甕に清水
それから、真衣央は一度家に戻り、支度をして宮に戻った。もう二度と、家に帰らない覚悟だ。夕方になると、檜の丸い湯舟に浸かる。戻って来たと思った。ここが居場所と考えて良いのだと。藤紫の小袖を着て、空たちの待つ部屋に向かう。宴の用意が出来ていた。山菜の天婦羅、新鮮な刺身、吸い物、筍の炊き込みご飯。真衣央はそれらの味を噛み締めながら、空の様子を垣間見る。ゆら、と揺れる明かりが照らす空の顔立ちはとても端正で、大人びている。なぜ、空たちの肉体年齢が上がったのだろう。まるで自分に合わせたようだと考えるのは、おこがましいだろうか。その内、空が真衣央の視線に気づいた。
「どうしたの?」
「空たちが、年齢を重ねたように見えるから」
「ああ、それはね、今は真衣央に合わせているんだよ。前みたいに子供のままだと、真衣央もやりにくいかと思って」
年齢を自在に操れるのだ。真衣央の推測通りに、真衣央に合わせてくれた。真衣央にも得心が行った。
食後、濡れ縁に座り、左衛門を撫でながら星空を見ていた。香を焚いているのだろうか。芳しい匂いがする。甘くて優しい。加えて、気品がある。柔らかな微風が真衣央の髪を揺らした。部屋の内に戻る。豪奢でありながら凛然とした品がある調度品が置かれている。螺鈿細工や蒔絵など、職人の粋を凝らした逸品揃いだ。今まで育った家の部屋とは比べるべくもない。
空に会いたいな、と唐突に思った。
それは真衣央にも予想外の希求で、前のように、部屋に招いてくれないだろうかと期待する。しかし、真衣央ももう年頃だ。おいそれと異性の横で眠るのは、無防備過ぎる。年齢を重ねると動き辛くなることもある。
だから、空の声が聴こえた時は幻聴かと思った。
「真衣央。ちょっと、来てくれる?」
部屋の仕切りに下がる布の向こうから空が呼んだ。嬉しくて、感極まる自分の感情を、真衣央は持て余す。恩人に好意を抱くのは自然な流れかもしれないが。これは少し大袈裟だと首を傾げる。真衣央が歩くと、左衛門も起き上がってついて来た。
案内された先には、大きな青銅の甕に一杯の清水があった。
「これは……?」
「僕たちの神力を溜めたもの。五年かけて、ようやくここまで来た。これで僕にも、真衣央を多少なり、守ることができる」
甕の水を覗き込むと、星の光と真衣央の顔が映し出される。ずっとこんな風に準備してくれたのだろうか。
「触れてごらん」
促され、清水にそっと指先を浸す。すると指先から、清涼な感覚が真衣央の身体の隅々まで浸透した。どんな汚濁も払いのけるような、神聖な力だ。真衣央は、空と一緒に、しばらくの間、甕の傍に佇んでいた。言葉はなかったが、穏やかで優しい時間だった。