05 愚か者には見えない服
絢子が船内食堂に二等船室から下りてきたのは二十時少し前、同じ階層の一等船室を借受けていた奥山は、彼女より遅れて船内食堂に現れたのだろう。
なぜなら船内食堂には、何者かを船内で探していたと思われる九重中尉がいたものの、中尉は目的を果たせずに、絢子とすれ違って三等船室に戻っている。
つまり九重中尉が探している者が奥山だと仮定すれば、絢子より先にいた三人の男は奥山ではないし、中尉は当然、船内食堂を回廊する展望通路も探しただろうから、そこに奥山がいた可能性も極めて低い。
「あちらの御婦人が階段を下りてから騒動までに、食堂に顔を出した者はいなかったか?」
「あんたは?」
ただし九重中尉が尋ね人の容姿を知らなければ、船内食堂にいた三人の男のうち、私が声を掛けている白シャツの男と、新聞を読んでいる青年を除いて、所在が明らかではない紳士的な男とやらが奥山かも知れないので、必ずしも断言できない。
紳士的な男は後ほど捜索するにしても、推測を確信に変える証言が欲しいところだ。
「いちいち人の出入りを見ていたわけじゃねぇし、そんなこと聞かれても困る」
白シャツの男は四十代半ば、内地から満洲に渡航していた出稼ぎ労働者の梶原夏雄だった。
少し酒臭い梶原は、消灯時間まで船内食堂で酒を嗜もうとしていたが、騒動のせいで酔も醒めたと言う。
梶原に騒動前後の様子を訪ねたが、覚えていないと無愛想に答えると、視線を展望通路で作業する船員に向け直した。
まともに向き合わない態度は、憲兵の身分を明かした私と、あまり関わりたくない雰囲気である。
「梶原さんには、何か気になることがあるのでは?」
「いいや、暇潰しに外を眺めているだけだ。窓のない部屋に戻っても見るものがねぇし、乗客を海に投げ込むような奴がいるなら、落ち着いて眠れねぇよ」
梶原は満洲鉄道の人夫だったらしく、日焼けした肌の頑健な体格であれば、暴漢に襲われても返り討ちにできそうだ。
「屈強な男でも、この事態は恐ろしいのかね」
「あんたは軍人さんだし、そうやって帯刀しているから、こんなときでも冷静でいられるんだ。人殺しが丸腰とは限らねぇし、暗くて逃げ場のない船底部屋は恐ろしいや」
梶原は相変わらずぶっきらぼうに答えるので、本気で怯えているのか、別の目的があって他の乗船客を監視しているのか解らなければ、彼を試してみることにした。
私は両手を腰に当てて、梶原と同じように作業中の船員を眺める。
「乗客を海に突き落とした犯人がいるのならば、梶原さんは命を狙われるかも知れないし、用心するに越したことはないのか」
「なんだって?」
梶原は私に振り向いたが、横顔で外を眺めたまま肩を竦めて見せた。
「だってそうだろう。乗客を突き落とした犯人は、食堂にいた梶原さんの前を通っていれば、あなたに犯行を目撃されたと考えているはずだ」
「だから、人の出入りなんて見てねぇと−−」
「犯人は、そう考えてくれるかな? ここは展望通路の通り道であれば、展望通路で作業する船員の姿も見えている。梶原さんに犯行を目的されたと考えても、おかしくないのではないかね」
「甲板は今、明るいから見えているけどよ。さっきまでは、室内の明かりが窓に反射して、外なんて見えねぇよ」
「犯人からは、明るい食堂内が見えていた。つまり梶原さんが無意識に視線を窓側に向けたとしても、犯人は犯行を見られたと誤認する余地があったわけだ」
犯人がいるなら、室内の照明が窓に反射すると計算しているので、これは調査に協力的ではない梶原への単なる脅迫である。
「ちょ、ちょっと待てくれ、俺が覚えているのは、騒動と反対側から甲板に出た女が、しばらくして叫んで人が集まったことくらいだ。俺も他の乗客に続いて甲板に出たが、そんときは十人以上の野次馬がいたぜ」
我が身の危険を感じた梶原は、思い出せる精一杯を語っているようであれば、よもや奥山を突き落とした犯人ではなさそうだ。
しかし梶原が本当に騒動前後の状況を覚えていないのであれば、調査の役に立つ証言が得られそうにないのが残念である。
「あなたが野次馬だったのなら、名乗りを上げた九重中尉を存じているね。中尉が騒動前、ここにいたのを覚えているか?」
「あの男なら険しい顔で、食堂を歩き回っていたから覚えているが、騒ぎが起きる前に船底部屋に戻ったぞ」
九重中尉が、船内食堂で誰かを探していたのは間違いなさそうだ。
それが奥山ならば、やはり彼は絢子より後に船内食堂を通過している。
「あ、そう言えば、そこで新聞を広げている男と、もう一人の男がいたはずなんだが、しばらくしたら姿が見えなくなったな」
「そいつも、部屋に戻ったのか?」
「そこまでは解らねぇよ」
梶原が奥山を突き落とした犯人だとすれば、被害者の奥山を見ていなければ、彼を突き落とした犯人も見ていないと、そんな知らぬ存ぜぬで窮地を切り抜けようとしているのだろうか。
私の心象では、梶原が非協力的に振舞う訳合は、ただ厄介事に巻き込まれたくないだけであり、誰かを庇って偽証していなければ、無実を答弁できるほど知恵が回る男ではない。
そうなると騒動の発端は、梶原には見えない透明人間の仕業になってしまう。
「なあ憲兵さん、べつに食堂を通らなくても甲板に出る方法ならあるんじゃねぇか? だって海を捜索している乗組員は、ここを通っていねぇだろう」
梶原の指摘どおり、一等、二等船室から展望通路までは、操舵室のある船橋甲板の梯子を経由しても移動できる。
副船長の青木が操舵室から展望通路に下りたのも、船橋甲板を利用したし、私も同じ道筋を確認しながら船内食堂まで来た。
「海に突き落とした犯人ならいざ知らず、被害者が人目を忍んで展望通路に出る訳合がない。それに乗船客が船員用の梯子を利用していれば、操舵室の彼らが不審に思って気に留めるだろう」
つまり奥山が人目を忍んで行動していたとしても、船員の目がある迂回路を使わずに、他の乗船客と同じように船内食堂から展望通路に出るはずだ。
梶原は『まあな』と、私の説明に納得したようだ。
【補足】
満洲鉄道には、鉄道附属地での独占的行政権を与えられていたが、昭和12年に満洲国に返還されると、多くの満鉄職員が満鉄から満洲国へ移籍した。しかし満洲鉄道の出稼ぎを終えて帰国すると言った梶原夏雄は、満洲国に移籍しなかった鉄道附属地の一般行政の職員(土木教員)だったと思われる。
【登場人物の動向】
梶原夏雄:船内食堂で酒を飲んでいた元満洲鉄道の人夫。