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本編

「このままどこかに逃げようか」



 真っ直ぐに問いかけられた言葉は否、一聞にして苦し紛れの戯言であるとわかる。


 かつてない様相に成ってしまった宮をそのままに逃げることなど、為政者たる自分たちには到底赦されることではなかったからだ。

 通りかかる者たちは皆、沈鬱な表情でひとつの部屋へと向かっていく。本当は彼もその場所へ行かなければならないのに、怯えたようにそちらを見て、それきりだ。

 彼が溢したのは随分と身勝手な言葉で、とうてい聞くことはできない。そう思うのに、わたしにはそんな彼をこのまま捨て置くこともできなかった。



「ええ、そうですね。逃げてしまいましょうか」



 肯定せざるを得なかったのは、そうでなくては目の前の彼はきっと心を壊してしまうだろうと思ったのだ。言いながら取った彼の掌は、労働など一切知らぬといった滑らかなもので、しかし恐ろしいほどの冷たさであった。

 手を引けば、彼は引かれるままに歩み出した。

 足を向けた場所を知っている者はこの宮でもごくわずかだ。彼とわたしと、それから何人がここを知っているだろうか。

 薄暗い隠し通路は迷宮のように入り組んでいるが、彼にとっては遊び場のようなもの。彼ほどこの場所を熟知していないわたしは、幾度か振り返って確認を取りながら狭い通路を抜けていった。




 そうして外に出て見上げた空には、厚い雲が覆いかぶさっている。


 幼い頃は、こうして二人街に出ては城下を歩き回った。

 今回も簡素ではあるが平民とは言いがたい服を隠すために、それぞれショールとコートを引っ掛けてきた。普段は厳重な城の警備も、今日ばかりは皆別のことに気を取られている。しかし、それもわずかな時間で、すぐに誰かが彼がどこにもいないことに気づくだろう。「逃げる」とは言いながら、じきに戻らなければいけない。

 城下も不穏な空気ではあるが、城の中の騒ぎは広まっては居ないらしい。店が開き、人が行き交い、角張っていない彼らの雰囲気に繋いだ手がだんだんと熱を取り戻していく。


「なにか口になさいますか?」


 並んだ露店からは焼かれた肉の匂いや砂糖を焦がした甘い匂いが漂っている。きっと彼は昨夜からなにも口にしてはいないはずだ。腹が減っているだろうに彼は力なく首を振った。

 確かにこんなときに露店で買い食いして腹を壊すわけには行くまい。



「おじさま。ベリーパイを一つとお茶を二杯いただける? そうね、片方はブランデーをひとさじ垂らして」


 踏み入れたパン屋はカフェを兼ねていて、店の隅にテーブルと椅子が備えられている。しかしここ最近の不況からか、パンの売れ行きは好調とは言い難いようである。

 パン屋の店主は、売れ残ったパンを一瞥したわたしに苦笑いしながらお茶を注いだ。


「お嬢ちゃんたち。あんまりいい身なりで歩き回るんじゃねえぞ。いいカモだ」

「気をつけるわ。ありがとう、おじさま」

「パイ、もうひとつ付けといてやる。それ食ったら、早く帰るんだな。王様もやべえらしいし、ここら辺の治安も近頃はよくねえからな」

「まあ、ありがとう。美味しそうね」


 声を潜めた店主の言葉にちらりと彼の方を伺ったが、幸いにも彼は店内を見渡していて聞いていなかったようだ。心の中で安堵の息を吐いて、トレーを受け取る。

 パイの表面はつやつやしていて、包まれた果実の甘酸っぱい香りが空腹を刺激した。

 おまけのお礼だけをして、わたしたちは二人、誰もいない店のテーブルに着いた。


「ベリーとレモン、どちらがよろしいですか?」

「俺は食欲が……」

「わたしにふたつとも食べさせるおつもりで?」

「……ベリーを」


 半ば無理やりにパイを手渡して、自分は淹れたての紅茶に口をつける。

 目前に座る彼を小さく盗み見れば、どことなくほっとした表情をしていた。ブランデー入りの紅茶も彼の不安に固まった心をほぐしてくれるはずだ。

 口にしたレモンパイは甘くて酸っぱくて、そして少しだけ苦かった。


 わたしたちは馬鹿なことをしている。


 この場所で束の間の安息に気を緩めても、彼もわたしもあの場所に戻らなくてはいけない。そして戻ったときから、彼にとってあそこは気を休めるところではなくなるだろうことは誰よりも彼自身が理解しているはずだ。





 街を歩く。

 通りに面した公園では子守の若い娘が乳母車を押しながら歌っていた。乳母車の中で赤子は穏やかに寝息を立てているけれど、娘は楽しげに歌い続けている。この国の民なら誰でも知っている子守唄だった。

