その一歩
真衣央はしおりに声を掛けてみることにした。
ざわざわと、喧騒に溢れる教室の中、しおりのいる世界は閉じた世界に見える。彼女は今日の昼休みも、本を読んでいた。しおりのすぐ横の窓の外は、青い空が広がり、雲が遊んでいる。華の視線を感じる。しおりの世界をノックする。
「斉木さん、何の本を読んでるの?」
しおりが、真衣央を見上げた。無味乾燥な黒い瞳。眼鏡のレンズ超しの目は、やはり睫毛が長い。肌もきめ細やかで、色が白い。確かにこれは隠れた美少女だ。
「三島由紀夫の『金閣寺』」
予想の斜め上の答えに戸惑う。
「そうなんだ。私、文学は『こころ』くらいしか知らないから」
「ラノベでも読めば?」
しおりが、早くも会話を切り上げたがっている気配を感じる。
「ラノベは、破り捨てられちゃって……。低俗だって言われたの」
「……早瀬のお嬢様も大変ね」
「『金閣寺』、面白い?」
「まあね。主人公が訳わかんないところとか」
しつこくし過ぎても嫌われるだろう。
「読み終わったら、貸してくれる?」
「図書館のを借りれば良いじゃない」
そう言われると反論することができない。真衣央が言葉を探していると、しおりのほうから助け船を出してくれた。
「まあ、ハードカバーしかないから読みにくいだろうけど」
「貸してくれるの?」
「良いわよ」
真衣央の心が、むずむずするような喜びに満ちる。しおりとコンタクトが取れたことが、何より嬉しい。
五限目の古典の時間では、難解な古文を、しおりはすらすらと現代語訳して、才女振りを知らしめていた。そんなところも、真衣央には憧れと映った。
帰り道、華に話すと、良かったじゃない、と言ってくれた。
「友達になれそうね」
「うん!」
「でも、ああいう子は過敏だから、くれぐれも気をつけてね」
「傷つけないようにする」
「だけじゃなくてー。真衣央も傷があるんだから、そこを抉られないようにってこと。自衛も大事よ? まして友達になりたいのなら尚更」
「ああ、うん」
「でも良かったわ。真衣央に、ちゃんと人の友達ができるのなら」
その華の言い方が、いかにもしみじみしていたので、真衣央は感極まってしまった。
「華、大好き!」
飛びつくと、華がよろめき、二人はバランスを崩しそうになった。華が爆笑する。
「あたしも真衣央が好きよー。よしよし、両想いだ」
二人は笑いながら歩く。
その日、華は宮に寄り、真衣央と一緒に茶と菓子を味わった。
凍てついていた心が溶ける。
その氷塊は重く巨大で、まだ真衣央の中に根を下ろしている。
しかし確実に溶け出しつつあるのは、空や朔、満、華のお蔭だろう。
それだけではなく、真衣央が彼らの厚意に応えようと奮闘したからでもある。
左衛門の温もりしか知らなかった少女が、今、氷花から咲き匂う花になろうとしている。




