を非常に高く評価されていました。ただ、取締役会の古い考えを変えるのは難しいだろうと懸念されていました」
美智子は静かに頷いた。父の考えは理解できていた。だからこそ、父が最終的に誰を選んだのかが重要だったのだ。
「佐藤さん、最後にもう一つ。父が亡くなった夜、お茶を差し上げたと言いましたね。その時、父は薬も飲みましたか?」
「はい、いつも通り心臓のお薬を。私が目の前でお出ししました」
美智子は立ち上がり、佐藤にお礼を言って会議室を後にした。彼女の頭の中では、新たな疑念が膨らんでいた。
同じ頃、高瀬誠司は自分のオフィスで、探偵事務所の男性と話していた。
「高瀬様、ご指示通り調査しましたが、現時点では文書の行方は分かりません」
誠司は不満そうに唸った。「それで、他に何か分かったことは?」
探偵は声を潜めた。「実は...お父様が亡くなる前日、弟さんの健太郎様と電話で話していたことが確認できました。かなり長い通話だったようです」
誠司の目が鋭くなった。「それは確かな情報か?」
「はい。また、お父様は最近、弁護士の村松先生とも何度か秘密裏に会っていたようです」
誠司は考え込んだ。「分かった。引き続き調査を頼む」
探偵が去った後、誠司は窓際に立ち、東京の街を見下ろした。父が健太郎と秘密の電話をしていたことは意外だった。父は本当に弱い健太郎を後継者に選ぼうとしていたのか?
彼の思考は携帯電話の着信音で中断された。画面を見ると、前田専務からだった。
「はい、誠司です」
「誠司さん、緊急の件でお電話しました。取締役会が明日に繰り上げられました」
「明日?なぜそんなに急に?」
「株価が不安定になってきています。早急に新しい体制を作る必要があると...」
誠司は冷静さを保ちながらも、内心は動揺していた。「分かりました。準備します」
電話を切ると、すぐに弟の健太郎に連絡を取った。
「健太郎、聞いたか?取締役会が明日だ」
「え?そんな急に...」健太郎の声は不安に満ちていた。
「準備はいいか?」
「正直、自信がないよ...」
誠司は冷たく言った。「なら、立候補を辞退したらどうだ?お前には無理だろう」
「でも、父さんは...」
「父さんがどうしたって?」誠司の声は鋭くなった。
健太郎は黙った。電話の向こうで彼が深呼吸する音が聞こえた。「いや、何でもない。明日は...自分の考えを述べるよ」
誠司は不満そうに電話を切った。次に美智子に連絡しようとしたが、彼女の電話は繋がらなかった。
その時、美智子は城山医師のオフィスに再び訪れていた。
「城山先生、申し訳ありませんが、もう一度父の死因について詳しく聞かせていただけますか?」
城山医師は少し戸惑いながらも、美智子の真剣な表情に応えた。「もちろんです。何かご疑問が?」
「父が服用していた薬について、もう少し詳しく教えていただけますか?」
「高瀬様は心臓の薬として、主にカルジオレートを処方していました。血圧の薬としては...」
「カルジオレート?」美智子は眉をひそめた。「それは過剰摂取すると危険だと聞いています」
城山医師は真剣な表情になった。「はい、過剰摂取は心臓に負担をかけ、最悪の場合は発作を引き起こす可能性があります。しかし、高瀬様は長年その薬を適切に使用されてきました」
美智子は直接的な質問をした。「父の死後、薬の血中濃度検査などはされましたか?」
城山医師は少し不快そうな表情を浮かべた。「美智子様、何を暗示されているのですか?お父様の死は明らかに自然死です」
「確認したいだけです。この薬、通常の2倍、3倍の量を摂取したら、心臓発作を起こす可能性はありますか?」
城山医師は躊躇した後、小さな声で答えた。「理論上は...可能性はあります」
美智子は立ち上がり、医師に礼を言った。「ありがとうございました。明日は取締役会です。もし父の死因について何か気になることがあれば、ご連絡ください」
美智子が病院を出ると、すでに日が暮れかけていた。彼女の心には確信が芽生えていた。父は単なる心臓発作で亡くなったのではない。誰かが父を殺し、後継者指名文書を盗んだのだ。
そして明日、その真実が明らかになるかもしれない。彼女は決意を固めて歩き出した。その時、背後から忍び寄る足音に気づいたが、振り返る間もなく、何者かに襲われた。
突然の衝撃と痛み。美智子の視界が暗くなっていく中、彼女は必死に抵抗しようとした。だが意識は急速に遠ざかり、やがて完全な闇に包まれたのだった。
第五章
美智子が目を覚ましたのは、病院のベッドの上だった。頭に鈍い痛みを感じながら、彼女はゆっくりと周囲を見回した。
「やっと目が覚めたか」
声の方を向くと、兄の誠司が椅子に座っていた。
「何が...」
「昨夜、何者かに襲われたんだ。通行人が倒れている君を見つけて救急車を呼んだ」
美智子は記憶を辿った。病院を出た後、誰かが後ろから近づいてきて...。
