春の彼女
彼女だ。いや違う。そんなはずはない。彼女は死んでしまったのだから。
彼女がこの世を去って十年が経つ。けれども僕は何回も彼女を街中で見かけている。正確には似た人と言うべきだろうか。僕は彼女の死を受け入れることが出来ず、無意識に彼女を探しているのかもしれない。
春だ。彼女が逝った春だ。優しそうな風が肌に絡みついた。曇りがちな空はか細い光で人々を照らす。僕はまた彼女を見かけた。足早にその場を通り過ぎようとした。その時だ。
「待って」
後ろから声がした。振り向くと、そこには彼女が立っていた。なぜかそれが当然の出来事のような気がしたのが不思議だった。
「お茶しよ」
彼女は紅茶が好きだった。言われるがままに僕は彼女と歩き出した。よく二人で行ったカフェ。
「あ、あのカフェは閉店したんだ。もう随分前に……」
僕がそう言うと、彼女は首を横に振った。
「目を瞑って」
彼女は僕の手を掴んで、飛んだ。いや、そんな気がしただけかもしれない。
「見て」
満開の桜の大木の奥にあのカフェがあった。まだやっていたんだ。懐かしさが込み上げてくる。
「いらっしゃいませ」
見覚えのある店員が席に案内してくれた。そうそう、この一番端のソファ席。僕が座るとソファがどっぷりと沈んだんだ。それを見た娘がツボにはまってしまい笑いが止まらなかった。それが君に伝染して君と娘はいつまでも笑っていたんだ。ここは、僕と君二人の場所から、娘が出来て三人になっても通いつづけたカフェだった。
「ええと、僕はブレンド。君は紅茶と、ケーキも食べるだろう?」
僕はメニューを眺めながらあの頃のように彼女に聞いた。
「ぼくも食べたい」
「え?」
見ると十歳ぐらいの男の子が彼女の隣に座っていた。
「あのね、お母さんはチョコレートケーキが好きなんだよ。お姉ちゃんはシフォンケーキだよ」
男の子はそう言うと僕をじっと見つめた。
「でもぼくはまだ食べたことがないから、何が好きなのか分からないんだ。お父さんはいつもコーヒーしか飲まないね」
お父さん? そうなのか? もしや、この子は彼女のお腹の中にいた僕の息子なのか? 彼女と一緒に死んでしまった、まだ見ぬ息子なのか? 僕はしばらく言葉を発することが出来なかった。
「ごめんね」
彼女が呟いた。
「あなたもお姉ちゃんもこの子が生まれてくるのを楽しみにしていたのに」
「君のせいじゃない。誰のせいでもない。あれは事故だったんだ。それなのに、わかっているのに、僕はいつまでも前に進めていない気がする。情け無いよ」
彼女は静かに言った。
「この子と一緒に見ているから。私たちは何にも出来ないけれど、どこにいても、ずっとあなたたちを見ているから。それを忘れないで」
◇◇
そこはいつもの雑踏の中だった。僕はスーパーに寄り、夕食の材料を買って家路に向かっていた。
「あ、お父さん」
学校帰りの娘に出くわした。
「おかえり、今日は早いんだな」
「うん」
薄暗くなって風が少しだけ冷たくなった。桜の花が青白く光っているように見える。
「お父さん、今日さ、お母さんにそっくりな人いたんだよ」
「そうか」
「うん」
しばし沈黙が続いて僕と娘の足音だけがテンポよく刻まれ響く。
「なあ、今度一緒にシフォンケーキ食べに行こうか」
娘は一瞬驚いて僕を見た。
「お父さん甘いもの食べないのに?」
「いや、挑戦しようと思って」
「まじか」
すると、いきなり娘が走り出した。
「なあ、行くのか? 行かないのか?」
僕は娘を追いかけて走り出した。