はじまりの歌
第五話 街灯
菊之丞たちの車が村の街灯に誘われるように、政所の村に中へと入ってきた時、道の集会所にいたツン(山猟師の犬)は再び何かを感じ取った様に立ち上がると、器用に前脚と鼻先を使って集会所の玄関の引き戸を開けて外に出た。
そして、駐在所のある方に顔を向けて耳をソバ立てると、
いきなりその方向へと走り出した。
その時、自転車をこいでいた駐在は街灯の前にある駐在所に
漸く辿り着くと、駐在所の入り口に掛けていた不在の札を
裏返して、在中の札に掛け直して、駐在所の中に入ってきた。
すると間もなく、駐在所の灯りに引き寄せられるように菊之丞たちの車が、駐在所の前に車を止めた。
周囲の様子を伺いながら、一番に車から出て来たのは、
運転手の橋本で、駐在所の入り口を開けると、
橋本「すいません、お巡りさんいらっしゃいますか?」と
声を上げると、駐在所の奥から駐在が出て来て、
駐在「はい、はーい。いますよ。今帰って来たとこです」
と、駐在所の入り口に立つ橋本の前まで来た。
橋本「あの…。お巡りさん!ここは一体どこなんですか?
私たちは東京から来たんですけど、
随分迷ってしまったみたいで。」
普段は見かけない人物の顔を珍しいそうに駐在が見ながら、
駐在「東京から来られたんですか?
どおりで見かけない顔だと思いました。
そう言う私も去年ここに東京から赴任して来た
ばっかりなんですけどね」とにこやかに答えながら
駐在「でも、私たちはっておっしゃてましたから、
他にはお連れの方がいらっしゃいんですか?」と
橋本が立っている入り口を全開にして、外の様子を伺うと、
駐在所の前に東京ナンバーの車が止まっているのに気付き
その車の方に駐在が歩き出すと、慌てた様で橋本が駐在に
つきしたいながら、
橋本「あの、お巡りさん、あのですね、
色々ちょっと大変なんです」と言うと、
車まで来た駐在が車の中を見ると、他に3人の男が座っていおり
運転手側の後部座席に座ってた菊之丞が、鳴き声を上げる赤ん坊を抱きながらいち早く車かから降りて来て、
菊之丞「この子を、さっきここに来る途中の大きな木の下で
見つけたんです」
それを見た駐在が「えーーーーーっ!」と大きな驚きの声を上げた。
その時、集会所の座敷でまだまだ賑やかな会が続いていた。
そんな中、トイレに立った和尚が集会所の玄関の前に差し掛かると、玄関の入り口が開いて、隙間風が吹き込むのに身震いして、そちらの方に顔を向けると、そこにいるはずのツンがいないのに気がついた。
そして、トイレを済ませて座敷に戻ると、爺さま、婆さまと
並んで座っていた山猟師の親方に、
和尚「ツンがおらんやったぞ?」と素っ頓狂な様子で問い、
山猟師「えー、先にいんで(帰って)しまいおったんやろうか?」
と、しょげた様に肩を落とすと、
婆さま「呆れて帰りおったのと違うか?」と冷やかす様に言う
爺さま「ツンはそないな薄情もんとは違うぞ、なぁ」
と親方の肩に手を回して慰めるように言うと、
婆さま「あのなぁ爺ども、よう聞けよ!わしが呆れてと言い
おったのは、このでくの坊だけやのうて、
このアホ面下げとる奴らも含めてじゃわ」と、
和尚、爺さま、山猟師の頭をポンポンと順序良く叩くと、
3人は「厳しいーーーーっ」と一緒に笑っていたが、
和尚だけは、ふと外の様子を気にする様に窓の向こうに視線を
向けていた。
そして駐在所では、赤ん坊を抱いている菊之丞を囲む様に
橋本、武田、東雲が次々に駐在に話しをしていて、
困惑しながらそれを聞いていた駐在が皆を落ちつける様に
「えーっと、竹生島神社の帰りに道に迷われて、
こちらの方に来られて、その道中に赤ん坊を見つけられたと
言うことで間違いないですか?」と立ち上がって言うと
菊之丞を含めた皆が頷いたが、
武田「その通りなんですけどね、先程もお話しした様に
我々は明日の朝には確実に東京に戻ってないと
いけないんです!
人助けはもうしたんですから、この赤ん坊は
お巡りさんに引き受けて頂いて、
すぐにでも名神高速の入り口まで先導して、
我々が帰れる様に協力して下さいよ!」と強く詰め寄る
菊之丞「私は無責任にこの子をここに置いて東京に
戻るつもりはありません」と、それに抗議する様に
キッパリと言い放つと、駐在はその間でオロオロし、
東雲と橋本は困惑しながらも無言で2人の言い分を聞いていた。
そんな中に、駐在所の外から「ワン」と犬の鳴き声が聞こえて
駐在にとっては聞き覚えのある鳴き声だった為か、
駐在「ツンかぁ?」と入り口を開けると、そこにツンが
座っていた。ツンを見た駐在はツンに甘える様に
駐在「ツーーーーン!!困ってるんだよー!
こんなことになってーー。俺どうしたらいいんだかぁ」
とツンに抱きついた。
するとツンは駐在に抱きつかれながらも、中の様子を探る様に
4人の男たちの顔を見回していた。そして、その中のひとりが赤ん坊を抱いているのにもめざとく気づき、駐在の抱きつきが少し弱まったのを見計らって、赤ん坊を抱く菊之丞の方に近づこうとすると、見知らぬ犬に警戒した菊之丞は、咄嗟に身を翻し
ツンから一番離れた壁に向かって立った。
橋本も犬の存在に恐れて後退りし、東雲は菊之丞を庇う様に
壁を向いて立っている菊之丞の前に移動していた。
ツンにびっくりしている橋本に気付た駐在が
「大丈夫ですよ皆さん!この犬はツンと言って、
このあたりの山猟師さんの犬ですから、
皆さんに危害を加える様なことは決してありません。」と
にこやかに話すと、それまで険しい表情をしていた武田が
『山猟師の犬』と言う言葉に反応する様に、ツンの方に視線を向けた。
そんな様子をじっと観察していたツンは再び駐在の近づいて
駐在のデスクの上にある電話の受話器を静かに咥えて外し、
その受話器を「くう〜ん。くう〜ん」と鳴き声ながら鼻先で
駐在の方に向けると、
駐在「電話…?電話するんか?」とまだ頭に??がついている
駐在に今度は駐在所の中の掲示板に向いて「ワン」と一声吠えた。
そこには「あけましておめでとう。
今年もよろしく。なかようね。
あ!それもう何回も言うとるね。
それでも集まって楽しもう会
1973年1月16日 午後5時30分から
政所集会にて」
と書かれた手書きの掲示物が貼られており、
それに視線を向けた駐在が、
「そうか!そこにかけたらええんか」と駐在所の黒電話のダイヤルを回した。
そんな駐在所の外では、菊之丞たちの車のナンバーを除き込む
黒い影がひとつあった。
その影の気配を敏感に察する様に、ツンが駐在所の入り口を開けて外に出ると、その影はサッと物影へと消えていった。
それでもなお、あたりの様子を伺っているツンに武田が
「まだ…山猟師の犬が残っていたのか…?」と声にならない
様な声で、近づいてくると、ツンはあたりの追跡を諦めた様子で、自分をじっと見つめる武田の前に座って視線を向けた。