02 黄海に消えた男
昭和十三年桜咲く頃。
満洲国錦州省から出港した民間籍の旅客船は、内地からの往路こそ満蒙開拓移民で船室も埋まるが、外地からの復路は雑魚寝で向かう三等船室でも窮屈なところがない。
それでも同行している関東軍憲兵隊の上官であり、兄の黒羽武陸軍少佐の取計いで二等船室の個室をあてがわれた。
錦州港を日暮れに出港した客船は、長崎の佐世保を経由して目的地の横浜港に三日もあれば到着するのだが、自分だけが道中を個室で過ごして、養子である私を窓のない船室に放り込むのが心苦しいらしい。
私が戦場に捨て置かれた孤児であれば、どのような扱いであれ、養子に迎えてくれた黒羽家の嫡男を妬むことがないのに、兄はそうした気遣いを欠かさないでいる。
それは有難いことではあるものの、陸軍士官学校の進学を遠慮して関東軍に志願した一兵卒が、陸軍将校と同等の扱いを受ければ、身内贔屓だと陰口を叩く者もいるだろう。
「私の階級だって過ぎたものだ」
甲板の展望通路を歩いていた私は、弥生朔日の真暗な海に独り言る。
客船の四方に暗闇が広がっていれば、最早内海を抜けて黄海に出たのであろう。
この洋上には、私と黒羽少佐の馴れ合いを詮索する者がいないのが心を軽くして、僅かながら旅情気分に浸らせてくれた。
それから数刻のうち、あのような事件に巻き込まれなければ、安穏として帝都見物の予定でも立てていただろう。
「関東軍が現在、盧溝橋事件に端を発した国民党軍との戦時下にあれば、少佐を内地に呼び付ける訳合が気になりますね」
私を自室に招いた黒羽少佐は、白い鞘の軍刀を支えにして椅子から立ち上がると、私に背を向けたまま横顔で執務机に視線を落とした。
軍服の詰襟を指で抜いて整えた私は、机上に置かれた宛先のない封書を手に取ると、それが黒羽少佐が内地に赴く訳合なのだと理解する。
「コミンテルンに感化された蒙古の連中が、満洲国との国境線に赤軍を招き入れているのは知っているな」
「参謀本部が満洲南方境界を下げなければ、フルンボイル平原での対ソ戦は不可避でしょう。モンゴル人民共和国は、ソ連の傀儡国家です」
「日本帝国が満洲領有論の主張を続ければ、関東軍は蒋介石の国民党軍ばかりか、南方において赤軍との交戦を覚悟しなければならない。反共運動に転じた中華民国との講和を急がなければ、大陸での覇権を赤軍に譲ることになるだろう」
「満洲を中華民国に明け渡す?」
「日本帝国には、対ソ戦に備えて同盟国が必要だ」
黒羽少佐は、参謀本部に呼び付けられたのではなく、関東軍上層部の密書を携えて、帝都の参謀本部に直参すると思われる。
密使の内容は、満洲領有論に異論を唱えて、かつ満洲南方フルンボイル地区からの撤収を進言するものだろうと見当がついた。
まずは蒋介石と適当なところで手打ちにして、ソ連赤軍に対する挑発行為を避けるのが、現実的な対中講和だと思われるからだ。
しかし上海で負傷した植田謙吉司令官には参謀本部に直訴する度胸がなければ、関東軍司令官は外交官である駐満大使を兼任しているのだから、わざわざ軍令憲兵に頼る必要がない。
「なるほど、差出人は参謀長ですか」
東條英機陸軍中将は、帝都の陸軍省軍事調査部長から関東軍参謀長を歴任していれば、コミンテルンに影響された関東軍将校らの検挙にも尽力している。
反共運動に力を入れる東條閣下の直訴ならば、満洲領有論の再考に一石を投じられるかもしれない。
「お前は、やはり底が浅い」
黒羽少佐は微笑を浮かべて向き直ると、私の推察を否定した。
「俺が軍令憲兵に選任されたのは、東條閣下の着任前ではなかったか。それに統制派の閣下が、満洲派を気取る関東軍将校に大事を託すはずがない」
「ああ、東條閣下は統制派でしたね」