 その歌声に彼は足を止めて、その視線を彼女へと向ける。


「俺にも歌ってくれたな。物語も聴かせてくれた」

「ええ。それで、四阿で二人で寝入ってしまってたいそう叱られましたわ」

「そうだった」


 ようやく彼はその昏かった顔に笑顔をのぞかせた。

 彼が笑った顔を見た記憶はもう遠くの彼方にあって、わたしは今の状況がどのようであれ、彼の笑みを見られたことが嬉しかった。

 そして次には、後悔の念に襲われる。

 どうしてもっと早くに、こうしておかなかったのだろう。あの一言をもっと早くに口にしていたならば、わたしはあなたの手を取って今日のように逃げ出した。そして小さな家出の終わりには、「わたしたちなら大丈夫」と子守唄を歌うように囁いたのに。


 本当は、思い出話などわたしたちにとってもうなんの意味もない。壊したのは他でもない、わたしと彼なのだ。



 国の者なら誰でも知っているような歌さえ知らなかった彼に、口ずさんで教えてやったのはわたしだった。

 義務から始まって、同情を抱き、最後には愛した。過ごした日々は穏やかなばかりではなかったけれど、思い返せばどれも愛おしく胸を締めつける。

 けれどその愛情が伝わらなかったのも、悲しいけれど仕方のないことだった。彼がつらいときに寄り添って心の支えとなったのは、わたしではなかった。それだけだ。


 脳裏にちらつくのは、ふわりと揺れる栗色の巻毛。軽やかな明るい笑い声。

 

 振り払うように首を振る。簡素に編んだ金髪がぱたんと重みを持って揺れた。昔彼に褒められて以来、手入れを欠かしたことはない。今も滑らかな手触りは、幼い頃のまま。


(……あの頃に、戻りたいのかしら)


 お忍びで城下を巡ったあの頃に、あの記憶が薄れる前に。

 わたしは、彼もあの子も憎いわけではないのだ。

 ただわたしを含め皆、少しずつ間違えて、その結果として今があるだけ。

 わたしたちの白紙になった関係も、彼らの精算しなければならないこの数年も、深く傷になって残るだろう。




「陛下、危ないって噂だよ」


 住人の世間話に彼が身を固くしたのはそのときだった。

 ゆっくりとした足取りで通り過ぎようとしている彼らは、動きを止めたわたしたちの様子など気にも留めずに話し続けている。


「そういう話が出てから随分経つじゃない。案外長生きしてくださるかもじゃないの」

「まあでも、王子殿下だって優秀だ。今は街もこんなんだが、また立て直してくださるさ」

「そうねえ。治安、はやく上向くといいけど」


 彼らはわたしたちの傍らを追い越して、「ああ、心配だね」とか「でもーー様がなんとかしてくれる」とか好き勝手に述べながら行ってしまった。

 彼らが不穏な噂を聞きながら、街の雰囲気に不安を抱きながら、さほどこの国の未来について心配していないのは、王太子殿下が確かに優秀な方であるからだ。



 国王陛下がはじめに病に倒れてから、三年の月日が経った。


 王太子殿下が深く(まつりごと)に関わるようになったのもそれからだ。

 王が病床に伏したことによって傾いた治世を、彼は緩やかに立て直していった。今は国王の代理としてほとんどの政務を担っている。

 彼の活躍は城下にも届き、次期国王の治世も安泰だとまことしやかに囁かれた。



「行きましょうか」


 歩き出す気配のない彼の手を取って、わたしはある場所へと向かった。何も言わずについてくる彼が何を考えているのか、わたしにはもうわからない。

 足を止めた川縁の花畑は思い出の場所だった。

 花畑に目を向けたわたしは、思わず声を上げて彼を呼んだ。


「ジークさま、ご覧になってくださいな!」


 厚い雲はいつのまにか晴れていた。そして沈む夕日が、白詰草の花畑を茜色に染め上げている。


「なんて美しいんでしょう! ほら、白詰草がまるで蓮華草のようですわ。川面だってほら、……あ、」


 振り返ると、驚いたように目を見開いて固まっている彼がいた。その瞳には、目の前に広がる花畑ではなくわたしの顔が映っている。

 場所の懐かしさと目の前の美しい光景に、我を忘れてはしゃぎすぎた。


「ーー申し訳ありません」

「いや、きみのそのような声を聴いたのは久しぶりだな」

「……そうでしょうか」

「そうだよ」


 そうかもしれない。ここ3年ほどは、互いに忙しくて時間を合わせてゆっくり話し合うこともなかった。その上でいろいろなことが積み重なったものだから、わたしたちの間には高い壁が築かれてしまったのだ。


