後日談
「あなたに責を負わせるつもりはありませんわ」
目の前に座る少女は驚いたように、その大きな瞳を見開いた。
明るい茶の髪は今日はきちんと結い上げられて、印象的だった軽やかな巻き毛は一本の隙もない。震えるまつげの奥にあるローズベリーの瞳は、見開いたあとすぐにぎゅっと隠された。膝の上で硬く握り締められた指が震えている。
そんな様子も、雨濡れた仔猫のように愛らしかった。
少女の名前はハンナ・モールズリー。モールズリー子爵家の子女で、ジークフリートとは乳兄妹にあたる。
彼とわたしの、婚約破棄の原因となった娘だった。
* *
かつて、……いや、ほんの一週間前までわたしと彼は婚約者同士だった。その関係はもう、十数年にも及ぶ。
それがどうして今になって婚約を破棄することになったのかといえば、彼がほかの女性にうつつを抜かしたからだ。とはいえ、彼のせいだけにしたのでは過ぎた話だ。彼の心繋ぎ止めておかなかった、彼の寂しさや心細さに寄り添えなかったのは、他でもないわたしの責である。
わたしの歳が片手の指の数を超える頃には、彼、ジークフリート・フォン・ラウィーニア王子殿下と、由緒ある公爵家のひとつであるキャペル家の嫡女、わたしティエラ・キャペルは将来の婚姻関係を約束されていた。
同い年のわたしと彼は、仲睦まじい幼少時代を過ごした。
基礎を学ぶうちはもっぱら互いがライバルであったし、つまらない話の先生の授業を一緒にすっぽかしたこともあった。
こっそり城を抜け出して、城下を探検したことも。
『花畑、きれいですけれど、くもっていますね』
『うん。でも……』
『ジークさま?』
『太陽はここにあるよ』
いつかの曇り空の下、白詰草の花畑で、ジークはわたしの髪を一房手に取り「太陽みたいだ」と笑ったのだ。わたしにはその瞳こそが、澄んだ青空のように思えたけれど。
そうやってわたしたちは、互いを知った。
転機は三年前だった。
彼の実父であり前国王、マリウス・フォン・ラウィーニア陛下が胸に病を抱え病床に伏した。皆が予期せぬ混乱に喘ぐ中、ジークフリートは王太子として国の先頭に立たねばならなくなった。
次から次に積み重なっていく政務資料、混乱に乗じて私腹を肥やす愚かな家臣たち。弟である第二王子殿下はまだ幼く、彼の政務を手助けできるような状況にはなかった。まだ少年とも呼べる年の彼は、誰よりも先に大人になることを強いられた。
そんな疲労を重ねたジークの心を癒したのは、栗色の巻毛が魅力的な彼の乳兄妹だった。
ハンナとわたしたちは、たいした交流があったわけではない。
彼女の母親、つまりはジークの乳母であるモールズリー子爵夫人は、気は弱いけれどとても優しい方で彼もたいそう夫人に懐いていた。
ハンナに会ったのは、夫人から紹介された幼い頃の一度きりだったように思う。
けれどどういういきさつか、ジークフリートとハンナは再び出会ってしまった。噂では、王立図書館にて、過労で顔色の悪いジークにハンナが声をかけたとか。
本当に彼女は、分け隔てなく優しかっただけなのだ。ただ一度、幼い頃に顔を合わせただけの王子に、畏れも打算なく手を差し伸べられるくらいに。
いっそのこと、王太子への下心や誰かの陰謀があったなら。
ジークには心の支えが必要で、ハンナはそんなジークを心配する一心だった。
彼らは十年もの時を経て、仲を深め始めた。
家柄はわたしと比べるべくもない。子爵令嬢がかのキャペル家の嫡女たるわたしと肩を並べることなど、到底不可能なことだ。彼女の生家では、王太子に対し毒になることもないけれど、薬になることもない。
けれど彼女は愛らしかった。
花が咲くような笑顔に、ローズベリーの大きな瞳。あの子の心根の美しさは本物で、ジークフリートの疲れきった心を癒したことだろう。
一方わたしはといえば、そう遠くないうちに訪れるであろう、彼の即位式とわたしたちの結婚式の準備に追われる日々だった。
ジークと過ごす時間は、ときおり行われる公式行事でのわずかな時間のみ。この情勢のために王族が参加するような夜会はほとんどなかったし、彼とわたしはそれぞれの基盤を作るための場所も時間も異なっていた。
彼には彼の、わたしにはわたしのやるべきことがあった。なにか不和があったわけでもない。けれどわずかなすれ違いが、わたしと彼女の差を決定的なものにした。