となると、黒羽少佐が関東軍の都合で内地に赴くと理解しても、私のような一介の軍人には、満洲領有論に異論を唱える将軍に心当たりがない。
いやいや、不拡大方針を提唱する将軍ならば存じないこともないのだが、この時局にあって国民党軍に阿った対中講和は反感が大きい。
いずれ歴史を紐解けば、満洲の利権を捨てて対中講和を推進するなんて大胆不敵な人物も明らかになるだろうが、目下のところ言い当てたとしても、私に利することがなそうだ。
「私のような愚弟には、少佐の考えが解りかねます」
「謙遜するなよ」
私は、黒羽少佐に試されているのだろうか。
しかし相手の意図が解らぬうちは、閉口しているのが得策だと承知している。
「やけに静かだな?」
黒羽少佐は会話が一段落すると、船体に当たる波音に耳を欹てる。
沈黙した私をからかっている様子はない。
「機関部が停止しているようですね」
「こんな沖合いで停泊するのか」
「よもや海賊に襲撃されたとは思いませんが、様子を見てまいりましょう」
私は足の悪い黒羽少佐を残して船室を出れば、投光器に照らされた甲板では、船員が探照灯を暗い海上に向けており、それを遠巻きにして数人の乗客が見守っていた。
私が騒ぎの原因を野次馬に問い掛ければ、顔面蒼白の御婦人に連添っていた男が、乗客の一人が甲板から海に身投げしたらしく、船を停泊して捜索中だと教えてくれる。
「お嬢さん、気をしっかり持ってください」
「お気になさらず、もう大丈夫です」
男に背中を擦られている御婦人は中條絢子、柄物のブラウスに赤い肩掛け、丈の長い暗色スカートの装いである。
背広姿の男は笹木正男、商いの買付で内地に戻る満蒙開拓移民とのことだったが、余所余所しい二人には面識がないように思われた。
「身投げしたのは、御婦人のお連れですか?」
「いいえ」
私の問いに首を横に振った絢子は幼少の頃、高波に襲われたことがあり、そもそも船旅が苦手なところに、乗客が海に落ちたと聞いて青ざめたと言う。
絢子は出港から船室に籠もっていたものの、狭い船室で波音を聞いても気分が滅入るので夜風に当たろうと、展望通路に出てきたらしい。
「あなた方は、身投げするところを?」
「私は目撃したわけではないのですが、どうやら彼女が見ていたようなのです。悲鳴を聞いて駆け付けると、ここで腰を抜かしておりました」
笹木が肩をすくめるのだが、絢子は、ただ船員が『男が身投げしたぞ』と騒ぐものだから、恐ろしくなっただけだと強く否定した。
「おいッ、突き落とされた乗客は誰なんだ!」
濃紺の背広に山高帽を被った男が、短艇を海上に下ろしている船員の首根っこを押さえている。
自ら身投げしたのかも知れないのに、突き落とされたと騒ぎ立てる男の言動には首を傾げるところだが、暗い海に漂っている何者かに、そうした訳合があると知っているなら得心できた。
「どちら様ですか?」
「俺は、朝鮮軍の九重義一陸軍中尉だ。取り急ぎ船から消えた者を特定して、俺に報告してもらいたい」
「わかりました」
しかし船員に詰め寄る朝鮮軍の九重中尉は、誰が誰を突き落としたのか知らない様子であれば、訳合に思い当たるふしがあっても、事態の全容を把握していないのだろう。
「九重中尉は、身投げした者に心当たりがあるのですか」
「貴様は?」
余計なことに首を突っ込むのは、知りたがりの性分のようだ。
沈黙は金と承知しているが、不穏な動向を嗅ぎ当てれば口を挟まずにいられない。
九重中尉は、私の襟章を一瞥すると、下士官の分際で話し掛けるなと言って避ける。
私は普段、軍の階級に敬意を払っているものの、九重中尉のように権威を笠に着る態度は、やはり癇に障るものだ。
「九重中尉の言うとおりだとすれば、関東軍憲兵隊の私には事情を知る立場にあると思います」
