ほぐれる糸
夕食は静かに終わりを迎え、真衣央は一旦、部屋に戻って着替えた。空の部屋の場所を予め朔たちに訊いたのだが、こう答えられた。
〝真衣央様の、お心が望むままに回廊を進まれてください。いずれは空様の居室に辿り着きます〟
真衣央は部屋を出て、空のことを心に念じた。思えば、自分から空の部屋に行くのは、これが初めてだ。今までは、空のほうから真衣央を訪ねて来てくれていた。回廊を歩いていると、どこからか桜の花びらが舞い込んで、真衣央の足元に儚く落ちた。冷たい夜風から身を守る為、丹前を羽織って正解だったと思う。空気は冷たいが、その分、清澄で春の柔らかさを感じる。自然と真衣央の足は進み、観音開きの戸の前に立っていた。コンコン、と叩いてみる。すると中から戸が開き、目を丸くした空が立っていた。白い単衣を一枚着ているきりで、寒くはないのだろうかと真衣央は思った。
「真衣央。どうしたの」
「空と話がしたくて」
「入って。寒いだろう」
空に招き入れられた室内は、程好い温もりがあり、芳香が漂っていた。吉彦の車内にいた時のものに似て非なるものだ。神とは皆、このようなのだろうか。十畳くらいの室内は、寝床や文机の他、数えるくらいしか調度品がない。真衣央の部屋のほうが賑やかなくらいな素っ気なさだ。
ふっかりした白い、絹と思しき座布団を進められる。空も同じ座布団に胡坐を掻き、促すように真衣央を見た。帰ってから感じていたよそよそしさはない。
「空。私、空に感謝してる」
「何だい、改まって」
「大事なことだから。空と逢わなかったら、私は、無事に生きてさえいなかったかもしれない。あの、地獄みたいな家から出られたのは、空が助けてくれたから。この国には、ううん、外国にも、私みたいな子供はたくさんいると思う。私は、とても恵まれていたの。だから、そのことに対する感謝を、きちんと伝えたかったし、空が私に何か思うところがあるのなら、それを聴きたかったの」
空は真衣央の声を静聴していた。真衣央が口を閉ざすと、その端正な面には、春風のような柔らかさが浮かんでいた。
「言霊の大切さだね」
「え?」
「そんな風に、思ったことを、きちんと相手に伝えるのは実はそう簡単じゃない。真衣央の真摯な気持ちは、卑屈になっていた僕の心を揺り動かした」
空が卑屈という言葉を使ったので、真衣央は驚いた。どう見ても、そんな言葉とは縁のない存在と感じたからだ。しかし考えてみれば、空は当初より、己の無力さを語っていた。それは、空の偽らざる弱音だったのかもしれない。そんな大事なことに、今になって気づく。空に感謝するのは良い。だが、真衣央まで空を〝神格化〟すれば、空はより孤独になってしまうのだ。
「吉彦が、羨ましかったんだ」
ぽつり、と雨垂れのような声。
「気兼ねなく真衣央を誘うことができる。僕がたじろいでいる垣根をひょいと飛び越える。昔から、彼はそうだった。位の高低は問題じゃない。何ができるかという意味で、僕は吉彦に引け目を感じている」
「空はすごいよ」
「うん、有り難う。真衣央は、もう大切な言霊を僕にくれていたのにね。勝手に拗ねてしまった。どれだけ生きても、簡単には成長しないものだね」
真衣央は空の手に手を置いた。
温もりがある。
思いよ伝われと念じる。空は微笑んだ。
その後、二人は他愛ない話をして、遅くまでともに過ごした。空は真衣央を部屋まで送ってくれ、おやすみを言い合い別れた。取るに足らない時間の大切さを真衣央は痛感したが、それは空も同じだったに違いない。




