業に従え
「はい、『金閣寺』」
パタリ、と机の上に置かれて、真衣央は瞬きした。しおりを見上げる。
「読み終わったから。貸すわ。そういう約束だったでしょう?」
「うん。うん、ありがとう! どうだった? 読んでみて」
「主人公が意味不明」
一刀両断の返答に、真衣央は笑ってしまう。
「でも、事前の取材とか、研究とかは、ものすごくしてあると思う。文学たる所以ね」
「へえ……。私、ちゃんと読めるかな」
しおりが知らないとばかりに肩を竦めるが、切り捨てる冷たさはなかった。初夏の柔らかい風が、開いた窓から入り込み、少女たちの髪を揺らしていく。華が真衣央に、後ろから抱きつく。
「文学仲間になったのね~」
「華」
「津島さんも本を読むの?」
「そこそこ?」
「好きな作品は」
「『笹まくら』」
しおりが軽く目を瞠る。
「丸谷才一、よね」
「そうそう、徴兵忌避の」
「驚いた」
華が明るく笑った。
「こんな見た目派手な女が読みそうにない?」
「そんな訳じゃないけど、渋いから」
真衣央にはついていけない話で、華としおりを交互に見るばかりだ。
「人の業は興味深いわ。あたし、そういうのを見るの好きなの」
「……良い趣味ね」
途端に凍てついた態度となったしおりが、言い捨てて踵を返す。和やかだった空気が突然に変化したので、真衣央は戸惑い、彼女の後姿を見送る。
「あちゃー。怒らせちゃったかあ」
「華。今の、わざとじゃないよね」
「うん。正直に言っただけ。あの子の家庭事情を揶揄した訳じゃないんだけどね」
そっか、と言って、真衣央は『金閣寺』の表紙に目を落とす。表紙には、赤い炎が躍っている。確か主人公が金閣寺に火を放つ、ということくらいは真衣央でも知っている。業と言えば業の極みのような行為だ。
「華、文学に詳しいのね。驚いた」
「あたしがどれだけ生きてると思ってるの? 丸谷才一だって三島由紀夫だって、ハイハイしてた頃から知ってるんだから」
それはそうだ、と真衣央は納得する。
しかし、せっかく友好的になりそうだったムードが壊れたのは、惜しかった。
しおりは足を止めた。児童公園のベンチに、今日も赤い髪の彼は腰掛けている。しおりに気づくと顔が明るくなる。通りすがりの犬に懐かれたような感覚がして、しおりは面映ゆくも嬉しい。だが、そんな感情はおくびにも出ないように努めて冷静な表情で近づく。
「貴方、お仕事は?」
「存在することが仕事だ」
「まあ、そうね。深いわね……」
暁の無邪気な答えに、しおりは拍子抜けする。これ以上の詮索は止める。誰にでも事情はある。自分にもあるように。
「座れよ」
暁が隣を指したので、しおりもベンチに腰掛けた。出逢って当初から、随分と打ち解けたものだ。自分も暁も、人に馴染みやすいほうではないだろうに。いや、それだから共鳴し合ったのだろうか。空の青に浮かぶ千切れ雲を数えながら考える。
「お兄さんと話は出来た?」
「……まだ。きっと、心配させているだろうが」
「何なら一緒に会いに行ってあげるから」
口に出してから、しおり自身、驚いた。そこまで馴れ合う積もりなど、全くなかったのに。暁も、目を丸くしている。金色の目が、とても綺麗だとしおりは思う。
「良いのか?」
拒絶されるかと思ったが、暁は寧ろ嬉しそうだ。言い出した手前、しおりは頷く。手を握られて再び驚いた。
「じゃあ、今から来てくれ。近くの宮にいるんだ」
「え? 宮?」
「うん。一緒に来てくれるんだろ?」
「う、うん……」
事態の展開が急だ。暁の兄は神職なのだろうか。しおりは戸惑いつつ、暁の無邪気に喜ぶ顔を眺めて、まあ良いかという気持ちになった。懐いてくれた犬のような暁に、心慰められていたのは確かだったのだ。