「関東軍憲兵隊が、なぜ民間船に乗船しているんだ」
「兄の黒羽少佐が、帝都に野暮用があるらしいのです」
「関東軍将校が、この船に乗船しているのか?」
「ええ、上官の命令が必要なら呼んできましょう」
虎の威を借る狐のような意趣返しは大人気ないが、九重中尉のような男には効果覿面だった。
「しかし、この船は錦州省を出港しているが、公海上での事件は管轄外のはずだぞ」
「九重中尉に後ろ暗いところがなければ、ぜひ話を聞かせてもらいたい」
九重は顎に手を当てて沈黙した後、誰が被害者なのか解らなければ、そもそも事件なのかも解らないと、今さらながら体裁を整えた。
私の見立てたところ、九重中尉は身投げした者と面識がないものの、こうなった訳合を存じており、私の身分を知って取り繕った様子から、そこに心疚しい事情が介在する。
「ところで九重中尉は、どんな要件があるのですか?」
「友人の墓参りだ」
「墓参り?」
「貴様にも、弔ってやりたい友人くらいいるだろう」
「ええ、まぁ」
九重中尉の問い掛けには、曖昧な返事で誤魔化した。
私には友人と呼べる者がいなければ、しがらみになり得る人間関係を煩わしいと忌避さえしている。
乗り合わせた朝鮮軍の陸軍将校とは、一先ず別れて黒羽少佐に報告に戻れば、程なくして乗船名簿を携えた船員が、暗い海に投げ出された者を特定するために船室を訪ねてきた。
「身投げした者は、点呼に応じない一等船室の奥山高貴様だと思われます」
私たちが軍令憲兵の身分を明かして船員に事情を聞けば、乗船名簿を捲りながら答える。
「奥山の素性は解るかね?」
「奥山様は単身で乗船していれば、旅券も確認していないので身元が解りません」
日本の影響下にある満洲国への渡航は、旅券の発行が免除されており、奥山なる人物の身元は乗船名簿から明らかにならない。
とはいえ、観光気分で満洲国と内地を自由往来できるはずがなく、彼の持ち物を確かめれば、自ずと素性に辿り着くというものだ。
「お前なら、九重とやらを出し抜けるだろう」
「少佐は、何かしらの事件だと考えているのですか?」
「単なる事故であれば、それを明らかにすれば良いし、私服で乗船している陸軍将校が事件だと騒いだのであれば、その訳合を確かめる必要がある」
「目の前の事案に名乗り出た九重中尉が、私たちの同業者とは思えませんが……」
黒羽少佐は、軍服を脱いでいる九重中尉を朝鮮軍諜報班と疑っているようたが、想定外があって身分を明かすなら三下の工作員である。
「それは、私が確かめよう。九重は、権威に弱いらしいからな」
「わかりました」
部屋の前に待たせていた船員には、奥山が事件に巻き込まれた可能性があるので他言無用だと口止めすると、彼の案内で一等船室に向かった。
【補足】
黒羽少佐に任務内容(密使)を問われた主人公は、対ソ戦を控えた関東軍上層部が対中講和(停戦)を急いでいると知っており、兄が『対ソ戦に備えて同盟国が必要だ』とも言うので、同盟国=中華民国だと考えた。抗戦姿勢にある東條英機参謀長が一転して、満蒙領有論に異議を唱えて国民党軍との同盟関係を模索するなら、確かに対中講和が成功するだろうと考える。
しかし黒羽少佐は、楽観論を述べた主人公を『底が浅い』と一蹴している。東條は、国民党軍との徹底抗戦の考えを捨てるはずがない。黒羽少佐に任務内容を託したのは、まず東條ではなかった。
黒羽少佐の言っている対ソ戦を意識した同盟国は、中華民国ではない。
【登場人物の動向】
中条絢子:旅客船の展望通路で悲鳴をあげた女性。
笹木正男:絢子の悲鳴で駆け付けた満蒙開拓団移民。
九重義一:乗船客が突き落とされたと騒いだ朝鮮軍将校。
黒羽武:主人公に騒動の調査を依頼した関東軍憲兵。