2話
左耳に掛けた少し長めの黒髪と、長い切れ目にすらっと伸びた背丈。
背後から聞こえてきた声に振り向くと、その人はいた。
「助けてやろうか」
前髪の隙間から覗かせた橙色の瞳と、目が合う。
そこにいたのは私の同級生にして、この国の第三王子アシェラン・ギルバートだった。
「あ、あの」
「お隣、失礼するよ」
私が戸惑っていると、アシェランは一人分間を空けて、ベンチに腰掛けた。
や、やばい。私が叫んだの聞かれてた?
チラッとアシェランの方に目を向けると、そこにはもうニヤついた笑顔はなく、爽やかな顔で微笑んでいるだけだった。
さっき見たニヤついた笑顔は、見間違いかしら?
もしかしたら、私が叫んだのも聞こえてないかも......。
というか、同級生とはいえアシェランは友達どころか、話したこともないのにどうして話しかけてきて―――。
「エウレカ嬢、貴女の噂は耳にしているよ」
私の疑問だらけの心の内を知ってか知らずか。
それを遮るように、アシェランは落ち着いた声音で話しかけてきた。
「私の噂ですか?」
私の噂って、何だろう?
私が平民であることがバレた......とか? もしかして、平民な上に貴族のフリをしていることが広まって、それを咎めに来たんじゃ......。
「そんなに、心配そうな顔をしないでくれ。何も悪い噂ではないよ」
不安が、顔に出ていたらしい。
アシェランは、私を安心させるように笑った。
「......では、私の噂とは何でしょうか? アシェラン様」
自分の喉が、予想以上に大きな音を立ててゴクリと鳴った。
アシェランは、悪い噂ではないと言ったけれど簡単に信じてはいけない。
なにせ、貴族はすぐ嘘をつくのだ。
是が非でも自分が上に立ちたい貴族は、同じ身分かそれ以下の相手に対しては、嘘を付いて貶し、自分を上げる。
そういう人が大半であり、それが当たり前だ。
だから、彼らの言葉を鵜呑みにすることはできない。
「入学してから一年間、成績を一位のままキープし続けたらしいじゃないか。すごいよ」
そんな警戒とは裏腹に、アシェランは素直に私を称えた。
あれ? 本当に良い噂?
その噂をわざわざ言いに来てくれただけ?
「そ、そんなことないですよ」
「そんなことあるさ! 勉学においても、魔法においても優秀だと聞いたよ。それは誰にでも出来ることじゃない。すごいことだよ」
アシェランは屈託のない笑顔を、私に向ける。
何か悪態をつかれるか平民の噂がバレていたのかと思ったのだけれど、どうやらその様子もなく、アシェランは私の努力を凄い凄いと褒め続けてくれた。
なんだ、ただの良い人じゃない!
学園長との事があって、少し気が立って卑屈に考え過ぎてたのかも。
貴族にだって良い人は居るわよね。
「俺たちは同級生だけど、話すのは初めてだからね。優秀な君と一度話してみたかったんだ」
「優秀って......まあ、それほどでもあるかもしれないですね〜」
き、気持ちいい! 平民がバレないように、人と話してこなかったから褒められるの気持ちいいわ!
平民だと隠していたから、自分の努力を誰にも打ち明けることができなかった。
だからだろうか、心配と怒りで埋め尽くされていた脳内は、自分のやってきたことが肯定されたような心地よい気持ちで包まれた。
「学力は、常に一位!」
「うん! うん!」
「魔法の成績も優秀!」
「からの!?」
「容姿も端麗! ......そして」
「そして!!?」
私を気持ちよ~く褒め倒してくれるアシェラン。
そのアシェランの屈託のない笑みが、突如、ニヤリと邪悪な笑みに変わった。
「本当は、学園に通う金もない。クソ庶民」
「......え?」
突如、何か雰囲気の変わったアシェランは、一人分間の空いたベンチから、距離を詰めて私を見下ろした。
「おまけに、それを誤魔化して貴族のフリをする。友達も従者もいない、ぼっち女」
「......な!」
貴族らしい爽やかで、品のある顔はどこへ消えたのか。
そこには、見間違いかと思っていた、ニヤついた顔をしたアシェランがいた。
な、なに!? この人! さっきまでと別人? 全然違うじゃない!
というか、どうして私の秘密を......?
私は《《あえて》》ぼっちになっているから、それだけは間違っている。絶対に間違っている。
だけれど、私が平民で貴族のフリをしていることは、学園長を含め本当に限られた先生しか知らない筈なのに。
「な、なんでそれを知って―——」
「庶民が俺に隠し事など、出来るわけないだろう」
アシェランは、ニヤリとしたり顔をしたまま腕を組んで立ち上がった。
少しでも、この男を良い人だと思った自分をぶん殴ってやりたい。
「大体、お前のその庶民的な立ち居振る舞いで、分からないはずがないだろう」
ガハハッと、子供のように高笑いするアシェランの声が耳に刺さる。
なんなの、このムカつく奴は!