「あら」


 何気なく目を落とした足元に、目を引かれるものがあった。わたしはそれをそっと摘み取る。


「差し上げますわ」

「……これを?」


 わたしが差し出したのは先程自分で喜んだ白詰草の花ではなく、葉の方だった。しかしそれは足元に蔓延るものとは異なり四枚の葉を携えている。

 幸せを運ぶ四つ葉のクローバー。

 けれど、差し出されたそれに彼が怪訝な眼を向けているのも仕方のないことだ。このような、まじないや民の間の伝承のようなものに彼は昔から明るくない。


「おまじないのようなものですけれど、四つ葉のクローバーは幸福をもたらすそうですわ。ジークさまがお持ちになって」


 彼はわたしの言葉に、何かを思い出したように「ああ」と呟く。

 そのとき頭の中に浮かんだのが何なのかーー誰なのかなんて、考えたくもない。クローバーについて誰かさんが彼に、わたしよりも先に教えていたのだろう、なんてことは。


 クローバーの葉が風に揺れて、どれくらいが経っただろうか。彼はそれをじっと見つめたまま、暗い語気で言った。


「受け取れない。幸せになるべきなのは、何よりきみだったのに」

「もう。わたしが幸せになれないような言い方はやめてください。……わかってくださるでしょう? わたしが、あなたに幸せになってほしいのです」


 努めて明るい声を出す。

 高貴な蒼の瞳はわたしに向けられることはなく、耳にした言葉を噛みしめるように伏せられる。そして、次にその瞼が開いたとき、彼の中に今まであった迷いや哀しみは消えていた。

 クローバーに伸ばされた指は、もう冷たくはなかった。


「ティエラ。俺のわがままに付き合わせたな」

「いいえ、ジークさま。これでよかったのです」


 きっとこの先、今日のような日は訪れないだろう。

 彼がなんのしがらみもなく自由に市井を巡ることも、その隣をわたしが歩くことも。

 その最後の日を彼と過ごせたことに、わたしは昏い喜びを覚えていた。


「……きみときみの家に何かあれば、必ず便宜を図ると約束しよう」

「ご冗談を、殿下。……いいえ、陛下。わたくし、王家の後ろ盾・叡智のキャペルとも謳われたキャペル公爵家の嫡女ですわ。困ることなど、何ひとつございませんのよ。……我ら、道分かつとも、互いの旅路に幸多からんことを」


 彼の左手の甲に額を押し当てる。

 それがわたしティエラが彼、ジークフリートに向けた、精一杯の親愛だった。


「さ、そろそろ戻りましょうか。今ごろ、大変な騒ぎになっていることでしょうから」


 もう手は繋がなかった。

 わたしは半歩後ろに下がって、ジークフリートに付いていく。



 ーーさよなら、わたしのいとしいひと。



 ジークフリートの背中に音もなく呟く。

 どうか、どうか。

 あなたが険しい道のりを進みますようにと願うのは、いけないことかしら。きっとそれは愚かで浅はかな願いなのでしょうね。それでも、この祈りをやめさせる権利など、誰にもありはしない。


 幸せになってほしいのも紛れもない本心で、しかし、苦しんでと願う、愚かなわたしは確かに居るのだ。


 この先のジークフリートの物語に、わたしは存在しない。それはきっとあの子も同じ。

 どんな物語だとしても、ジークフリートにとって、今日この日が何より印象深い日であればいい。あの子と過ごした時間より、幼い頃のわたしたちより。

 どうであれ、彼が今日のことを忘れることはないのだ。実父の命日であるこの日を、忘れられるわけがない。つらくて、苦しくて、逃げ出したこの日に、隣にいたのは誰だったのか、何に安堵したのか、どうか忘れないで。

 これから先、つらいこともしあわせなことも、一番に思い出すのは今日であって欲しかった。

 そして酸いも甘いも全てを呑み込んで、彼は進んでいけるだろう。そういうふうに、わたしも彼も生きてきた。


 さあ、あなたは今日という日を忘れぬまま、歩み続けてくださいな。

 わたしの、最愛だったひと。





 明朝、ラウィーニア王国では、国王陛下の崩御とともに新たな国王の誕生が報じられることとなる。


 若き国王、ジークフリート・フォン・ラウィーニアは、前国王の崩御直前、長い間婚約関係にあった公爵令嬢との関係を白紙に戻し、たった一人で民衆の前に現れた。

 喪が明けたのちの即位式も、簡素に行われた。



 ジークフリートは前国王の生前から国政に従事し、御歳三十九の若さで崩御するまで、安定した治世を築き上げた。しかし、その地位にいた二十年間、彼は誰とも婚姻を結ぶことはなく、皇后の座は空席だったという。

 その理由について、婚約が白紙になった令嬢のことを忘れられなかったからとも、身分違いの女性を囲っていたからとも、はたまた男色家だったのではとも、さまざまな憶測が飛び交ったが、真実は知るところではない。

 彼は父王と同じ病に倒れ、数年の闘病ののち夕暮れの美しい時間に息を引き取った。そのとき彼が欲したのは、可愛がっていた甥の顔を見ることでも弟である次期王へ遺言を告げることでもなく、ただ一輪の蓮華草を見たいと、そう言った。



 かの王の葬儀には周辺諸国の王族も参列した。

 その棺の、副葬品のひとつに誰もが首を傾げる中で、ひとりだけ、隣国の王妃だけが棺に入れられた小さな花束に驚くことなく瞼を伏せた。

 棺には王の旅路を彩るには簡素すぎるであろう蓮華の花が、彼の安らかな寝顔の横に添えられていた。


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