07 傍観者
黒羽少佐の船室に戻ると、九重中尉が入口付近に立っており、入室した私を一瞥してから向き直った。
黒羽少佐は私がいない間、九重中尉を呼び出して事情聴取していたようだ。
「何か解ったか?」
「ええ、騒動のあらましは掴めましたが、鵜呑みにできない事実が多くて憶測の域を出ませんね」
黒羽少佐は『それで構わない』と、九重中尉の前で報告させるつもりである。
私の見立てでは、九重中尉は奥山を探しており、おそらく中尉の狙いは、彼が所持していた寄木細工の小箱だ。
そうであるなら、九重中尉に聞かせる情報は慎重にならざるを得ない。
「旅客船から姿を消した人物は、銀座で貿易会社を経営する奥山高貴でした。副船長の青木は、奥山が海に落下したのを目撃していますが、自らの意思による身投げだったのか、何者かに突き落とされたのか解りません」
「奥山は、民間人なのか?」
九重中尉は奥山の身分に興味を示したものの、彼を海に突き落とした犯人に関心がないようだ。
奥山が密命を帯びる軍人だとして、九重中尉の目的が小箱の中身だとしても、仲間を海に突き落とした敵の存在を気に掛けない訳合は、いったい何なのか。
「名刺にはそのように書かれていれば、身なりからして資産家だと思います。九重中尉は、奥山が殺されたと疑っているようですが、その訳合を存じているのですか?」
「いいや、解らない。俺は、もとより誰が海に落ちたのか知らない」
「九重中尉は『突き落とされた乗客は誰だ』と、なぜ船員に問い質したのですか。貴方が第三者の関与を疑わなければ、彼らは身投げした人物を探していたのです」
「ただ、そう思っただけだ」
九重中尉が言い淀んだところで、黒羽少佐は軍刀の石突で床を叩いた。
白い鞘の軍刀は、黒羽少佐の軍功を称えて皇室より下賜された恩賜刀であれば、戦場で負傷した足の杖代わりに床を突くなど不敬だと騒ぎ立てる者もいるのだが、少佐が立てた軍功を知る者は、これを口にしなければ、むしろ羨望の眼差しを向けるらしい。
「同じ船に乗り合わせた軍人同士で、角を突き合わせる必要はない」
黒羽少佐は九重中尉の事情を心得た上で、私の追求を阻むのだろうか。
彼が私の知らない事実を掴んでいるのなら、表立って反論しないが、九重中尉の事情を聞かされるまでは、心を許せるはずがない。
「では今回の騒動には、第三者の関与を疑う証拠がありません。九重中尉の早合点ではありませんか」
「それは本当なのか」
「副船長の青木だけではなく、現場周辺にいた乗客にも確認しましたが、展望通路に奥山以外の者がいたとの証言がありません。奥山の転落は、事故か自死だと思いますね」
私が横目で九重中尉を見れば、渋い表情で首を傾げている。
彼は暫くして『そうか』と、自分を納得させるように呟いた。
「こんな夜更けに騒がせて悪かったな」
私の肩を叩いた九重中尉は、船から消えた奥山を目当ての人物ではなかったと決め付けると、黒羽少佐に敬礼して三等船室に戻ったようだ。
船内食堂で人探ししていた九重中尉が、展望通路にいたであろう奥山と接触できなかったのだから、そもそも目当ての人物ではなかった可能性もある。
しかし九重中尉と奥山が、何かしらの密事に関わっている疑念を払拭できない。
「九重中尉は、奥山と船内で接触する予定だったと思われます。奥山の遺留品には、符丁のような所持品も見られました」
だから私は九重中尉が部屋を後にすると、黒羽少佐に率直な意見を述べることにした。
「符丁?」
「ええ、奥山の所持品には、鍵札付きの鍵と白紙の紙切れがありました。あれらは、何かしらの割り符ではないかと考えます。九重中尉は奥山の名前や容姿を知らず、船内で符丁を持つ人物と接触するつもりだったのではありませんか」
「お前は、それをどうした?」
「彼らの目的が解らなければ、妨害しないように放置してきました。九重中尉を監視していれば、船上で上前をはねるのは容易いでしょう」
九重中尉の敵味方が解らぬうちは、小箱の中身が我々に害をなすと断言できなければ、符丁や鍵のかかった小箱を持ち出すのは面倒を起こす可能性がある。
