初恋はきらきら星にのせて
「あー、今日もダメかあ……」
放課後、日向心春は教室の自分の机に突っ伏していた。
「頑張れ、心春」
「それ言うなら、千華ちゃんが入ってよ!」
「だって私、ピアノなんて弾けないもん」
あっけらかんと答えるのは、心春の親友・沢田千華。
「ピアノ弾けなくてもいいから」
「私は普段は漫研の活動があるからね。ポスター作り手伝ってあげてるんだから文句言わないの」
心春と千華は清修高校一年生。
心春は、好きなピアノでクラブ活動をしたいと一念発起して、『ピアノ同好会』を立ち上げるべくこの秋から学校中を回って宣伝している。
しかし、今時、高校生でピアノを習っている生徒は少なく、掲示板にポスターを貼って宣伝しても手応えははかばかしくない。
「いくら待ってても入会希望者なんてこないわよ。今日はもう帰ろう」
そう言って、千華が席を立とうとしたときだった。
「すんませーん」
その声に振り向くと、教室の後方のドアの所にやけに背の高い男子が立っていた。
「あんたがピアノ同好会の日向さん?」
「え?! もしかして入会希望?!」
心春の目が輝いた。
「一年一組の日向心春、ピアノ同好会会長です。あなたは?」
「いや。まだ入るかどうか決めたわけじゃないんだけど」
彼はポリポリと頭をかく。
「あなた、五組で野球部員の桜井君でしょ」
その横から千華が口を挟んだ。
「俺のこと知ってんの?」
「そりゃあ……」
心春はいても立ってもいられない風に、二人の会話に割って入った。
「桜井君て言うの? ピアノは弾ける?」
「昔、習ってた。バイエルでやめたけど」
「音楽は好き?」
「髭ダンとかなら聴く」
「充分だわ!」
心春は言った。
「まだ正式なクラブとしては成立してないの。あ、桜井君! 新しいポスター貼るの手伝ってくれない?」
「新しいポスター?」
「そう。これよ」
心春は手元にある千華が描いたポスターをずずいと前へ押し出して見せた。
「ちょっと心春! 桜井君は野球部のピッチャーで四番プレイヤーなのよ。まだ入るって言ってるわけでもないし、無理強いしちゃダメよ」
「ああ、野球部なら秋季大会も終わって比較的余裕があるんだ。ポスター貼るくらい手伝うよ」
「ありがとう!」
・
・
・
「これでいい?」
「うん。それにしても桜井君って背が高いのね」
「野球部じゃこのくらい普通だよ」
職員室前の一般掲示板前で二人は会話している。
156㎝の身長の心春では手の届きにくい場所にも楽々と桜井はポスターを貼ってくれた。
「早速、明日から活動よ! 桜井君、明日放課後、音楽鑑賞室に来てくれる? あそこにはステレオと古いアップライトだけどピアノがあるから」
「わかった」
そうして、心春と桜井、ふたりだけの『ピアノ同好会』がスタートしたのだった。
◇◆◇
「すげえ!」
翌日の放課後。
音楽鑑賞室のピアノの傍らで、桜井が感嘆の声をあげた。
「お粗末様」
「何言ってんだよ。こんなすげえ『Pretender』……YouTubeでも聴いたことねえよ」
「それほどでも」
えへへと心春の顔がほころぶ。
髭ダン好きの桜井の為に、心春は髭ダンのヒット曲『Pretender』を即興でピアノ編曲し、演奏したのだ。
桜井の言うとおり、クラシックで培われた揺るぎないテクニックと、心春の持って生まれた即興性でそれは見事なピアノ演奏だった。
「他にも弾ける? フレデリックとか」
「ああ、『オドループ』とか『名悪役』? どっちがいい?」
「どっちも!!」
そうやって、ピアノ同好会は順調に滑り出した。
ジャンルを問わず心春が即興でピアノを弾いたり、たまには音楽鑑賞室に置いてあるクラシックのCDをステレオで聴いたりする。
桜井の好みは主に流行の邦楽全般だが、クラシックの王道曲を聴かせても素直に耳を傾ける音楽の資質があった。
「この曲、いいな」
「あ、わかる? やっぱり『ボレロ』は感情を揺さぶられるわよね」
その日、同好会活動を終えてもまだ音楽が聴き足りないような桜井と一緒に下校している時のことだった。
心春は自分のワイヤレスイヤホンで桜井にラヴェルの『ボレロ』を聴かせたところ、思った通りの反応だ。