互いに共有する時間が取れない中で、ジークの傍で笑うハンナを幾度か目にした。その頻度が増すにつれて、わたしたちに関する噂話が現実味を帯びてきたとさらなる噂を呼ぶのも、もはや仕方のないことだったのだろう。
ジークが決定的な不義理をしないだろうことは理解していた。
二人が惹かれ合ったとして、結ばれない現実を理解しているだろうということも。
けれども噂話は尾ひれをつけて止まることを知らず、社交界ではわたしの耳に直接入るほどになっていた。
それに憤慨したのは父だった。
「本当なのか。ティエラ」
「わたしには、わかりかねますわ。お父様」
わたしは是とも否とも申さなかった。
けれどこうなった以上、わたしたちの道が分たれることは決まったようなもの。
わたしを溺愛している父は、彼の不義理を赦さない。
加えて他国との関係も、その一助となった。さまざまな要因が背景に積み重なっていたことを、わたしも、きっと彼も気づいている。
彼の移り気。わたしの至らなさ。国王陛下の病状。隣国の情勢。偶然と必然が折り重なっていた。あの子のことがなくてももしかしたらーー、なんてことは、考えてももはや仕方のないこと。
しばらくして、キャペル公爵家は王家とのいくつかの決め事の下に、公女と王子の婚約を解消することとした。
* *
「どうしてですか……?」
キャペル公爵家の応接室で、わたしとハンナは二人きりで向かい合っていた。
彼女の戸惑いはもっともで、こんなときに呼び出されればどんなことを言われるのかと思うだろう。その上で責任を追求しないと言われたのだ。拍子抜けするというよりも、疑問が先にくるはず。
ハンナの問いに、わたしは目を伏せて答えた。
「あの方があなたになびかない義務があったように、わたくしにもあの方を支える義務があったのです。けれど、彼は孤独を、わたくしは忙しさを理由にそれらを放棄した。わたくしたちが為すべきことを為さなかったのに、あなたばかりを責めるのでは、筋が通らないでしょう? それに、婚約者の立場を離れたわたくしには、もう、関係のないことなのです」
「でも私、いけないことをしているんじゃないかと、わかっていたんです。けれど、あの方をどうしても放っておけなかった……!」
「ええ」
「でも、それをしていいのは、私じゃなかったのでしょう?」
「……そうね」
「私は過ちを犯したのだと、どうして仰らないのですか!?」
ハンナが身を乗り出す。彼女はまるでわたしに罰してほしいかのように、必死に訴えていた。けれど、わたしにはもう、彼女に強い言葉を向けることはできなかったのだ。
噂を知ったとき、わたしはもちろん憤慨した。
どんな悪女が彼を掠め取っていこうというのかと、調べたこともある。
けれども話を聞くうちに気づいてしまった。ハンナがジークに向けた愛は本物なのだろうと。
もちろん、だからといって片付くことではない。しかし、わたしは納得してしまったのだ。同時に悟った。わたしたちの関係はもう二度と戻らない。
そしてわたしは、わたしの心を守る方向へと舵を切ってしまった。
「だって……」
わたしの言葉にハンナは素早く耳をすました。その声色にか、心配そうに覗き込む。
「ティエラ様……?」
「だって、無駄だったなんて言われたくないんだもの。他の誰が言ったとしても、自分だけは否定したくないの。あなたの愛を否定したら、そんな気分になるじゃない」
言い訳がましい言葉をつらつらと並べる。婚約が白紙になったからといって、全く関係ないことなどあるわけがない。壊された関係はわたしたち三人だけの問題ではなく、すでに前国王陛下の崩御と合わせて社交界は混乱の渦中にある。
けれども、たとえ疲れ切ったジークフリートに、ハンナが最初に向けた感情が『心配』のただひとつだったとしても。わたしとジークとの関係も、『義務』と『同情』から始まった。彼女に惹かれた理由を、わたしは否定できなかった。
父らによって契約が破棄されるだろうことを悟ってから、何度も頭によぎったのだ。わたしとジークとが過ごした時間のことを。全てが要らないものだったのだとは思いたくなかった。
自分のためだ。ハンナを庇おうだなんて意図はない。だからあなたのせいではないとは言わなかった。きっかけは確かに彼女である。
