03 間抜けな副船長
私は、案内してくれた船員から船室の合鍵を預かると、人払いして室内を見渡した。
奥山の船室に入って電気を点ければ、正面には船舶用丸窓が二つあり、左に備付けられたベッド、右に執務机とコート掛けが置かれている。
また旅行鞄はベッド下に押し込まれており、コート掛けに脱いだ背広が吊るされていれば、室内に争った形跡がなかった。
奥山が事件に巻き込まれているなら事件現場は室外、九重中尉の予想どおりならば、犯人に呼び出されて展望通路から突き落とされたのだろう。
そして部屋の作りが、黒羽少佐の借受けた一等船室と同じであれば、奥山という人物は、金に不自由していない資産家なのか。
コート掛けの上着を捲ってみると、縫製が良ければ吊るしの既製品とも思えないし、ネーム刺繍があれば誂え物であろう。
身元の手掛かりを見つけるためにポケットを探れば、奥山の名前が書かれた貿易会社の名刺が数枚、乗船券、鍵札付きの鍵、破り取ったような白紙の切れ端が一枚。
名刺の肩書きが確かなら、奥山高貴なる人物は東京府銀座に事務所を構える朝鮮貿易の会社を経営しており、旅客船には仕事の都合で乗船していたらしい。
この部屋の主は少なくとも、身辺に探りを入れる者に、そう思わせたいのだと勘繰るのは、見たものを見たままに信じない私の性分なのだろう。
「問題は鞄の中身だな」
私は旅行鞄をベッドの上に置いて尾錠を解いたが、口金がダイヤル錠で施錠されており、先ほど上着から見つけた鍵で開かなければ、工具を取り出して蝶番を外してみる。
鞄の中身は、貿易会社の名前が印字された書類と衣類、それらの上に目立つように置かれた寄木細工の小箱。
市松模様の小箱は施錠されており、鍵穴を覗くと、奥山の持っていた鍵の形と符合しない。
寄木細工の小箱には、蝶番がなければ解錠して横にづらして開ける仕組みのようであり、手持ちの工具で一筋縄では行かないようだ。
「本命はこちらのようだ」
手の込んだ細工を施した箱であれば、無理矢理に抉じ開けるのが躊躇われる。
私は書類に目を通した後、小箱を旅行鞄に戻して蝶番のネジを締め直すと、奥山の船室に探りを入れた痕跡を消した。
「部屋の検分は、もう済みましたか?」
部屋を出ると船員に話し掛けられたので、室内はもぬけの殻であり、船内から消えた者は、奥山で間違いなさそうだと答える。
彼には、次いで奥山の身投げを目撃した者に取次ぎを頼んだ。
展望通路から乗船客が海に落ちたのを目撃した青木勉副船長とは、旅客船の操舵室で話すことになった。
青木の年頃は二十代半ば、若い副船長で、奥山の身投げを目撃したのは、操舵室から展望通路に視線を落としたときだったらしい。
彼は直様、周辺海域を捜索するように指示して展望通路に向かったようだ。
「黄海に出たところで船長と操舵を交代したのですが、何気なく甲板を見ると、乗船客が海に落ちるのを目撃したのです」
「周囲に、怪しい人影はありませんでしたか?」
「じつは急いで艦橋甲板から展望通路に降りたものの、落下した乗船客を目視しようと、海上に目を凝らしていたので、その場に誰がいたのか覚えていません」
「では展望通路で騒いでいたのは、あなたですね」
「お恥ずかしい話ですが、こんなことは初めての経験なので動揺していました」
夜風に当たろうと展望通路にいた絢子は、慌てふためく青木の姿を見て悲鳴をあげると、そこに満蒙開拓移民の笹木が駆け付けて彼女を介抱した。
しかし絢子は、奥山が身投げするところを目撃していないのだから、もっと騒ぎが大きくなってから展望通路に出てきたことになる。
絢子が偽証している可能性があれば、後ほど話を聞いた方が良さそうだ。
「あなたは、そのまま展望通路に残っていましたか?」
「いいえ。集まった乗組員に捜索を任せて、太田船長に報告しに船内に戻りました。副船長は本来、こうした緊急時に船長の指示に従う必要があります」
船長席に深く腰掛けていた船長の太田三徳は、眠い目を擦りつつ、運航指揮者を任せた副船長の青木が、自分の指示を仰がず停船命令を出せば、船長席を離れたことに立腹している様子である。
「青木君に舵を任せるのは、まだ早すぎたようだ。運航指揮官が、緊急時に席を離れて走り回るなんて前代未聞だ」
太田が口髭を撫でながら、操舵室を空けた青木を諌めるように吐き捨てた。
太田船長の言い分も理解するが、青木だって悪気があって席を離れていないし、航路を変更して転進したわけでもなかろう。
「奥山が、自ら身投げした可能性もありますか?」
私は不機嫌な太田を横目にして、萎縮している青木に質問を続ける。
「他に目撃者がいないのであれば、そうかもしれません。操舵室からは、展望通路が全て見渡せるわけではないのです」
私が窓から見下ろせば、青木の証言どおり展望通路の柵しか見えず、現場周囲に犯人がいても見つけるのが難しそうだ。
「船は、目撃した時点で停船したのでしょうか?」
「いいえ。乗船客の落下を目撃した二〇〇五、つまり午後八時五分に通過した航路まで転進して停泊するように指示しています。当汽船の場合、巡航速度からスクリューを逆転しても1海里(約2㎞)ほど進んでしまいます」
つまり旅客船は、奥山の落下したであろう航路上に戻って停泊しているらしい。
「太田船長、この船はいつまで停泊するのですか」
