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燕の騒乱  作者: 梔虚月
第一部 鳩の密告
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01 木陰に潜む者

 新聞記者の佐野(さの)(しゅん)()は昭和十年夏、兵庫県神戸市内某所にて、匿名を条件に海軍青年将校を中心とした反乱事件(五・一五事件)で、直前まで共同歩調にありながら、決行に参加しなかった陸軍青年将校の()(のう)(よし)(かず)陸軍中尉に対談を申し入れた。

 対談に応じた九重は当時、思想家の(きた)(いっ)()よるところ日本帝国は『元老や重臣、軍閥、政党、財閥などの天皇の取り巻きによる独裁状態』と定義して、国是である天皇親政の政権樹立に共感していたものの、時期尚早であると袂を分かったと語っている。

「海軍青年将校と士官学校生が天皇親政を唱えて武装蜂起した当時と今では、いったい何が変わったんですかね?」

 ペンを止めた佐野は、向かいの椅子に座る九重に問い掛けながらも、彼の後ろで手を組んでいる若い兵隊を見上げた。

 ()()宗介(そうすけ)は、三揃いを着て対談会場に現れた精悍な顔立ちの少年であり、九重の紹介がなければ軍人だと解ろうはずがなかった。

 しかしどうして十代半ばの年頃を考慮すれば、弓田が反乱事件の内実を知るはずがなければ、小姓のように鞄持ちに徹している様子もない。

 壁際に立った弓田は、佐野との対談に応じた九重を見下しており、陸軍将校の一挙手一投足を監視している気配さえあるのだから、ひどく場違いな存在に思えた。

 九重は男色家で、美少年の弓田を見せつけるために連れ歩いているのだろうか。

 これは下衆の勘繰りではあるが、九重の大袈裟な身振り手振りは、まるで背後に立っている弓田の視線を意識しているようなのだ。

「帝国議会は今でも元老や重臣、財閥の息が掛かる貴族議員を中心とした政党政治に明け暮れている」

 そんなことを薄ぼんやり考えていた佐野は、長考の末に口を開いた九重に目を向けた。

「状況は変わっていない?」

「資本家階級の傀儡から帝国議会を取り戻さなければ、皇民の生活はますます困窮するだろう。大命降下で誕生した岡田内閣では、憂国の士の本懐を遂げたと思わない」

 九重にしてみると、海軍大将の(おか)()啓介(けいすけ)内閣総理大臣の組閣も、元老や重臣が天皇に助言した大命降下であり、天皇親政を掲げた反乱事件の成果とは言い難いらしい。

「では士官学校事件(十一月事件)のような不祥事は、これからも続くのか」

 九重は『不祥事?』と、皇道派の青年将校が、陸軍士官学校生を扇動してクーデターを計画して逮捕された事件を()()()()()()()佐野を睨みつけた。

「俺が貴様との対談に応じた訳合は、軍関係者に燻る不満の捌け口なんて安っぽい感情ではないぞ。おためごかしの軍閥政権が、物事の本質を曇らせている現状を知らしめるために、革命の志を総括したいのだ!」

 九重がテーブルを叩いて威嚇する。

「わかっています。反乱事件後の海軍省を収めた岡田海軍大将が首相に任命されたところで、資本家階級が議会を牛耳っている現状は変わらない。九重中尉との対談を現内閣の醜聞として、殊更に騒ぎ立てるつもりはありません」

「そうか」

 佐野が視線を落として九重の高圧的な態度をいなすと、その様子を見ていた弓田は口元を拳で隠して苦笑した。

 佐野は新聞紙面での連載終了後、九重との対談をまとめた本を出版するのだが、大戦後の世界恐慌による経済の悪化や、国際連合国を中心にした排日運動などの国際情勢を現内閣に問う内容となっており、軍関係者の中で取分けて海軍優勢の現状に不満を抱く陸軍関係者で大きな反響を得た。

 佐野は保守派の論客ではなかったので、著書が意に反して軍関係者から評価されたことに戸惑いもあったが、本の出版により彼らとの繋がりができて、とくに皇道派の陸軍将校らが漏らす不平不満を耳にする機会が増えたのは有難かった。