「『ボレロ』はバレエの振り付けもあって、バレエも見応えがあるわよ。シルビイ・ギエムとか、東京バレエ団の上野水香さんのソロとか」
「観てみたいな」
「うちで観る? ブルーレイ持ってるから」
「え? いいの?」
「桜井君さえ良ければ今からでもいいわよ」
「じゃあ、お邪魔させてもらうよ」
それは心春が意図したことではなく、自然な成り行きだった。
◇◆◇
「あらあ。あなたが噂の桜井君?」
心春が桜井を伴って帰宅すると、真っ先に出迎えたのが心春の母・春子だった。
「聞いてた通り、男前ねえ。あ、イケメンって言うのかしら、今時。背も高いし、心春の彼氏とは思えないわ」
「ちょっとお母さん! 桜井君は、か、カレとか言うんじゃないから! ピアノ同好会の……」
「唯一の部員さんなんでしょ? はいはい。耳にたこができるほど聞かされてますよ」
「お母さん、余計なこと言わずに、あの部屋にお茶持ってきて」
「珈琲とお紅茶、どっちがよろしい?」
「桜井君、どっちがいい?」
「えーと、珈琲。ブラックでお願いできれば」
「お歳暮のアンリのフィナンシェもお願いね、お母さん」
「はいはい」
「桜井君。こっちよ」
賑々しく心春は桜井をピアノ室に連れて行った。
「こんな大きなピアノがあるなんてすげえな。ま、日向のピアノの腕前なら当然だよな」
そこは、完全防音のオーディオ・ビジュアルルームで、グランドピアノにステレオや大型液晶テレビ、ビデオ機器、パソコン、CD・ブルーレイの収納棚などが完備している。
音響の良いスペースにはいかにも座り心地の良さそうな革張りのソファがあり、寛げる空間だ。
「桜井君、これがギエムの『ボレロ』。観ましょう」
静かな音で流れ始めるメロディ。
徐々に迫力を増していく群舞。
妖艶で肉感的なギエムのソロ。
「……本当に日向はすごいよ」
「え?」
ブルーレイを観終わった後の桜井の最初のひと言に、心春は首をかしげた。
「何でもホンモノを知ってるていうか。日向のやること、みんな『本物』だよ」
「ええと。……ありがと」
いつになく真剣な桜井のその言葉に、心春はなんと返して良いかわからない。
「でもね」
心春はやや肩を落としながら言った。
「いくら私が頑張っても、『ピアノ同好会』には桜井君以外、誰も入ってくれないわ」
「『ピアノ』って敷居が高いからなあ」
「私、思うときがあるの。このままなら正式なクラブとして認められないし、いっそ辞めた方がいいのかなって……」
「何言ってんだよ!」
そのとき。
桜井の怒気に一瞬、心春は驚いた。
「俺、このところ毎日、放課後が楽しみなんだ。今日は何の曲聴けるかなあって。初めは髭ダンの曲とかだけ聴ければ良かったけど、今じゃ、お堅いクラシックでも結構イケルじゃんって」
桜井は言った。
「部員はいずれその内、なんとかなるよ。二人だけでも続けていこう」
「桜井君……」
ただじっと見つめあっているだけの二人の様子を、お茶を運んできた春子がドアの隙間からこっそりと見守っていた。
◇◆◇
「心春ー! お客さん」
昼休み、千華とお弁当を食べているとき、クラスメイトが心春を呼んだ。
教室の入口に立っている女子を見て、心春は驚いた。
清修でも一番の美人で名高い三組の山口桐子が立っていたからだ。
「山口さん。私に何の用?」
「日向さん。単刀直入に言うわ。あなたのピアノ同好会、迷惑なのよ」
「え?! 迷惑?」
「桜井君は清修野球部の一枚看板なの。彼が部活に顔を出さなくなってから、野球部はもう廃部寸前よ。マネージャーとしてこれ以上、見過ごすわけにはいかないわ」
「それは……」
心春は困惑した。
野球部が自分の同好会活動のせいで崩壊の危機にあると聞かされれば、それはやはり看過できない。
「日向さん」
美人というだけではない圧を持ってして、桐子は心春に迫った。
◇◆◇
「おい、日向! あのLINEどういうことだよ」
翌日。
登校するやいなや桜井が、心春の教室にやってきて言った。
「……見てのとおりよ。これ以上、同好会活動しても部員集まらないから、もう辞める」
「そんな簡単な気持ちだったのかよ?!」