ここが逃げ場のない海の上であれば、九重中尉に小箱を解錠させてから、身柄を取って中身を回収する方が早いはずだ。
黒羽少佐も同様の考えだからこそ、九重中尉を追い込むような真似を控えたのだろう。
「お前は、それで解決すると思うのだな」
「ええ、騒動の主体は、九重中尉に他なりません」
しかし黒羽少佐は『やはり底が浅い』と、眉間のシワに指を当ててベッドに腰を下ろした。
「お前は、人が等しく利口だと考えているから、関東軍が対中講和に前向きだと誤認した。東條閣下がコミンテルンを主敵としているのは確かだが、敵の敵だから国民党の蒋介石と手打ちにするわけがない」
「対ソ戦が不可避な現状を考えれば、中華民国との共防体制の確立は現実的だと思いますが」
黒羽少佐の任務内容を言い当てることができず、つい先程も間違いを指摘されたばかりなら、相田との雑談では、ドイツを仲介役とした和平工作が失敗していると聞かされた。
私の見識の甘さを自覚するところではあるが、なぜ今になって念押しされるのか。
「お前の考えるあるべき姿には、愚か者が介在しないらしい。だから東條閣下のような強硬派でも日和見に動くし、騒動の首謀者も危険な橋を渡らないと考えている。しかし現実の世界は、お前の想像するより多くの愚か者で構成されているぞ」
「私の考えるあるべき姿とは?」
「お前が見通している騒動の顛末と言い換えれば、俺の危惧を理解できるのかな。この騒動の背景には、お前の想定以上の愚か者が潜んでいるかもしれない」
黒羽少佐は、きっと九重中尉が握っているだろう機密を狙う者がいて、そいつが人殺しを辞さない狼藉者だと考えているのだろう。
「奥山が船内から姿を消したのが、何者かによる防諜活動だとしても、血腥い事態にはならないと思いますね」
私は、奥山を海に突き落とした犯人を目撃した者がいなければ、騒動そのものが欺瞞工作の可能性があると、船内で見聞きした事実を報告する。
黒羽少佐は沈黙していれば、私の意見に納得できない様子だった。
「改めて聞くが、この期に及んで対中講和を中央に進言する将軍に心当たりはないのか」
「東條閣下と不拡大方針で意見を戦わせている石原莞爾参謀副長でしょう」
不敵に笑う黒羽少佐は『だろうな』と、私の心根を見抜いていたようだ。
軍令憲兵は、憲兵条例で決められたところ天皇の大権によって制定された勅令憲兵ではなく、軍司令官の命令に服する憲兵である。
つまり私たちは関東軍で編成された軍令憲兵であり、東條英機に従うのが筋であれば、彼と反目している石原莞爾の意向に沿うのは離反を疑われる行為だ。
「行き過ぎた忖度は、当てこすりと変わらん。俺の任務が、東條閣下の意に背いている言い当てれば良い」
「ええ、そのように」
「傍観に徹している者が行き着く先は、世を儚んだ厭世家だ。お前が賢く立ち回っているつもりでも、いずれ目を閉じて耳を塞ぐことに限界がくるだろう」
「私は、そう思いません」
「俺は、お前の慎み深さを美質と思わん」
相手の意図が解らぬうちは、閉口しているのが得策だと承知していたのに、このときは、黒羽少佐に浅識を指摘されて苛立っていたのだろう。
そうでなければ、恩義がある黒羽家の嫡男に歯向かうなんて、頭の片隅にもあってはならなかった。
◇◆◇
海に俯せる男が発見されたのは、まだ夜が明けきらない頃である。
船員に呼び出されて展望通路に出ると、船体から少し離れたところに浮かんでいる男は、顔を下にして漂っているのだから、先ず以て生きているはずがなかった。
私は、よもや人殺しが船に乗り合わせていると思わなければ、展望通路の柵に身を乗り出して、船体を回り込んだ短艇の乗組員が、棒で突いて男を表に返すのに目を見張る。
「彼は、身投げしたそうです」
背後から声を掛けてきたのは、目深に被ったハンチング帽が海風に飛ばされないように手で抑えた書生の相田だった。
【補足】
防諜活動(カウンターインテリジェンス)とは、外部からの諜報活動や妨害工作に対抗して、情報の保護または妨害工作の阻止など行うこと。