手を離れて
留美子と泰平は、もう完全に真衣央に関して投げていた。広い屋敷の中で、真衣央を気に掛けるのはすみ一人。
「またあの宮に出入りしてるんだって?」
「嫌だわ、私たちへの当てつけかしら」
不快そうに言うばかり。連れ帰らせようという気配すら微塵もない。
日曜の午後、時間を捻出して、すみは一人で宮を訪ねた。
気づいたのは境内を掃いていた満だった。彼女が真衣央の、左衛門に次ぐ味方だったと知っている。なので、優しく声を掛けた。
「当神社に何かご用でしょうか?」
「あ、その、真衣央お嬢さんが、いると聴いて……」
「おられますよ。少々お待ちください」
満はすみを客間に通して真衣央を呼びに行った。
真衣央は部屋で数学の宿題をしていた。小花散る藤色の小袖姿が可憐に映える。すみの来訪を告げると、顔を輝かせた。隣に座っていた左衛門も、そんな彼女を見上げる。桜の季節はもうすぐ終わり、楠が青々しくなり、藤棚の藤が咲く季節が間近である。
「お茶とお菓子、私が出しても良い?」
「構いませんよ。では厨に参りましょうか」
厨で薬缶を火にかけ、落雁を小皿に乗せる。
とろりとした翡翠色の茶を湯呑みに注いで、小皿と一緒に盆に載せて運んだ。
客間に姿を見せた真衣央を見て、すみは驚き、涙ぐんだ。
真衣央は健康そのもので、無論、殴られた痣なども見受けられない。先日はこの宮で神楽舞いの舞い手を務めたとも聴く。小袖は似合って可愛らしい。今の彼女の、毎日の充実を一見しただけで判ってしまい、すみは泣き崩れた。
「すみさん」
「真衣央様。すみません、ごめんなさい、ごめんなさい」
これまで留美子や泰平の勘気を恐れて、真衣央をきちんと庇ってやらなかったことに、今更ながら悔いが込み上げる。彼女は、そんな薄情な自分にさえ、感謝してくれていたというのに。肩にそ、と手が置かれる。顔を上げると、真衣央が微笑んでいた。
「すみさん、今まで、ありがとうございました。私、すみさんがいてくれたから、あの家で何とか生きて来られた。でも、もう大丈夫」
大丈夫、という言葉に一抹の不安を覚える。
「空たちがいてくれるから。私、今、幸せです」
すみの中の不安がささやかに鳴る。
「空さん、とは」
「僕だ」
空が客間に姿を現した。朔と満も一緒だ。
「貴方には言っておこうと思う。僕は天御中主神。真衣央を保護している。これからも、彼女と共に暮らす積もりだよ」
すみはぽかんとした顔で、突然現れた至高神を眺めた。白い単衣に青碧の羽織を引っ掛け、見目麗しい少年が自らを神と名乗る。しかし、それを確かに信じられるだけの説得力が、空の姿と声音にはあった。すみは空に縋りついた。そのはずみに、横に置いてあった盆を足にひっかけ、湯呑みの茶が揺らいだ。
「真衣央様を、お任せしてよろしいのですね?」
「うん。僕が彼女を守るから」
すみは、両手を擦り合わせ、お願い申し上げますと繰り返した。真衣央は堪らず、そんなすみに抱き着く。
「すみさん、今まで有り難うございました。もう、大丈夫だから」
すみはゆっくり真衣央を見て、泣き笑いの表情になる。
その後、朔たちが人数分の茶と落雁を持って来て、皆で甘味を楽しんだ。すみは真衣央の姿を目に焼き付けて、自分が守ってやれなかった子の、これからの幸を祈った。湿り気のある、甘い時間はしばらく続いた。




