08 当てが外れる
「船内から消えた乗客が死んでいるなら、身投げとは考え難い。死体が見つかったのであれば、彼の転落は第三者の仕業だろう」
奥山の遺留品を見れば、何かしらの使命を帯びて旅客船に乗船しており、目的を果たす前に自死するはずがない。
しかし相田は、弱った顔で首を横に振る。
「彼の場合は、手摺りを乗り越えて海に飛び込んだところを目撃した者がいます。もちろん、証言の信憑性を疑うなら、その限りではありません」
「彼の場合?」
「救命艇に引き揚げられている溺死体は、騒動前にレストラントで飲酒していた男性です。貴方が『梶原』と呼んでいた男ですよ」
乗組員が短艇に引っぱり上げた男の人相を確認すれば、騒動から逃げるように船内食堂を後にした梶原だった。
「梶原が自死?」
「或いは事故かもしれません。彼は貴方に聴取された後、思い詰めた表情で酒を煽っていましたからね」
「梶原は、酒に酔って転落したと言うのか?」
「見たところ、かなりの千鳥足でした」
私が協力的ではなかった梶原に『命を狙われるかも知れない』と警告したのが、裏目に出たのだろうか。
脅し文句に怯えた梶原は、不安を紛らわすために深酒して展望通路から転落した。
いいや、そんなバカな話があるものか。
私との会話が梶原を追い詰めたと言うのなら、無責任ではないのだろうが、傍から見るに頑健な男が、あの程度の脅迫に怯むはずがない。
「血腥い事態ならんと、言った先から人が死んだな」
黒羽少佐は、私に遅れて右舷の展望通路に出てくると、波間に揺れる短艇を覗き込んだ。
「奥山の騒動を欺瞞工作だとするなら、この事態は予想できません。人殺しで片付く事態ではないからこそ、主犯は手の混んだ芝居を打っているはずです」
「演者が台本通りに動くと限らなければ、不測の事態にも気を配ることだ」
「梶原の死は、事故や自死の可能性があります」
「梶原とやらが自決したとして、二つの事件が無関係だと言わんよな」
「ええ……、そうですね」
ただ相田の話では、梶原が酩酊していれば、舷縁の柵を乗り越えて落下したとの目撃があるらしい。
相田の言うとおり証言の信憑性を疑えば、梶原を海に突き落とした犯人かいるし、そいつが偽証しているなら、策謀劇の共犯者である。
「何か解ったら報告しろ」
「そのようにします」
黒羽少佐は労う言葉もなく背を向けると、自分の船室に戻ってしまった。
九重中尉を見下して茶番劇だと決め付けた私の慢心が、第二の事件を予見すらできなかったのだから、黒羽少佐を失望させたのだろう。
手摺りに体を預ければ、肩を落としてため息をつく。
「梶原さんの死が不注意だとすれば、貴方が責任を感じる必要はありません。私は、彼が泥酔していたと知っているし、目撃者の証言も信憑性が高いと思います」
相田は肩を叩くと、慰めるように話し掛けるのだから、上官に脇の甘さを指摘された私は、よほど落ち込んで見えているらしい。
「どうして、そのように言えるのですか」
「目撃者は、貴方も知っている笹木さんです。私は、笹木さんとテーブルで向き合っていたので、彼が犯人ではないと断言できれば、偽証する意味がないと思います」
相田は、奥山の騒動があった左舷出入り口の向正面に座っているのだから、笹木がテーブルを挟んで向かい合っていれば、右舷から海に落下した梶原を目撃している可能性が高い。
「笹木さんとは、いつ顔見知りに?」
「彼も寝付けなかったようで、私のところに新聞を借りに来たのです。こういう騒動に巻き込まれるのは滅多にありませんから、何となく進展が気になって眠りも浅いのでしょうね」
「なるほど、そういうものですか」
「朝までレストラントに残っていたのは、私のような物見高い者でしょう。大半の乗客は、自分の船室に戻ってしまいました」
相田に言われて船内食堂を覗き見れば、騒動直後に二十人ほど集っていた乗船客が半分以下になっており、笹木と絢子の姿も見えなかった。
船上が不安でたまらないと訴えた絢子はともかく、殺される訳合のないと気付いた者から、船室に戻って当然だろう。
また相田に笹木の所在を確認すれば、落ち着きを取り戻した絢子を船室に送ったついでに、彼も自分の船室で仮眠しているようだと答えた。