「怪我は?」
「幸い、軽い脳震盪だけだ。医師は一日安静にするよう言っていたが...」
美智子は体を起こそうとした。「取締役会は?」
「二時間後だ。君が出席できるかどうか...」
「出席する」美智子は断固とした口調で言った。「誰かが私を止めようとしているのは明らかだわ。でも、そうはいかない」
誠司は複雑な表情で妹を見つめた。「君を襲った犯人はまだ見つかっていない。警察は調査中だ」
「兄さんは昨夜、どこにいたの?」
誠司の目が鋭くなった。「何を言っているんだ?まさか私を疑っているのか?」
「単純な質問よ」
「オフィスにいた。証人はいる」
二人の会話は、健太郎の入室で中断された。彼は心配そうな表情で美智子のベッドに駆け寄った。
「美智子!大丈夫?警察から連絡があって...」
「心配しないで。軽い怪我だけよ」
健太郎は安堵の表情を浮かべた後、誠司に向き直った。「兄さん、取締役会はどうするんですか?延期するべきでは?」
「いいえ」美智子が断固として言った。「予定通り行うべきよ。私も出席する」
誠司は腕を組んだ。「美智子が出るというなら、予定通り進めよう。それにしても...」
彼は窓の外を見た。「誰が美智子を襲ったのか。そして、なぜ」
「それは明らかでしょう」美智子は冷静に言った。「私が真実に近づいていたから」
「真実?」健太郎が尋ねた。
「父は殺されたのよ」美智子の声は静かだが、確信に満ちていた。「そして、犯人は父の後継者指名文書を盗んだ。その文書には、父の本当の意思が書かれていたはず」
誠司は冷笑した。「荒唐無稽な話だ。父は心臓発作で亡くなった。それは医師も確認している」
「過剰な薬の摂取によって引き起こされた心臓発作かもしれないわ」
健太郎が青ざめた顔で言った。「まさか...誰がそんなことを?」
美智子は兄弟を見つめた。「それを今日、明らかにするつもりよ」
二時間後、三兄弟は高瀬財閥の本社ビルの取締役会議室に集まっていた。美智子は包帯を巻いた頭で現れたが、その姿勢は凛としていた。
取締役たちが席に着くと、前田専務が会議の開始を宣言した。
「本日は、高瀬正義前社長の後を継ぐ新社長を決定する臨時取締役会です。三人の候補者から、それぞれ抱負を述べていただきます」
誠司が最初に立ち上がった。彼は自信に満ちた声で、自らの経験と実績を強調し、高瀬財閥をさらに発展させる構想を述べた。取締役たちは感心した表情で聞いていた。
次に健太郎が立ち上がった。彼は少し緊張した様子だったが、誠実な口調で語り始めた。
「私は、父が大切にしてきた『人』を中心とした経営を継承したいと思います。利益だけを追求するのではなく、社員とその家族、そして社会全体が幸せになるような企業を目指します」
彼の言葉は素朴だが、心に訴えるものがあった。数人の取締役が頷いているのが見えた。
最後に美智子が立ち上がったとき、会議室に静寂が広がった。彼女の頭の包帯が、昨夜の事件を雄弁に物語っていた。
「私の抱負を述べる前に、重要な事実を共有したいと思います」
美智子の声は落ち着いていたが、その目には鋭い光があった。
「父は自然死ではありません。誰かが父の薬を過剰に投与し、心臓発作を引き起こしたのです」
会議室がざわめいた。前田専務が口を開いた。「美智子さん、それは重大な告発です。証拠はありますか?」
「完全な証拠はまだありません。しかし、父は重要な文書を残しました。その文書には、父が選んだ後継者の名前と、おそらく他の重要な情報も含まれていたはずです」
「その文書はどこに?」
「誰かが盗みました。父が倒れた直後に」
美智子は会議室を見回した。「私が昨夜襲われたのは、真実に近づきすぎたからです。そして、私は犯人が誰か、そして父が誰を後継者に選んだのか、知っています」
会議室が再び静まり返った。全員が息を飲んで美智子の次の言葉を待った。
「父が最後に会ったのは、前田専務でした」
前田が驚いた表情を浮かべた。「私は確かに正義さんと会いましたが、それは仕事の話だけです。それに、私が出た後、正義さんはまだ元気だった」
美智子は続けた。「父は次に健太郎と電話で話しました。そして最後に、重要な決断を下したと言って、後継者指名文書に署名しました」
美智子は一呼吸おいて、会議室の全員を見渡した。
「そして、父が倒れた後、最初に現場に到着したのは...誠司兄さんでした」
会議室の目が一斉に誠司に向けられた。誠司は冷静さを保ちながら言った。
「私が到着したのは、秘書の佐藤さんから連絡を受けてからだ。父はすでに倒れていた」
美智子は静かに言った。「兄さんは、父の書斎に入ったとき、机の上に封筒があるのを見たはずです。その封筒には...」
「いいかげんにしろ!」誠司が突然声を荒げた。「証拠もなく、私を犯人扱いするのか?」
その時、会議室のドアが開き、鈴木刑事が数人の警官と共に入ってきた。