わたしが責を課さずとも、社交界にハンナの居場所はないだろう。すでに大きな噂話は、現実になって弾けた後だ。
だから家や友人のつてで彼女自身や子爵家を陥れようとは思わないし、そんなことをする意味もなかった。
ただわたしは、幼いころジークの隣で笑った自分を、あの日彼の手を取った自分を守りたいだけ。意味があると思いたいだけ。
彼女の優しさや愛を否定してしまったら、あの日のわたしも一緒にーー。
「ごめんなさい。私、あの方が好きでした」
ハンナの言葉に引き戻される。彼女はおそらく、わたしに対しても精一杯誠実であろうとしている。
「ええ。わたくしも」
「でも私、それと同じくらいに貴女と友だちになれたらよかったと思うんです。きっと、優しいひとだと思うから」
「ーー本当にばかなひと」
「……ごめんなさい」
「わたくしも愛していたわ。それにあの方も……同じくらいばかなおひとだったの」
「ティエラ様……」
寂しがりやで気弱で、けれども真摯な人だった。
最後に見たジークフリートの青い眼と、わたしを見つめるハンナの紅の眼は、似た光を持っている。
わたしにはそれが、愛おしいように思えた。
「わたくし、この国を離れるわ。嫁ぎ先が決まったの。隣の国の尊い御方。かの一族は代々愛妻家で有名よ」
だからあなたとも、もうこれっきり。
彼女もすでに噂で知っていたのだろう。わたしが笑えば、ハンナは頷く代わりにわずかに目を伏せた。
婚約が解消されて、父から呼び出されたわたしは次の結婚相手を告げられた。隣国の王はわたしより幾分か歳が上であるが、病弱だった王妃に先立たれ彼女との間にも子はない。かの王は、婚約解消したばかりで半ば傷物のようなわたしを拾ってくださるらしい。この上ない話である。
国を離れるまで、もう幾許もない。
ハンナはどうなるのだろう。彼女の母親が国王の乳母であったことは家の力にはなるだろうが、モールズリー夫人はこの騒動に心を痛めて王宮を後にしている。社交界で居場所を見つけるのも難しいはず。
ハンナがそんな自身の将来について知らないはずがない。
しあわせにおなりなさい、とは、とうてい言えなかった。
彼ーージークフリートについては、もう述べることはない。
浮かぶのは最後に会ったあの日のことで、どうか、と愚かな願いを祈るばかりである。
* * * * *
(まさかこんなに早く逝ってしまうとは思わなかった。)
隣国の中枢へ向かう馬車に揺られながら、わたしは外を眺めた。すでに馬車はラウィーニア王国の関門を通過し、城下町を走っている。
久しぶりの祖国だ。あれから二十年の時が経った。この街もずいぶんと開発が進んで、あの花畑もすでにないかもしれない。
帰ってきた。
王国に滞在する間は、夫とともに生家のキャペル公爵家で世話になる予定である。
明日、ジークフリートの葬儀が行われる。
薬で意識は朦朧としていたそうだが、苦しまずに逝けたと聞いた。生前は弟に厳しく、甥にはたいそう甘かったそうだ。弟君はわたしの記憶の中では小さな第二王子殿下だったが、いつかの日外交で我が国に来国したときには立派に成長していて驚いた。今彼はジークフリートの後を継いで、ラウィーニアの王である。
それから、ハンナ・モールズリー。彼女はわたしが嫁いで数年が経過した頃、女家庭教師として働き始めたと風の噂で聞いた。それ以上の話は聞こえてこなかったけれど、元気であればいいと思う。本心である。
*
「ーー覚えていてくれたのですね」
あの一日を。
葬儀当日、棺桶を覗き込んで、最初に目に入った花はこの場にそぐわないものだった。これが隣にあるということは、彼がそれを願ったのだろう。参列者たちはきっと、彼の寝顔の横に置かれた花に疑問を待ったに違いない。
けれど、わたしだけは知っている。
小さな蓮華の花束は、夕日に赤く染まった白詰草だ。
柄にもなくはしゃいだ声を上げたわたしが、ジークフリートの瞳に映っていた。
この人は今際の際で、あの情景を見たのだろうか。
あの日わたしが浅はかにも願ったように、二人で過ごした時間は、彼の心に深く傷をつけたらしい。
わたしの中でも、古傷になったはずのそれがじくじくと痛み出した。
彼の旅立ちを見送った日。わたしは、あの愚かしい小さな復讐が、実っていたことを知ったのだ。