◇◆◇
私は相田を残して船内に戻ると、梶原の遺体を引き揚げる船尾甲板を目指して船内食堂から下層階に移動する。
海上に下ろした短艇を甲板に戻すには、今しばらく時間があれば、待合室のベンチに腰を下ろして、昨晩から続く騒動のあらましを振り返ることにした。
船内食堂には騒動の三十分前、満州鉄道の土木教員だった梶原、新聞を広げた書生の相田、資産家の窪坂の三人がいて、そこに何者かを探している九重中尉が訪れる。
絢子は二十時前、騒動と反対側である右舷の展望通路に出ており、船内食堂では梶原、相田、窪坂を視認していれば、すれ違いに九重中尉が階段を下りたと証言していた。
しかし絢子は、九重中尉が三等船室に戻ったと証言したが、船内食堂の下層階にいるなら騒動のとき、船首と船尾甲板に出られる位置にいた。
梶原は絢子が展望通路に出た後、どこかに中座して酒瓶を手に戻っており、窪坂が船室に戻ったのは、このときだろうと相田は考えている。
副船長の青木は二十時五分、操舵室から貿易商の奥山が旅客船から落下したのを確認すると、航路を戻して停船するように指示を出して、現場である左舷の展望通路に向かった。
現場に到着した青木が騒ぐと、恐怖に苛まれた絢子が悲鳴をあげたので、駆け付けた笹木が彼女を介抱している。
「私が現場で見たのは、野次馬の中で腰を抜かした絢子と背中を擦る笹木、そこに九重中尉が現れて『突き落とされた乗客は誰だ』と、奥山の死に第三者の関与を疑わせた」
騒動を振返れば、いくつかの疑問が浮かび上がる。
九重中尉が『突き落とされた乗客は誰だ』と、騒いでいるのだから、まだ目当て人物と接触できていなかいのか、目当ての物を入手していない可能性がある。
私は、九重中尉の目当て人物が奥山であり、目当ての物を寄木細工の小箱だと仮定しているので、奥山が絢子より先に展望通路にいた場合、なぜ中尉が見つけられなかったのか、首を傾げるところだ。
そして絢子が船尾を経由して右舷から左舷に回り込んだとき、青木は船首方面の船橋甲板から現場に向かっており、奥山を突き落とした犯人がいるなら、二人と鉢合わせしないで現場から消えたことになる。
そもそも奥山の身投げを目撃したのは、副船長の青木だけなら、現場に駆け付けた笹木は水音しか聞いていない。これは、奥山が最初から乗船していないと考えれば済む話だ。
私が騒動を欺瞞工作と決め付けた訳合は、犯人どころか奥山の存在すら希薄なところにある。
奥山なる人物が乗船していなかったと考えれば、副船長の青木は架空の身投げを目撃しており、欺瞞工作を仕掛けた者と仲間であろう。
「誰かの密事を覗き見ようとせず、青木の身柄を昨晩中に押さえておけば良かったのか」
自問自答すれば、それはそれで敵味方が解らぬ連中の情報を掠め取る好機を逃すことになる。
つまり奥山の遺留品には、機密を隠しているであろう寄木細工の小箱があり、欺瞞工作を仕掛けた者は、船内で接触してくる奥山の仲間から箱の鍵を入手したかった。
奥山の代役を乗船させたいところだが、箱の鍵を所持している者が奥山の容姿を心得ており、代役を見抜かれれば接触してこない可能性が高い。
そこで奥山だけを退場させて、箱の鍵を所持している者には、遺留品として船内に寄木細工の小箱だけを餌として残した。
「身投げしたとの騒ぎを聞き付けて、第三者の介在を疑った九重中尉が、奥山の仲間だったと仮定できる」
欺瞞工作を仕組んだ者も、九重中尉が箱の鍵を所持していると理解したはずだ。
であるなら欺瞞工作を仕掛けた者の狙いは、箱の鍵を所持している九重中尉のはずであり、だから問題は、梶原が殺されたにせよ、自死したにせよ、欺瞞工作を仕掛けた者との関係や訳合が私に見えないことだ。
【補足】
主人公は、奥山の騒動を欺瞞工作(作り話)だと推理しており、犯人の狙いは寄木細工の小箱を解錠する鍵の入手(機密情報)だと考えていた。だから欺瞞工作を仕掛けた犯人、鍵を所持しているだろう九重中尉、どちら側が機密情報を入手しても盗み取ろうと思って、主犯ではない(と思われる)副船長の青木を泳がせていた。