嘔吐
真衣央は、同年代の子たちと比べて発育が悪い。もう小学五年生なのだが、まだ三年生に間違われることも多い。通学は、長袖、長ズボン。夏でもそれは変わらない。成績は良かった。それというのも、テストで悪い点数を取ったなら、両親による折檻が待ち受けているからだ。児童虐待は最近でこそ問題として取り沙汰されるようになったが、表に出るのは氷山の一角。多くは冷たい水中に沈んでいる。
真衣央の顔立ちは整っていたが、それが取り澄まして見えるという理由で、同級生の子供たちからは遠巻きに見られていた。真衣央は、学校で時折、倒れた。保健室に運ばれるたびに、身体の痣を隠すことが大変だった。一度、それを見た保健医が学校にそれを問題として申告したが、その保健医はすぐに異動になった。
新しい保健医は、表面上はにこやかな若い女性で、真衣央に深く踏み込まないことを態度で表していた。
真衣央には、どうでも良いことだった。
人の骨を連想させる桜の枝が中庭に寒々しい春の終わり、真衣央は近所にある小さなお宮に左衛門を連れて行った。閑散とした敷地には立派な楠があり、鳥の声が時折、聴こえる。真衣央が息を吐ける数少ない場所だ。
鳥居は朱塗りではなく石造りで、由緒正しい宮であることを記した石碑があった。もうすぐ春は終わり夏が来る。そして、秋、冬が。真衣央は拝殿に腰掛けて、ぼんやり楠と桜の大樹を眺めていた。ここの桜は枝垂桜だ。
左衛門を連れて家に戻る途中、女子高生が左衛門を構おうとした。左衛門は愛想よく尻尾を振り、撫でられるままにしている。真衣央は、思いがけなく彼女からクレープを貰った。家でまともな物を食べさせてもらえない真衣央にとって、それは頬が落ちそうなくらいに美味しかった。息を殺して、ずっと生きて行かなくてはならないことが、真衣央には苦痛で堪らず、家で口に出来るほんの僅かな食べ物も、精神的ストレスから嘔吐してしまうことが多い。クレープの生クリームも、後から胸のむかつきを誘発したが、何とか我慢した。
真衣央の部屋は早瀬家の広い屋敷内の東北に位置し、日当たりが悪い。左衛門を部屋に上げることに親は良い顔をしないが、犬憑きの娘と吐き捨て、放置している。
折檻で庭に出されない夜は、左衛門と一緒の布団で寝た。
風呂は、ぬるま湯になった頃にようやく入ることを許されている。その為、真衣央は風邪をひくことが多く、より一層、両親から軟弱者との誹りを受ける悪循環があった。両親はとにかく、真衣央が自分たちを煩わせることを嫌った。その癖、外では優等生であるように強いる親だった。
広大な屋敷の中、四畳半の部屋には、必要最低限な物しか置かれず、女の子らしい調度や玩具もない。真衣央はそれが自然なのだと思っていた。
小学校六年になって、何の気紛れか、両親が進級の祝いと称してレストランに連れて行ってくれた。オリーブオイルがふんだんに使われたイタリアンで、真衣央は普段の食事との差異から、吐き気を覚え、レストランのトイレに駆け込んで食べた料理を戻した。
両親は激怒した。帰宅してから、真衣央の髪を引っ掴んで何回か頬を打擲し、庭に出した。真衣央はふらふらで、庭の地面に腹ばいになる。左衛門が心配そうに寄り添ってくれるのが救いだ。桜の樹は人骨めいて、花という衣装を脱いだ後の侘しさを露わにしている。気づけば夜も遅くになっていた。目を開けた真衣央は起き上がった。いつの間にか寝ていたらしい。左衛門が気遣わし気にきゅうん、と鳴く。真衣央はその首に腕を回した。