 なぜなら佐野が皇道派に好意的と勘違いされて、政党政治に先鋭的な彼らの内情を知ることが、思わぬ飯の種になったからだ。


 ◇◆◇


「あれは残念だった」

 弓田が佐野宅を訪ねてきたのは昭和十一年年明け、神戸市山側の閑静な住宅地に軍用車で乗り付けた彼は、軍帽を目深に被り、陸軍将校の肩章が付いた外套を羽織っていた。

 また弓田の変貌ぶりは服装だけに留まらず、顔面を白塗りにして潰していれば、唇に真っ赤な紅を引いている。

 弓田は白塗りのせいで人相が曖昧であれば、玄関に立っているのは、軍服を纏ったのっぺらぼうのようで薄気味悪い。

 佐野は、そんな面妖な軍人に心当たりがいなければ、弓田が名乗るまで、九重が伴っていた背広姿の美少年と気付かなかったのである。

「その顔は、どうした」

「ああ、日焼け止めならお構いなく、任地で日にかぶれる持病が悪化してね」

 不審に思った佐野だが、弓田に病気だと言われてしまえば、それ以上のことを詮索せず、わざわざ自宅を訪ねた要件を問い質す。

 軍関係者との交流が増えたとはいえ、人目を忍んで自宅に押し掛ける不躾な軍人はいなかった。

「君が広く伝えたかった内容は、帝都混乱を画策した青年将校らの暴走に対する批判であり、士官学校事件で検挙された陸軍将校の憂さ晴らしではなかったはずだ」

 佐野は弓田を応接間に通すと、ソファーに向かい合って腰を下ろした。

 若輩にして下士官の軍服を着ている弓田は、九重との対談で身分を偽っていたらしく、その物言いから、陸軍中尉より身分が上だと推察する。

「そうだろう?」

「え、ええ……。いいや、そうじゃない」

 佐野は一旦認めたものの、詰め寄る弓田の意図をはかりかねて踵返に否定した。

 対談に応じた九重には『不満の捌け口ではない』と、釘を刺されたものの、彼の言葉を通してみれば、総じて反乱事件に乗り遅れた陸軍青年将校の悲哀を感じるし、そうと解っていたから弓田も嘲笑したはずだ。

「あんただって、笑ったじゃないか」

 弓田は『つまらん男だ』と、深く座り直して吐き捨てた。

「要件はそれだけか?」

「いいや。君は気骨のある記者ではないが、長い物に巻かれるほど小心な男でもない。私が思うに、君は信念より功名心が勝るのだろう」

「あんたが何者か知らないけれど、俺にだって曲げられない信念がある。対談内容が意図するものでなかったとしても、事実をありのまま伝えたはずだ。提灯記事を書いたつもりがなければ、侮辱される謂われがない」

「これは賛辞だよ。君は、革命を企てた陸軍士官学校生が逮捕されたばかりで、彼らの主導的立場にある陸軍将校に対談を申し入れた。君の接触を警告と受取る者がいれば、時計の針を進めようと色めき立つ連中もいる」

「俺は単なる新聞記者で、思想家でもなければ主義者でもないぜ」

「九重中尉のような近視眼的な軍人は、己の不甲斐なさが海軍の後塵を拝することになった現実を認めたくなかった。だから身内の恥を侮辱されて腹を立てていたし、日本帝国の国体を盾にして愚行を正当化する材料が欲しかった」

「身内の恥とはなんだ?」

「海軍青年将校の反乱事件を模倣して、未遂に終わった士官学校事件だ。九重にとっては、政党政治の批判や天皇親政などお題目でしかない。問題なのは、海軍に先を越されたことだ」

「なるほど」

 佐野は膝に肘をついて手を組むと、嫌気がさした顔を乗せた。

 海軍青年将校らが首相官邸を襲撃して犬養(いぬかい)(つよし)首相を暗殺した五・一五事件の決行を躊躇った九重には、やはり陸軍が捨て置かれている現状に苛立ちがあるのではないか。

 そして弓田なる若輩は、懐古の念に囚われる陸軍将校を小馬鹿にして踏ん反り返っているのだから、身内に批判的な立場だと見受けられる。

 そうと思った佐野には、一つの疑問が脳裡に浮かぶ。

「あんたは、先ほど『色めき立つ連中がいる』と言ったが、それは九重中尉のことかい?」

「九重中尉の背中を押したのは、まさか無自覚だったのかね」

「対談では、なぜ海軍青年将校が武装決起したのか、当時と現状の変化について書いたつもりだ。反体制的な内容に仕上がったのは、そもそも結果論に過ぎない。その証拠に海軍青年将校の反乱事件では、何も変えられなかったじゃないか」

