04 御婦人の証言
騒動の発端となったのは、九重中尉が奥山が突き落とされたと決めつけたことにある。
身投げというのは本来、自ら身を投げだして自死を遂げる意味であれば、奥山の身投げに第三者の関与を疑う必要がなく、無関係の乗船客が身を寄せ合う訳合がない。
笹木に聞くところ、船内食堂に集まっている二十人余りは、鍵どころか扉さえない相部屋の三等船室の乗船客で、彼らは相互監視で安全を確保している。
つまり船内食堂に集まっている乗船客は、人目に付かない無防備な三等船室で過ごすのが不安で怯えているらしい。
しかし御婦人を部屋に連れ込めないと言った笹木や、海が怖い絢子は二等船室の乗船客なのだから、全員が同様の訳合で集まっているわけでもなさそうだ。
「これは、犯人が意図した状況なのか」
九重中尉の憶測を除けば、奥山の自死を否定する証言や証拠が得られないのだから、犯人とって不測の事態と考えるのが定石だろう。
しかし騒ぎを起こした朝鮮軍の九重中尉が、管区である朝鮮半島に極めて近い黄海で、この状況を作り出すために自作自演したという線も、今のところ捨て難い。
「ご要件は、何かしら?」
私が絢子の横に腰掛けると、彼女は抱えていた脚を演台から投げ出した。
「絢子さんは、どちらに?」
「郷里で代用教員の仕事が見つかったので、佐世保から福岡に向う予定ですわ」
「では満蒙開拓移民ではないのですね」
絢子が移民団として満洲国に送り出されているなら、就職を訳合として日本帝国に帰国できないはずだ。
「ええ、福岡では教師の職が見つからなくて、平安北道の新義州市で日本語を教えていました」
「内地は、どこも不景気ですからね」
平安北道といえば日本帝国と併合した朝鮮半島北部にある行政区で、新義州市は満洲国との国境にある街だ。
朝鮮半島を縦断すれば福岡に直行する定期航路もあるが、満洲国に越境して旅客船に乗船した方が陸路を移動するより遥かに容易い。
しかし絢子が朝鮮で過ごしていたなら、朝鮮軍の九重中尉と顔見知りではなかろうか。
双方に顔見知りの様子がなかったのだから、これは私の勘繰りに過ぎないし、そうであっても素直に答えないだろう。
「聞きたいことは、それだけでしょうか?」
「絢子さんが乗船客の転落を目撃していないのなら、展望通路には騒ぎの後に出たのでしょう。違いますか」
「どうかしら……。あのときは取り乱していたし、気付いたら笹木さんがいて−−」
絢子は、明言を躊躇ったように思える。
「では、船室を出た時刻は?」
「二十時の少し前でしたわ。船内から展望通路に出るとき、ここの時計を見ました」
船内食堂には柱時計があり、一等、二等船室からの階段を下りると正面に見えた。
絢子は展望通路に出るとき、柱時計で時刻を確認しているらしいのだが、副船長の青木が奥山の転落を見たのが二十時五分なので、彼女が目撃していないとの証言が疑わしくなる。
ただ絢子は船内食堂の出入り口を指差すと、船内中央部を取り囲んでいる展望通路には、転落現場の反対側である右舷から回り込んだと言った。
絢子が暗い海を眺めながら、五分少々掛けて現場に到着したなら筋は通る。
「笹木さんは、貴女の悲鳴を聞いて駆け付けたと言うのですが、それは海に恐怖を覚えたからですか?」
「私は幼い頃、高波にさらわれて溺れたことがあるのです。それ以来、海岸線に立つのも恐ろしかったのですが、船の往来で本土と行き来するために克服したつもりでしたが……」
「乗船客が海に転落したと聞いて、溺れたときの恐怖が蘇った?」
「はい」
絢子の証言を信じるなら、笹木の聞いた水音は何だったのか。
彼は水音の直後、綾子の悲鳴を聞いたと言っていた。
それが奥山が海に落下した水音だとしたら、やはり綾子の証言には疑義が残る。
「展望通路に出たとき、他の乗客を見掛けていませんか」
綾子は首を横に振ったものの、二等船室から下りたときに、船内食堂にいた人物なら覚えていると言う。
「レストランには、それぞれ離れた席に男性が三人座っていました。それからすれ違いに、九重中尉さんが三等船室に向かって階段を下りています」
「九重中尉が、ここにいたのですか」
「ええ、確かに見ました。彼は、手前の席に座っていた男性のテーブルを覗き込んだ後、私を見て舌打ちしたのを覚えています。酷く粗暴な態度だったので、印象に残っていますわ」
男性のうち、一人は奥山だったのだろうか。
顔写真がなければ確かめようがないし、絢子が乗船客の名前を知る由がなければ、人物の特定しようがないと思われた。
「レストランで見た二人は、そこにいます」
絢子が目配せした先には、壁に寄り掛かって展望通路で作業する船員を眺めている白シャツの男と、丸テーブルに新聞を広げている青年がいる。
「あと一人は、紳士的な振舞いの方でした」
「紳士的?」
「私と目が合うと、帽子を胸に当てて会釈してくれました。きちんとした身形だったし、気品を感じさせる方でしたわ」
九重中尉に舌打ちされた後であれば、そのような女性に対する儀礼的な仕草も、紳士的と解釈されてしまうのだろう。
絢子が紳士とした男の特定は後回しにして、同時刻に船内食堂にいた白シャツの男と、新聞を読んでいる男に話を聞くとしよう。
ここにいた三人の男は、絢子が左舷の展望通路に回り込むまでに、奥山を海に突き落とすことが可能であれば、犯行を目撃しているかも知れない。
「絢子さん、ありがとうございました」
「もう、よろしいのですか」
「ええ、絢子さんを長いこと独占していると、笹木さんに睨まれてしまいます」
私が絢子と会話していると、笹木の険しい視線を感じる。
笹木は絢子に頼られたと思っているようだが、それは片想いでなかろうか。
【補足】
大韓帝国は当時、日本帝国と併合されているので、朝鮮平安北道で日本語教師だった中条絢子は、満蒙開拓移民ではない。福岡で代用教員に採用された絢子は、移民ではないので大陸(満洲国を経由して)から福岡に帰郷できる。