もういい。私は、こんな貴族の道楽に付き合っている場合じゃなかったわ。
一刻も早く、学園に留まるための策と、ついでに学園長を一発ぶん殴る方法を考えないと。
「話はそれだけですか? では、失礼します!」
「まあ、待てよ」
立ち上がって、その場を去ろうとした私の腕を、アシェランはすれ違いざまに掴んできた。
「離せクソ野郎!」という気持ちを込めて、睨みつけてみたものの、それでもアシェランは動じずに話続けた。
「だから、助けてやろうかと言っただろう」
腕を離さないつもりなら、強引に抜け出してこっそり脛を蹴ってやろうと思っていたが、アシェランの言葉に、つい私は動きを止めてしまった。
「なんだ、もう忘れたのか?」
アシェランは、私が動きを止めた様子を見ると、腕を離して大げさに肩をすくめた。
話しかけられた時に何か言われた気がしたけど、その時は叫んだことを聞かれたかの心配と急に話しかけられたことへの困惑で、すっかり頭から抜けていた。
でも、確かにそんなこと言ってたかもしれないけど、どういう意味?
「......助けてやるとは、どうゆうことでしょう?」
そう聞いたはいいものの、なんかすごーく嫌な予感がする。
「今しがた叫んでいたじゃないか。学園長をブッ飛ばしてやる! と」
見事的中。
やっぱり聞かれてた。
この男の蹴る場所は、脛じゃなくて頭にしよう。なんかいい感じに記憶が飛ぶかもしれない。
しかし、それはなんとか空耳ということにできないか試してみてからでも、遅くはないわ。
「あ、あの~。それは誤解というか」
「......誤解?」
「はい! 学園長をブッ飛ばす! じゃなくてアシェラン様をぶっとば」
「あ?」
「おっと」
誤魔化すつもりが、つい思っていることが口に出ちゃったわ。
「下手な誤魔化しなどする必要はない」
それでもアシェランは、私の失言を気に留めていないようだ。
「貴様が、先ほど学園長より実質の退学処分を下されたのは知っている。それで憤っているんだろう?」
「え? それも知っているんですか」
驚いた。というか、ぶっちゃけちょっと引いた。
この男は、どこまで私のことを知っているのかしら。
もしかして......変態ストーカーとか?
聞いたことがある、貴族には変態が多いと。
加えて、アシェランは王族。貴族の中でも一番上の身分。
ということは、もしかしてド変態なんじゃ......。
「おい、引くな! 俺は別に貴様を監視していたわけじゃないぞ! 王族だから、聖女をことを先に知っていただけだ」
「聖女のことを?」
自分の肩を抱いて、ゆっくりと後退したがどうやら襲ってくる気配はない。
だけど、まだ油断はできないわ。一応殴る準備だけはしておかなくちゃ。
「この間、聖女がこの学園に特待生として、編入すると聞いてな。そしたら案の定」
「私が特待生を剥奪されたと」
「ああ。そうなる確証は無かったが、中庭で一人叫ぶお前を見て確信したよ」
言い返す言葉もない。
いくら頭に血が上っていたとはいえ、学内で叫ぶのは失敗だった。
「それで、助けてやるというのはどういうことでしょうか?」
叫んだことを掘り返されても困るし、ここはさっさと本題に入ってもらいましょう。
「《《二つ》》条件を飲めば、お前の学費を肩代わりしてやる」
「特待生という肩書きはなくなるがな」と付け加えて、アシェランは言った。
思わぬ助け船。
しかし、ここですぐに「はい、お願いします!」と返事するわけにもいかない。
学費を肩代わりしてもらう代わりに、平民という秘密を握られた上で二つ条件を飲まなければいけないということは、それ相応にリスクが高い条件に決まっているわ。
こんな性格の男だもの。どんな要求か知れたものじゃない。
そもそも、本気でこんなことを言っているのかも怪しいし......。
......けど、今のところ八歩塞がりなのも事実。その条件とやらを、聞かずに突っぱねることもできないのよね。どうしたものかしら。
「どうした?」
「.......いえ」
取り敢えず......取り敢えず条件だけ聞いてみよう。
ほら、王族の気まぐれ? で、なんとなく助けてくれるだけかもしれないし。
「その条件とは、なんでしょう?」
ニヤついたアシェランの笑みは、いつの間にか消えていて、これが気まぐれやなんとなくで言っていないと感じられるほど、真剣な顔をしていた。
な、なにを言われるの......。
「一つ目の条件は、俺の......」
ゴクリ。
「俺の婚約者になれ!」
「ド変態じゃない!!」
念のために握っていた拳は、一直線にアシェランの顔面へと吸い込まれていった。