「失礼します。高瀬誠司さん、少しお話を伺いたいのですが」
誠司は動揺を隠せない様子で立ち上がった。「何の用ですか?」
鈴木刑事は落ち着いた声で言った。「昨夜の高瀬美智子さん襲撃事件の容疑者が防犯カメラに映っていました。そして、その人物は...」
「私ではない!」誠司が激しく否定した。「私はオフィスにいた!」
「確かに誠司さんはオフィスにいました」鈴木刑事は冷静に答えた。「しかし、誠司さんが雇った私立探偵の男が、美智子さんを襲撃したことを自供しました」
会議室に衝撃が走った。健太郎が愕然とした表情で兄を見つめていた。
「兄さん...まさか...」
誠司の表情が一変した。彼は冷ややかな笑みを浮かべた。「そうか...あの男がしゃべったか」
美智子が静かに言った。「なぜ、兄さん?」
「なぜだって?」誠司の声には怒りが滲んでいた。「長男である私が当然継ぐべき地位を、父は健太郎か君に与えようとしていた。それを知った時、私は...」
「父の薬に手を加えたのね」美智子が悲しげに言った。
誠司は答えなかったが、その沈黙が雄弁に語っていた。
鈴木刑事が前に進み出た。「高瀬誠司さん、あなたを高瀬正義さん殺害の容疑で逮捕します」
誠司は突然、ポケットから小さな封筒を取り出した。
「探していたのはこれだろう?」
彼は苦々しい表情で封筒を開き、中の紙を取り出した。
「父の後継者指名文書だ。確かに私は父の書斎から持ち出した。父が倒れた時、まだ息があった。父は私を見て...失望の表情を浮かべていた」
誠司は紙を広げ、声に出して読み始めた。
「私、高瀬正義は、長年の考慮の末、高瀬財閥の次期当主として、次男・高瀬健太郎を指名する。彼の誠実さと人間性は、これからの時代に最も必要とされる資質である...」
健太郎は驚きのあまり言葉を失った。美智子は静かに微笑んだ。
「やはり...父は健太郎を選んだのね」
誠司は紙を床に投げ捨てた。「なぜだ?なぜ私ではなく、弱い健太郎を?」
鈴木刑事が誠司に手錠をかけながら言った。「高瀬誠司、あなたには黙秘権があります...」
誠司が連行されていく中、健太郎は茫然とした表情で立ち尽くしていた。美智子が彼の肩に手を置いた。
「健太郎、父はあなたを信じていたのよ。あなたの優しさが、高瀬家を新しい時代に導くと」
健太郎は涙ぐみながら言った。「でも、僕には...」
「私が手伝うわ」美智子は優しく言った。「二人でやっていきましょう」
前田専務が二人に近づいた。「健太郎さん、正義さんの遺志を尊重し、私たちも全力でサポートします」
健太郎は深呼吸して、覚悟を決めたように顔を上げた。「父さんの思いを無駄にしないよう、精一杯努力します」
会議室には新たな始まりの空気が満ちていた。高瀬家の暗い影は晴れ、明るい未来への一歩が踏み出されようとしていた。
エピローグ
一年後、高瀬財閥は健太郎の指揮の下、新たな発展を遂げていた。彼は父親の遺志を継ぎ、「人」を中心とした経営哲学を推進。従業員満足度は過去最高を記録し、社会貢献活動も拡大していた。
美智子は健太郎を支える右腕として、海外事業の責任者に就任。彼女の鋭い洞察力と決断力は、健太郎の優しさと理想主義を実務面で支えていた。
誠司は裁判の結果、父親の殺害と妹の襲撃の罪で服役していた。健太郎は時折、兄を面会に訪れていた。
「兄さん、会社は順調です。あなたの経営手法からも、多くのことを学んでいます」
誠司は最初、弟の訪問を拒否していたが、やがて少しずつ心を開くようになっていた。
「私が間違っていた」ある日、誠司はついに認めた。「父は正しかった。君こそが高瀬家を導くのにふさわしい人間だった」
健太郎は微笑んだ。「兄さんが出所したら、また一緒に働きましょう。あなたの才能を無駄にしてはいけません」
東京の高層ビルの一室で、美智子は窓から夕日を眺めていた。彼女の携帯電話が鳴り、健太郎からの連絡だった。
「美智子、面会に行ってきたよ。兄さん、少し変わったみたいだ」
「そう。それは良かったわ」
「父さんが見ていたら、喜んでいるだろうね」
美智子は微笑んだ。「ええ、きっと...」
彼女は父の写真を見つめた。高瀬正義の穏やかな笑顔が、彼女を見返しているように思えた。
真実は時に残酷だが、それを乗り越えた先に、新たな希望が芽生える。高瀬家は暗い影を乗り越え、より強く、より優しい家族になろうとしていた。
時折、夜の闇が深まる中、美智子は父の書斎に座り、窓から東京の夜景を眺めることがあった。そんな時、彼女は父の存在を近くに感じることができた。
「父さん、私たちは大丈夫よ。あなたが残してくれた道を、しっかりと歩いていくわ」
窓の外では、雨が静かに降り始めていた。
【完】
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