はじまりの歌
第七話 お拾いの子
和尚は凍てついた空気の中でも少しも動ずることなく飄々とした様子で、駐在所の中にいる人物達を心配そうに見つめるツンに近づいて、その前に座り込むとツンの頭を撫でながら
和尚「ツン〜。こないな所におったんかぁ〜。
お前さんの姿が見えんで、婆さまはへそ曲げてしもうてなぁ。
わしらはえらいとばっちりを受けておったんやぞ!
さっきわしを呼んでくれっとったんやなかか?」と
にこやかに話しかけると、ツンは訴えてかける様な視線を
菊之丞の方に向けた。
その視線に促されるように和尚が菊之丞の方に顔を向けると、
駐在が我先にと和尚にことの次第を話しはじめた。
そうして和尚が駐在所に着いた頃婆さまは、
駐在との電話を切った後、婆さまはすかさず鳥越先生(村医者)に
電話をかけると赤子が見つかった件を告げ、赤子の命に関わると鳥越先生を急かし、母乳の確保も必要であると説いて、
鳥越先生に石のところのおかみさんを連れて、集会所に戻って来て、婆さまを拾って駐在所まで連れて行くようにと依頼していた。
婆さま「ほんならのう先生、大至急で頼みますで」と
鳥越先生との電話を終えると、鳥越先生が向かう先の
石のところのおかみさんにも同様の内容の電話をかけ、
そういうことならと、石のおかみさんからの同意も得ていた。
そんなこんなで婆さまが集会所で待機している時に、
駐在所では和尚がおおまかな説明を駐在から聞き終えたところであった。
和尚「なるほど…そんなことがなぁ…。
先ずは赤子の様子が心配や、
まだ泣き声が上がらんかぁ?」
と、心配そうに菊之丞が抱く赤子の顔を覗き込むと、
小さな身体がクニュクニュと動くのは分かるが、
泣き声を上げるだけの元気はなかった。
東雲が「大丈夫、大丈夫」と言いながら菊之丞の背中を摩られるのと同時に菊之丞も「大丈夫、大丈夫」と同じように繰り返して、赤ん坊の身体を摩っていた。
ツンはその様子を和尚の足下で行儀良く座りながらも、
心配で落ちつかないといった風で、行儀良く揃えた前足を何度も交互に踏みながら、首を大きく伸ばす様にして赤ん坊の様子を伺っていた。
そんな様子を見た和尚が菊之丞に
和尚「あって間もないわしを信じてくれと言うのは、
乱暴な話しかもしれんがな、
わしの命をかけて頼みたい。
ツンにその赤子を見せてやってくれんか?」
えっ⁈いう怪訝な顔つきをした菊之丞だったが、
菊之丞「和尚さまがご自分の命をかけてまで、その犬に
この子を見せたいと思われる理由はなんですか?」と
鋭い目つきで問い返すと、
和尚「単純なことじゃよ!
命を救おうとする仲間は多い方がええ。
それにわしは、このツンに自分の命をかけてもおしゅうないと
いう経験をもう十分しておるからなぁ」と、
疑る様な鋭い視線を向ける菊之丞に、真っ先の視線を返して
話しかけるに和尚。
そんな和尚の言葉を遮る様に運転手の橋本が、
橋本「惑わされないでください!私はかつて自衛隊で紛争地に
派遣された際に、優秀であるがゆえに訓練された犬が、
大人も子どもも関係なく、襲いかかっていった現場を何度も
この目で見ているんです!だから、この犬が優秀であればあるほど警戒しないといけないんです!
どうか、私を信用して下さい」と再びツンの前に立ち塞がると、武田が再び橋本の首根っこを押さえつけて、
武田「だったら私はお前じゃなくて、彼を信じる!
私は山国甲斐の出だ!その優秀さゆえに、山で迷った
大人や子どもを分け隔てなく助けた現場をこの目で何度も見ている」と詰め寄ると、
和尚「どちらも正解じゃな。
じゃが、2人とも言わんとする思いは同じか?
優秀な犬やからこそ警戒をしろ、
優秀な犬やからこそ信じろ、
その思いの根っこにあるんは、赤子の命を守りたいじゃろ?」と諍い合う橋本と武田の方を向くと、
2人は呆気に取られた様な力なく立ちすくんだ。
すると、そんな2人の背に和尚が手を置くと、
和尚「そんならツンより先にお前さん方にその思いを実行してもらう!駐在、お前もや!
ええか、婆さまの言われた通り赤子に取ったら冷えるのは命取りになる、じゃからこうして、部屋を暖めよと差配されたんじゃろ。ちょうど、ストーブの上の湯も沸いた様なんでな、
もうひとつ盥を用意して、そこにちょうどええ湯の温度になる様にして、この子に暖かい産湯に浸かってもらおう!
さあ、やることが決まったら、さっさと準備を始めるぞ!
2人は産湯の用意!駐在はキレイな手縫いを持って来い」
と、和尚の号令がかかると、それまで争っていた2人が産湯の準備を始めた。
その頃婆さまは、鳥越先生の車に乗って、石のおかみさんと共に駐在所へと向かっていた。
そして、準備が出来た産湯に和尚が自分の手を入れて産湯の
温度を確かめると、菊之丞が大事に懐に抱えていた赤ん坊を産湯に浸けようとしたが、ただ抱いていた時とは勝手が違う為、
産湯の前でオロオロし出し菊之丞に、東雲が
東雲「ここは私にお任せください。
赤ん坊をお風呂に入れたこともございますから」と
菊之丞から預かった赤ん坊を東雲がゆっくりと産湯に浸けた。
すると、その産湯の中で始めはだらんとしていた手足が、
湯の中でゆっくりと曲げ伸ばしする様に動くと、
ずっと閉じられたままだった赤ん坊の口が、
母乳を欲しがるようにちゅぷちゅぷと動き出した。
その様子に一同が「はあぁ」と笑顔を見せると、
和尚「こん子はまっことにお拾いの子じゃなあ」と
満面の笑みで声を上げると、
菊之丞「お拾いの子とはどういう意味なのですか?」
和尚「お拾いの子とははまっことに縁起のええ
お子のことじゃよ。有名どころでは、ほれ、あの太閤秀吉が
一番目に淀殿との間に産まれた子が死んだ後、
二番目に産まれた子が丈夫で育つ様にと、
ワザと一度捨て子にして、その子を臣下に見つけて
拾い上げさせて、これで命拾いをした。
この子は縁起のええお拾い丸や、お拾いの子は
先の子の様に夭折することはないと
縁起を担いでおったじゃろ!
あのお拾い丸はある意味やらせやがな、
この子は正真正銘のお拾いの子や。
こないな風に命を拾い上げてもらうて、
産湯を浸かっただけで、こんだけのお方に
喜んでもろうておるんじゃよ!
きっとお拾いの子の言い伝え通り、丈夫で達者な子に
育つはずや!」
の言葉に皆が笑顔で頷いていると、ずっと傍らで
その様子を見ていたツンが痺れを切らすように、
産湯に浸ける赤ん坊のそばまでくると、
その顔をツンが愛しそうにペロペロと舐め始めた。
すると、ちゅぷちゅぷと動かしていた赤ん坊の口が
「ウッ、ウーン」と閉じられたと思うと、
「オギャー、オギャー」と声を上げて泣き出した。