桜井が心春の肩を掴んだ。
ビクリと心春の体が震える。
「もう決めたから」
「……見損なったぜ」
桜井はそのひと言を残して、去っていく。
その後ろ姿をずっと心春は見つめていた。
◇◆◇
それから。
心春は心ここにあらずの日々を過ごしていた。
放課後になるとどうしていいかわからず、特に落ち込んだ。
その落ち込みようは周囲にも知れ渡り、桜井を取り巻く女子たちからは「いい気味」とすっかり嘲笑されている。
桜井が野球部に戻ったという噂は心春の耳にも届いている。
とうとう心春はある放課後、こっそりとグラウンドの片隅から桜井の姿を一目見ようとした。
「あら。日向さんじゃない」
バックネット裏で運悪く、よりにもよって桐子に心春は見つかってしまった。
「何しにきたのー。ここにはピアノなんかないわよ」
「あ、桜井君見に来たのかあ。もう相手にされてないのにねえ」
桐子を筆頭に数人の野球部女子マネたちが心春を囲んで、キャハハと嬌声をあげる。
そのときだった。
「おい。やめろよ」
「桜井君……?!」
心春には信じられない。
制服姿の桜井が、心春を庇うように心春の前に立っている。
広い背中が心春にはただ頼もしい。
「山口。俺、週末は『ピアノ同好会』で活動する」
「そんな……! 野球部はどうするのよ?!」
「もう決めたんだ。それが野球部に戻る正式条件だ」
「桜井君……!」
「行くぞ、日向」
桜井はそう言うと、青ざめている桐子たちを後に、心春の手を引っ張り、その場を後にした。
◇◆◇
「このCDの最初の曲。弾いてくんない?」
音楽鑑賞室で桜井は、スクバから一枚のCDを取り出すと、心春に手渡した。
「モーツァルトのK.265……『きらきら星変奏曲』?」
「うん」
心春はピアノの前に座った。
すぅっと息を軽く吸うと、ゆっくりとそのモーツァルトの変奏曲を奏で始めた。
主題は誰でも知っている童謡の『きらきら星』。それをモーツァルトが編曲したものがこの『きらきら星変奏曲』である。
優しいモーツァルトらしい曲調をそれは丁寧に情感深く、心春は奏でる。
無論一音もつまずくことなく、軽やかに駆け抜けるように心春は弾ききった。
「この曲……想い出の曲なんだ」
「想い出?」
「ああ。俺の初恋」
桜井の『初恋』と聞いて、ズキっと心春の心が痛んだ。
「十歳の時だった。俺の通ってたピアノ教室の発表会。小学生の部のトリで、この曲をそりゃあ上手に弾いた女の子がいてね。明らかに他の子供とはレベルが違ってた。俺はすぐ親に言って、このCDを買ってもらったよ。なんせガキだから、連絡先を聞くとかそういう知恵は回らなくてさ。翌年の発表会で会えることだけを楽しみにしてたら、それからすぐ親父が転勤になって。それでピアノも辞めちまったんだ」
「その女の子が……桜井君の初恋の人……」
きっとピアノがすごく上手で、可愛くて……。
そんなことを考えると心春は涙が溢れてくる。
「だから、驚いたんだ。まさか、地元に戻ってきたからって、ここでまた会えるなんて」
「え……?」
うつむいていた顔を上げると、桜井が柔らかく笑んでいる。
「入学式の時から気になってはいたんだけど、初めて会った時から五年も経ってるんだから、記憶も曖昧で。でも、『ピアノ同好会』立ち上げるって聞いて思い切って入部して、日向のピアノを聴き続ける内に確信したよ。日向は……あのときの『きらきら星』の、俺が初めて好きになった女の子だって」
「桜井君……」
「なかなかはっきり言えなかったけど」
桜井が心春の瞳を見据えて言った。
「俺、十歳の時も今も。日向が好きだ」
真摯に心春を見つめる桜井の制服の裾を、そっと心春は掴んだ。
「私も。桜井君が好き……」
運命が引き寄せた『初恋の人』。
誰もいない音楽鑑賞室の片隅で。
二人は初めてのキスを交わした。
本作は、遥彼方さま主催「共通恋愛プロット企画」参加作品でした。
プロット提供は、長岡更紗さまでした。
冒頭バナーはあき伽耶さまに、作中イラストは汐の音さまよりいただきました。
遥さま、長岡さま、あき伽耶さま、汐の音さま、そしてお読み頂いた方、どうもありがとうございました(^^)