「それこそが、君の主題だったと?」

「革命なんて言葉に踊らされて陸軍将校が決起しても、海軍に遅れを取った陸軍上層部に利用されるだけだ。あんただって、それを理解しているはずだ」

 弓田は笑いを噛み殺すと、仰々しく両手を広げた。

「君は、大衆扇動に長けた新聞記者という立場を理解した方が良い。君の著書は、確かに帝都に混乱を招いた反乱事件を是としてないが、それは現状に変化がないからだと言わんばかりだ。大衆が海軍青年将校の反乱事件を是としないのは、革命に失敗したからだと」

「革命に成功すれば、大衆は是認する?」

 弓田は片脚を組むと、そうだろうとでも言いたげに首を傾けた。

「そんな馬鹿な解釈があるものか」

「忠臣蔵の赤穂浪士は反逆者か、それとも主君の恨みを晴らした忠義者か? 結果が同じでも、見る者の数だけ真実がある。九重のような文盲は、君のようなインテリゲンチャが海軍青年将校の反乱事件を総括したことで、これを以て正当性を主張するだろう」

 九重に同行した弓田には、対談に応じた陸軍将校を監視していた雰囲気があれば、彼の目的は、士官学校事件のような陸軍内部の不祥事を未然に防ぐのが目的であろう。

 陸軍省には現在、不祥事を未然に防ぐことを目的とした部署があると囁かれていれば、弓田は陸軍省から派遣されて反乱を企む輩、よもや九重の動向を監視していたのではないだろうか。

 しかし佐野の著書が不穏分子を焚き付けたとしながら、責めるどころか称賛するような物言いなので辻褄が合わない。

「あんたは、俺を不穏分子の炙り出しに利用したのか? 対談に同席していたのに、九重中尉の発言を止めようとしなかったな」

「それこそ結果論だよ。しかし、そうだな」

「何が言いたい?」

「陸軍内部で反乱を企む勢力は、世論に後押しされて機が熟したと考えたようだ。これが誰かの策略だったのならば、そいつは君を利用したのだろう」

「まるで他人事だな」

「筆を執ったのは、誰でもない君だからね」

 佐野は固唾を呑むと、寡黙な印象だった弓田が雄弁に語る様子に違和感を覚える。

 弓田だと名乗られて侮っていたが、奇抜な人相を差し引いても、これ程までに印象が変わるものだろうか。

「あんた、いったい誰だ?」

「私の身分を疑うのなら、舞鶴にいる君の友人に問い合わせてみると良いだろう」

「京都の要港部? 舞鶴は海軍区じゃないか」

 弓田の階級章は陸軍であり、舞鶴要港部は海軍区の管轄である。

「舞鶴には満洲から寄港しただけで、私の軍籍は帝都の陸軍省にある」

 弓田が陸軍内部の不穏分子の炙り出しに関わっているなら、これ以上の追求に意味がない。

 佐野の交友関係を頼って、満洲からの乗船名簿に名前が有るや否やを調べたところで、それが目の前の弓田と同一人物なのか確かめようがないのである。

「俺は、あんたの片棒を担がされたわけだ」

 弓田の素性について知り得たことは少ないが、来訪してきた白塗りの軍人は、続く言葉で、九重との対談に同席した少年と別人だと確信に至った。

「こうして君と話してみれば、一先ずコミンテルン(国際共産主義運動の指導組織)の手先ではなさそうだし、物怖じしない性格で人好きのする男だった」

 佐野の人物評価は、まるで初対面である。

 それも明らかに年長の目線だった。

「俺の著書が役に立ったのなら、あんたが見据える日本帝国の未来について対談に応じてもらえますかね。陸軍内部に反乱の兆候を見つけながら、彼らの愚行を増長するように動き回っている。俺が新聞記者と知りながら手の内を明かすなら、狙いは素性を洗ってからの口封じか、この先も利用できるのか見極めるつもりだろう」