「急ぎの用事があるなら申し訳ないが、要救助者が見つからなければ、明日の日暮れまで救助活動を続ける予定だ」
犯人の目的が奥山の所持していた小箱の中身ならば、旅客船が停泊している明日のうちに、何かしらの動きを見せるだろう。
そうでなければ、生きたままにせよ、死んでいたにせよ、奥山を海に投げ捨てる訳合がないように思えるからだ。
「事件性の有無をさておき、展望通路から身投げしたのは、船内から消えた貿易商の奥山高貴で間違いないでしょう。錦州港に照会して、乗船手続きした者に奥山の特徴を聞き出してください」
「乗船手続きなら、副船長の青木君が立ち会っているはずだ」
「副船長が?」
私が錦州港で乗船手続きしたとき、青木が立ち会っていた記憶がない。
「出向準備中の船長代理で、乗船する皆様に、ご挨拶を兼ねて立ち会っていましたが、席を離れることもあったし、全員の顔や特徴まで覚えていません」
「青木君、乗船客に挨拶せず離席したのか?」
「も、申し訳ございませんでした。ですが、僕にも生理現象がありまして……」
青木という若者は、優秀な乗組員ではないと見受けられれば、時間を掛けて聴取しても、これ以上の情報を引き出せそうもない。
太田船長には、改めて奥山の特徴を港湾職員に照会するように依頼してから、展望通路を経由して黒羽少佐の船室に向かおうとしたが、旅客船中央にある船内食堂から声が聞こえるので立ち寄ることにした。
◇◆◇
船内は二十一時に消灯だと聞かされていたが、騒ぎがあって照明が落とされていなければ、九重中尉が『乗船客が突き落とされた』と騒いだので、気が気でない他の乗船客が船内食堂に集まって話し合っているらしい。
船内食堂を覗き見れば、ニ十人程度の乗船客が椅子に腰掛けて体を揺すったり、腰に手を当てて歩き回っていたり、何とも落ち着かない様子だった。
九重中尉に言わせれば、この旅客船には殺人鬼が潜んでおり、その目的が解らなければ、自分も殺されると考えて身を寄せても仕方がないのだろうか。
「あ、憲兵さん」
私を見つけて手招きしたのは、何かしらの買付けで内地に戻る笹木である。
彼に聞けば、船内食堂に集まっている乗船客は、他人と相部屋になっている三等船室の者が多いらしく、真相が明らかになるまでは、なるべく皆で集まって夜明かしすると決めたらしい。
奥山の遺留品を確認すれば、他殺を疑って当然の状況ではあるが、ここに逃げ込んでいる誰が知っているだろう。
「自死や事故かも知れないのに、皆さん用心が過ぎませんか?」
「九重さんが殺人事件だと騒ぐものだから、疑心暗鬼で相部屋に戻れないのです」
「自分に殺される訳合がなければ、殺されるなんて気にしなくて良いと思いますが……」
私は普段、死と隣合わせの戦場にいれば、諜報と謀略が蔓延る世界に片足を突っ込んでいるので、死というものに無頓着なのかも知れない。
ここに集まっている者は、船内に無差別殺人の犯人がいると怯えているが、彼らが暮らしている街には、そうした輩がいないと考えているのだろうか。
人殺しなんて、街にも、国にも、それこそ世界中にいるのだから、狭量な考えに支配されたら何も出来なくなる。
「おや、絢子さんもいますね」
船室食堂には、一段高いところに演台があるのだが、海が怖いと言っていた絢子が、ぽつねんと座っていた。
彼女も、相部屋の三等船室なのだろうか。
「絢子さんは二等船室の個室なのですが、一人でいたくないと言うので誘いました。年頃のお嬢さんだし、私の部屋に招き入れるのは問題があるでしょう?」
絢子が洋装の御婦人であれば、線の細い印象がないのだが、不安や恐怖を前にした彼女は、介抱してくれた笹木に好意を抱いたのだろうか。
私が絢子に事情を聞こうと近付くと、笹木が腕を掴んで顔を寄せる。
「あなたは、騒動を調べていると聞いたのですが、今回の事件のことで、一つお耳に入れたいことがあるのです」
「うん?」
「私は、この船の乗組員が乗船客を突き落とした犯人だと思うのです。あのときの状況を思い出してみたのですが、絢子さんが悲鳴をあげる直前、重い石を海に投げ入れるような水音を聞きました」
「船員が、救命浮環を投げ入れた音ではありませんか?」
「いいや、そんな軽い音ではなかったです」
絢子の証言では、奥山が身投げするところを目撃していないければ、展望通路の騒ぎを聞きつけて恐怖感に苛まれて悲鳴をあげた。
しかし笹木の話が確かなら、絢子が悲鳴をあげたのは、何者かが奥山を海に突き落とした直後であり、彼女は現場を目撃した可能性がある。
「少しはお役に立てましたか?」
「ええ、貴重な情報です」
笹木は当初、絢子が犯行現場を目撃したと証言しているし、彼女が犯人隠避のために偽証していると考えれば、確かに辻褄が合う。
私が演台で膝を抱えた絢子を見つめていると、顔を上げたので、しばらく視線を交わしてから会釈した。
【補足】
日本帝国の統治下にあった満洲国は当時、旅券(パスポート)が不要だった。満蒙開拓移民は日本国籍のままだったが、移民団は関東軍作成の移住計画をもとに『二十カ年百万戸送出計画』(国策)で各自治体から送り出されている。また満蒙開拓移民には、多くの農業経験のある予備役軍人から選ばれており、母国との自由往来が出来なかった。
【登場人物の動向】
青木勉:操舵室から乗船客の落下を目撃した副船長。
太田三徳:騒動時に就寝していた船長。