「君は私を誤解しているが、利用価値を認めているのは確かだ」

「対談は?」

「それは保険かね。いいや、君の本心を確かめる手段ならば、すぐにでも用意できるだろう」

 ソファーから立ち上がった弓田は、応接間の掃き出し窓から雲行きの怪しい空を見上げる。

「燕が軒下を飛ぶには早すぎるか」

「燕?」

「燕は雨が降る前、低いところで羽虫を捕えるものだ」

 弓田は佐野の自宅を後にするとき、電話番号を預けていったのだが、彼が白塗りの陸軍将校に対談を申し入れたのは、同年二月に皇道派の陸軍将校らが武装蜂起したクーデター未遂事件(二・二六事件)から半年後であった。


 ◇◆◇


 私が見立てるところ、弓田は壮年のように小賢しく振舞う少年であり、少年のように無邪気に振舞う壮年の男なのだ。

 また弓田の声色は、時として女のようであれば、名前と美少年だったとの佐野の先入観が性別を決定しているだけであり、その点において彼を男性と決めつけるのも早合点な気がする。

 佐野によると、弓田の軍歴は昭和十年に満州首都で関東軍にあって、翌年二月の帝都不祥事事件と前後して陸軍省に転属したのであれば、士官学校事件の後始末として内地に派遣されていた私の足跡に重なる事実があった。

 そういった訳合であれば、私を弓田宗介だと名指しした九重の証言が、上官に疑念を植付けたであろうと推察された。

「あの事件の顛末には、私の潔白を証明する手掛かりがあったように思う」

 帝都の陸軍省に直参する上官の身代わりとして、貴院議員の護衛任務を任された私は、信州奥処に向う鉄道院中央本線の汽車に乗込むと、満洲から乗船した旅客船で起きた殺人事件に思いを馳せる。

【補足】

 五・一五事件は昭和7年5月15日、天皇親政の下での国家改造を提唱した北一輝の影響を受けた皇道派の青年将校が、陸海軍共同での決起を目指した反乱事件。ただし陸軍の皇道派は、これを時期尚早と決裂したために海軍青年将校だけが昭和維新を掲げて首相官邸他を襲撃すると、犬養毅首相を銃殺。そして犬養首相他、警察官1名の人命を奪った海軍青年将校だったが、政党政治への高まる反感から助命嘆願運動が巻き起こるなど、極刑を免れている。


 九重義一は決起直前まで、海軍青年将校と行動を共にしていた皇道派の陸軍青年将校であり、佐野には、反乱事件に参加できなかったことを悔やんでいるように見えた。


 佐野俊二が九重義一に対談を申し入れた理由は、世論が政党政治の腐敗に反乱事件を起こした皇道派の青年将校に同情的だったこと、佐野が反権力・反体制志向の新聞記者だったことに起因する。佐野自身は皇道派の語る天皇親政などのイデオロギーに興味がなければ、それ自体が権力の移譲でしかないと達観していた。

 しかし佐野は、九重に『軍関係者(冷や飯を食わされた陸軍)の不満の捌け口じゃない』と詰め寄られたとき、『現内閣の醜聞にしない』と答えており、傀儡であっても陸軍の軍閥政権誕生を阻まないと言うのだから、彼が対談を申し入れた理由は、反権力・反体制志向より売名行為が勝っているのは確かだった。


 弓田宗介は、佐野が対談本を出版したことで、九重義一が後の帝都不祥事件(二・二六事件)の計画に加担したと示唆しており、九重のような愚民は、五・一五事件で決起した海軍青年将校を『忠臣蔵の赤穂浪士』のように考えて、行動を起こしていると嘲笑した。

 佐野は、弓田を反乱事件を未然に防ぐために皇道派に潜り込んでいる陸軍省の諜報員だと考えるが、弓田の行動は、むしろ九重(陸軍)が反乱事件を起こすように仕向けていた。そこで自分を殺すのか、利用するのかと二択を迫る。新聞記者の佐野は、プロパガンダや世論煽動に利用するつもりで弓田が接近したと考えた。


 最後に二・二六事件で決起した皇道派の陸軍青年将校は『血気にはやる青年将校が不逞の思想家に吹き込まれて暴走した』とされて、首謀者の多数が反乱罪で極刑ないし無期懲役、決起に賛同した者も末端に至るまで懲役刑が判決された。弓田が準えた赤穂浪士の末路を彷彿とさせることから、彼は反乱事件で決起した陸軍将校の末路を知っていた可能性がある。

 九重は対談から3年後、昭和13年3月、満洲の錦州港から内地に向かう旅客船に乗船していれば、極刑も懲役刑も免れており、二・二六事件で決起していなかったと思われる。

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